第10話(つづき)

 あれから泣き疲れた優希さんは、ベンチの上で少しだけ眠った。


 飲んでいた睡眠薬と思われたものは精神安定剤だったらしく、用法用量は守っていなかったが、以前飲んだときも体調に変化はなかったと言うので、そのままにしておいた。


 優希さんの自殺を止めるべく、僕は僕なりの正論を言っていたが、今思えばどこから出てきた言葉か分からなかった。大切な人を亡くしたこともない僕が、なんで優希さんを諭すことができたのか。あんなことを思えていた自分に、自分が一番驚いた。


 「こんなことして……ごめんなさい」


 むくりと起きた優希さんは、目をこすりながら、ぽつりとそう呟いた。


 「しょうがないよ。生きててくれたんだから、それで良いよ」

 「うん、ありがとう」


 まだ、落ち込んでいたが、冷静になり、自分のしたことと向き合えているようだった。


 「ちょっとは落ち着いた?」

 「うん、大丈夫」

 「なら良かった」


 そう言いながら僕が煙草を吸い出すと、優希さんもリュックの中から煙草を取り出した。

 


 まだ暗い空の下、あの時と同じように二人で並んで煙草を吸う。


 「こんな時に、こんなこと聞いて申し訳ないんだけどさ」

 「なに?」


 僕はずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。


 「何で、僕だったの?」

 「ん?」


 優希さんにはその意味が分からなかったのか、逆に聞いてくる。


 「きっかけは、ライターをあげたからだった、っていうのは分かるけど、お台場に行ったのも、講義を一緒に受けたのも、何で僕だったの?」


 何で優希さんは僕を選んだのか、それがずっと分からなかった。


 「違う。ライター貰ったのがきっかけじゃないよ」

 「え?」


 僕はてっきりそれがきっかけだと思っていた。


 「講義の時に、左手の傷が気になったから。それが菅谷くんだった、きっかけ」

 

 そう言われると、詩の講義の時、確かに優希さんは僕の左隣に座っていたなと、思い出す。


 「最悪なんだけどね、私。菅谷くんと出会う少し前から、彼氏と上手くいってなかったんだよね」


 優希さんは、落ち着いて淡々と話し出す。


 「あの子を堕ろして、またリストカットとか始めたら、それが彼氏に見つかって、見放されちゃって―――そんな時に菅谷くんの左手の傷を見て、それが、菅谷くんそのものな感じがして、多分、私は―――自分と菅谷くんを重ねてたんだと思う」


 僕は黙って話を聞く。優希さんは言葉を探しながら、ゆっくりと話す。


 「私、こんなんだから友達とかいなくて、人との距離感の詰め方とか下手くそで、でも、誰かとこの痛みを共有したくて、だから彼氏にも色々言ったんだけど、私の気持ち、全然理解してくれなくて―――だから、菅谷くんなら、分かってくれるんじゃないかと思ったのがきっかけ、かな」


 いつもあんなに楽しそうにしていた優希さんも、本当はすごく悩んでいた。


 誰にも話すことができなくて、分かってもらいたいけれど、軽率に話せる悩みでもなくて、ずっと一人で抱えて生きてきていた。


 「まぁ、こんなことになるまで、結局何も話せなかったんだけどね」

 「気付いてあげられなくて、ごめん」


 僕が優希さんの行動や言葉の端々にあった助けを、ちゃんと拾っていれば、こんなことにはならなかったかもしれないと、後悔する。


 「菅谷くんのせいじゃないよ、自業自得だから、謝らないで。むしろ、こうやって話をさせてくれて、ありがとう」


 優希さんはそう言うと、少しだけいつもの調子に戻ったようだった。 


 経験は、人と関わってからが本番なのかもしれないと、思った。


 高校生までの僕は、他人への扉を閉め切って全て自己完結していた。本の世界に閉じこもって、それで色々なことを人より経験している気になっていた。


 しかし、大学生になって色んな人と関わってから、失敗だらけだったけれど、まだちゃんと開いているわけじゃないけれどそれでも、今までの自分がどれだけ無知だったのかを思い知らされた。人と関わることで、自分が分かってきた。


 優希さんも、優希さんにとって何か良い気付きがあればいいなと、今更だけど、そう強く思った。



 夜が終わりかけてきた午前四時。東京の片隅で朝の訪れを待つ。


 「この先、ちゃんと生きられるかな……」


 ぽつりと優希さんがそう呟いた。


 「ちゃんとって?」


 僕はその言葉に心当たりがあるので聞いてみる。

 

 「私さ、こんなことばっかりしてたから、まともにバイトとか続いたことないし、講義も出たり出なかったりだし、卒論も結局全然手つけてないし、この先、ちゃんとした大人になれるのかなって」


 未来や将来、まだ訪れない先が不安で怖い―――僕も、優希さんも。


 『多分さ、君はまだ何かを諦められてないんじゃないかな』


 いつかの店長の言葉が浮かぶ。優希さんにもこの言葉をかければ何かが変わるかもしれないと思ったけれど、僕の中でもまだこの言葉に違和感があった。


 続けて店長はこう言っていた。


 『君が描いてこうなりたいと思っている「ちゃんとする」と、君にとっての現実的な「ちゃんとする」は違うのかもしれないよ』


 僕がなりたい夢は諦めた。


 だから、ちゃんとした大人になるために、就活をしていていたが、そうなるためには、自分の嫌いな人間にならなくてはいけなかった。僕にとっての現実的な「ちゃんとする」。そのためにはきっと、この違和感を埋めなければいけない。でも、じゃあどうやって?


 「私さ、ここまでくるとなんかもう、まともな大人になれないような気がしてたんだよね。まぁ、どんな方法でもお金稼げて人様の迷惑になるようなことしなければ、それで良いんじゃないかって。将来の夢とかないし。―――でも、幸せにならなきゃなって思ったよ。あの子のために。いつかあの子に会ったときに、認めてもらえるようにね」


 「そうだね、優希さんには幸せになって欲しいって、僕も思ってるよ」


 「ははっ、ありがとう。まぁ、特になりたいものとかないんだけどさ。―――卒業したらさ、菅谷くんは何になりたいの?」


 そう聞かれ、即答できなかった。



 小さな夢は諦めた。


 でも本当は、心のどこかで諦めきることのできない僕がいた。


 だから、就活も進まなかった。どこかで引っかかっていた。このまま自分のなりたいものを諦めていいのか。このまま本当に僕が嫌いな大人になってしまうのか。


 僕の唯一の夢。小さいけれど、なれる確証がないから強く願わなかったけれど、まだ諦め切れてなかった。



『菅谷くんは何になりたいの?』



 僕が本当に望む未来。僕が本当になりたいもの。僕が僕に正直になれるもの―――。


 その瞬間、僕は店長の言葉の意味を理解した。


 僕にとっての現実的な「ちゃんとする」。その意味が分かった。


 そして、僕が思い描く新しい未来を、優希さんに話した。




 空を覆い尽くしている雲からは、雨が降ってきていた。









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