辺境遊戯・改訂版

渡来亜輝彦

序章

序:日蝕

 ***


 その男の死は、帝国の崩壊の始まりを告げるものだった。


 ***


 既に太陽は食われつつあった。

 黒い靄のような、触手のようなものが太陽の表面を撫でるように広がり、陽光は遮られ、丸い形が現れている。

 それは通常の日蝕とは違う異常なものだった。しかし、人々はまだそのことに気付いていなかった。ただ不穏さを感じながら、その男を護送して山道を急いでいた。それは彼らにとっても陰鬱な仕事だった。山道は、半分『辺境』に近しい場所、いわば境界線に当たる場所であった。『辺境』の森は、通常の森とは違う異常な生態系を持ち、人の立ち入らざる場所だった。

 そして、護送されているその男もすでに狂っていた。いや、狂っていたとされている。

 その男は、しゃれた男だった。取り立てて美男子ではなかったが、どこか冷たい視線を持った色気のある男で、少なからず魅力的だった。黒の服に黒の外套、黒のターバンを巻き、赤や青の宝玉のついたターバン飾りで飾っていた。しかし、今は砂埃に塗れた黒の外套を痩せた体に羽織ったまま、山道をよろけながら歩くだけだ。その瞳にはかつての輝きはない。時折笑っているようだったが、何に対して笑っているのかわからない。

 唯一その右手には、まだ指輪が残されていた。紅玉のついた金でできたもので、印章としても使われる宰相の証だ。まだ正式に罷免ひめんされていない彼は、宰相の印だけは取り上げられていなかった。

 ギルファレス帝国の、そして同盟国である二つの国と三つの都市の宰相として権勢をふるった彼は、かつての姿を知る者からは哀れを催すほどに零落れ果てていた。彼はこのまま、ギルファレス帝国の帝都に送られ、そして処刑される身だった。彼が狂ってしまったとしても、それは当然のことなのかもしれない。

 彼らは谷の近くを通りがかった。崖があり、下には谷川がごうごうと音を立てて流れている。足を滑らせると助からないので、一行はゆっくりと足を運んでいた。

 その時、唐突に男が動いた。縄を引いていた兵士に体当たりして振り切ると、彼は崖を背にしていた。

「逃げるつもりか! 逃げ場はないぞ、観念しろ!」

 すぐさま兵士が彼の周囲を取り囲んだ。男の背では、谷川の激しい水音が聞こえてくる。

 しかし、その時、唐突に空が暗くなった。黒い靄のようなものが太陽を一気に覆いつくし、日蝕を起こしていた。強い風が吹き、森の木々が悪魔のようにざわめいていた。空では太陽の周りを不気味な光だけが取り囲み、彼らは恐怖に駆られて悲鳴を上げた。

「聞け!」

 その中で、男の声が聞こえた。威厳のあるよく通る声だった。

「お前たちも見た通り、太陽は闇に喰われた。これは森の呪いに他ならない。辺境の森を統べる大地の母は、汝ら森を穢すものを許さない。俺があれほど言ったにもかかわらず、お前たちの王は俺の話に耳を傾けなかった。帝国の運命はもはや決まった!」

 いつの間にか、男は手首にかけられた縄をほどいていたようだが、暗いためにその表情はわからなかった。

「俺が死ねばもはや後戻りすることもできないだろう。これが、終わりの始まりというわけだ。ははははは、貴様らの王に伝えるがいい。暗闇の世界の中で呪われよ! 先に地獄で待っているぞ!」 

 男は笑いながら、右手を掲げた。その中指に宰相の証である指輪が嵌っていた。

 処刑される予定の男とはいえ、途中で逃がすわけにもいかない。護送の兵士たちは捕まえるか、殺すかしなければならない。彼らは慌てて男に駆け寄ろうとした。

 男は冷めた目で彼らを見下ろし、冷たくゆがんだ笑みを浮かべていた。

 兵士たちの武器が男の体を傷つけようかというときに、男の右手から真っ暗な世界に紅い光が放たれた。暗い森の中でその紅い光は、兵士たちの目を射抜いた。彼らはしばらく何も見えなくなった。ただ、何かが水に飛び込むような音が聞こえてきた。


 光が消え去り、日蝕が終わり、世界に再び陽光が降り注ぎ始めた。兵士たちの隊長がいち早く我に返ったとき、すでにその男の姿はそこにはいなかった。彼らは、男が崖から身を投げて自殺したのだと考えた。捜索が行われたが、ついに死体は上がらなかった。


 後世、冷酷非情なギルファレス宰相として知られ、各所の伝説で悪逆非道の限りを尽くすその男の、史実での最期はそのようなあっけないものだった。


 

 ――その男の名は、レックハルド=ハールシャーという。




 ***




 ふいに空が暗くなった。

 視線をあげると、輝いていた太陽がみるみるうちに闇に食われていった。しばらくまた暗くなる。


 また日蝕がおきたのだ。これで昨日から何度目だろう。


 彼はそう思いながら道を歩いていた。

 傍目には、森が広がっていた。あの森、いや、厳密には、森というより、砂漠や平原、湿地や水辺を含む、全体的な領域のことを言ったほうが正しい。 

 あの未開の場所のことを、『辺境』と人は呼んでいる。普段は、立ち入るものはいない。あれを臨むかたちにつくられた街道から、彼ら人間は辺境のほうをのぞむのである。

 彼は乾燥地域の出身である。ここ周辺は、それに比べると湿潤とはいえたが、それでも、やはり乾いた印象がある土地だ。ただ、森を望のぞむ街道は、辺境の密林の影響なのか、いつも少しだけ涼しいところがあった。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……。今日は、三回目だな」

 その彼は、ちょうど日蝕で暗くなり行く空を見上げているところだった。彼は、粗末な服を着た長身で痩せた体をもてあますように少しかがませて早足になっていた。

 年齢は二十歳前後らしいが、顔だけ見ていると二十代半ばにも見えた。どことなく荒んだところがあるし、彼の挙動も、彼の今までの生活が、堅気でなかったものをうかがわせるところがある。ただ瞳にまだ幼さのようなものが残っているのが、彼の実年齢をうかがわせた。

 頭に巻いた布から飛び出た黒い髪は、この周囲の人間には多い髪の色である。ただ、彼の瞳は、黒というよりよく見るととび色に緑が混じったような複雑な色をしていた。瞳が黒でないことは、さまざまな地域との混血が多いここでは、それほど珍しいことでもないのだが、どことなく地味な印象の強い彼には、それが一番目立つ箇所だったかもしれない。

「全く飽きずにやってくれるぜ。日に三回もこうだと、感覚がおかしくなるな」

 のんきに数えながら、青年は暗くなりゆく空を興味なさげに一瞥した。皆既日食である。徐々に影に食われて行く太陽は、だんだん光を失いつつあった。

 どうせ暗くても一本道なのだ。まっすぐ歩けば問題ないだろう。と、青年は思って、ランプに火を入れるのをやめた。油がもったいなかったからだ。倹約が美徳だから、というより、単にケチなだけである。

 この地方で謎の日蝕が頻繁に起き始めたのは一年ほど前からだ。日蝕は多い日には日に三度から四度。少ないときは一週間に一度ほど。

 それにしても、天文学から考えるとあり得ない頻度だ。天文学の知識は、かなりある国だっただけに、周辺の国の学者どもは、原因を明らかにしようと躍起になっているようだが、今に至るまでその原因はわからない。

 予言者達が「このままではやがて世界は闇に飲まれることだろう」と騒ぎ出しても別におかしくない状況だった。

 だが、そんなことは、一般人でとりたてて天文に興味のない彼には、何の問題もなかった。しかも、彼は、今借金取りに追われている最中なのだから。

「さてと、太陽が隠れてる内にオレはとっとと逃げなくちゃな」

 彼は、自分に言い聞かせるように呟いた。いっそのこと、辺境にはいるのも悪くない。さすがの借金取りも未知の世界、辺境までは追っかけてくることはないだろう。なにしろ、辺境は人外の地であり、地の果てでもあるらしい。

 中には、得体の知れない植物と得体の知れない怪物共がうじゃうじゃそこにはびこっているというのだ。

 しかし、辺境の浅いところなら、普通の人間でも危険なく抜けられるという噂だった。獣たちは、そんなに外界の近くまで寄ってこないというのだ。

 ただし、それも、辺境の知恵のある魔物である「狼人」にあわなければの話だという。

 狼人、というのは、辺境に住む人の形をした人間ではないものたちだ。それの中でも特に男のことを狼人と呼び、より外に出てこない女のことを妖精というのだとか、青年は聞いた。連中は人の形をしているというが、人間では持ち得ないはずの力の持ち主であるといい、常に集団行動をとるらしい。

 もちろん、彼らと遭遇することはめったにないとは言われるが、彼らは人間にはない魔性の力を持っているので、何をされるかわからないという話だ。とはいえ、人間のほうも、狼人の子供をさらって奴隷にしているとかいうから、彼らが人間に悪印象を持っていても仕方がない。

 実際、青年も狼人に実際会ったことがない。

「いや、やっぱり危険な賭けはやめよう。オレの性分にあわないぜ」

 青年は、呟いた。辺境の怪物に捕まって怪物の夕食になるよりは、借金取りに捕まってどこか異国の地で奴隷になった方がましだ。すくなくとも、どこか異国の地でも人間はいるし、自分の能力なら、適当なところで逃げ出す事だってできるはずだ。まともな生き物がいない辺境で死ぬよりはいくらかましだと思った。

 日蝕が終わりつつあった。だんだんと光が世界に溢れて行く。青年はちらりと背後をみて、思わず飛び上がりそうになった。

「やばい!」

 青年は慌てた。後ろを振り向いたとき、薄暗い中でこちらに向かって馬で走ってくる男達数人が見えたのだ。間違いない。追っ手だ。

「ちっきしょう! やっぱり、異国の市場に並ぶなんて嫌だ!」

 青年は走り出した。どんどん、世界は明るくなって行く。自分の姿が見えると、男達はますますスピードをあげてくるだろう。馬と徒歩では、さすがに青年が俊速だからといっても、逃げ切れるものではない。馬がどれほど速いかは、遊牧民出身の彼が一番よく知っているのだ。

「あんなはした金で、馬まで繰り出しやがって!!頭おかしいんじゃねえか!!」

 青年は、忌々しげに吐き捨てると、そのまま、足を速めた。ここでつかまるわけには行かない。

 自分の、これからの人生のために。


 そして、あのひとに会うために。


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