第10話

 「優希さん」

 「す、菅谷くん……?」


 僕らは互いを認識して、この現状を把握するのに少し時間を要した。短い沈黙が、僕らの距離に流れる。


 「なんで……菅谷くんがここにいるの」

 「いや、何となく、さっきの電話で嫌な予感がして、気付いた―――」

 「なんで邪魔したの」


 優希さんは僕の言葉を遮るように聞いてきた。


 「え……?」

 「なんで邪魔したかって聞いてるの!この状況、分かるでしょ?なんでこんな助けるような真似したかって聞いてるの!」


 普通はこんな状況、止めるに決まってるだろと思った。


 しかし、そう聞いてくる優希さんは肩を震わせながら怒気を強めていた。

 

 「あと、少しだったのになんで、なんで止めたの?私の好きなようにさせてよ!」


 静寂を突き破るように、優希さんが声を荒げて叫ぶ。こんな優希さんは見たことがなかった。


 「じゃあ、なんで自殺なんてしようとしてるの?」


 このままでは、興奮してまた優希さんが何をするか分からなかったので、落ち着かせようとする。


 「別に菅谷くんには関係ないじゃん」

 「あんな意味ありげな電話しておいて、関係ないわけない」

 「あれは、ただ清算したかっただけ。全部ちゃんと終わりにしてから死のうとしただけ。だから私が死のうとしてることと、菅谷くんは関係ない」

 「今死んだら、悲しむ人がいる」


 一辺倒なことしか言えなかった。


 「別にいないよ、そんな人。家族だって連絡取ってないし、彼氏とも別れてるし」


 優希さんがそんな状況になっているとは知らなかった。しかし、知るよしもなかったから、今更仕方のないことだった。


 「だったらなんで、死のうとしてるの」

 「大切な人の所に行くの」


 ざっくりとした内容に理解ができなかった。


 「どういうこと?誰か亡くなったの?」

 「亡くなったというか……」

 「……」

 「私が殺した」

 「え……?」

 「……私が殺したの。あの子を」


 


 ****


 全ての始まりは、高校二年生の冬だったと思う。


 相手は一つ年上の先輩だった。先輩はバスケ部の主将をしていて、容姿もかっこよくてもちろん、女子の注目の的だった。しかし、私は目立つようなことはしていなかったので、先輩の眼中になどあるはずがなかった。


 話すようになったきっかけは、体育祭の時。私が先輩に憧れていたのを知っていた友達が、一緒に写真を撮る機会をくれた。


 「先輩、しゃ、写真一緒に撮ってもらってもいいですか?」

 「全然、大丈夫だよ!」


 先輩はそう言って、私の肩に手を乗せて撮ってくれた。一緒に写真を撮って話せただけでも緊張していたのに、触れられたことで、私は舞い上がった。さらに先輩は、写真を送って欲しいからと、連絡先も交換してくれた。


 それからは、少しずつ連絡を取るようになっていた。この時点で私は先輩のことが好きになっていた。




 そして高校二年生の冬。放課後の誰もいない教室で「好きだ」と言われた。私は両想いだったのだと知り、「私も好きです」と伝えた。


 しかし先輩は、「でも彼氏彼女って肩書きは嫌だから付き合うのはやめよう。それでもいい?」と聞いてきた。私はとにかく、嫌われたくない、捨てられたくないと思い、そんな提案でも喜んで受け入れた。

 


 次の日、あれは学校が休みの日だった。夜中に急に呼び出された。「今日は親がいないからうちに来ない?」と。


 私はすぐに家を出て先輩の家に向かった。それはもう十七歳の私にはとてもドラマチックでキラキラした夜だった。


 このときを待っていたんだと。私もヒロインになれるのだと。 


 そして彼の家のチャイムを押すと、「待ってて」と聞き馴染んだ声に心が躍った。

 

 しかし次の瞬間、私の甘いドラマチックな夢は、本当に夢のまま終わった。


 先輩は扉を開け、私の腰を引き寄せたかと思うと、そのまま地面に押し倒した。 おかしいと思ったのも束の間、脇腹を踏みつけられた。抵抗もできずそのまま身体中を蹴られ、気が付いたときにはズボンを脱がされ、そのままねじ込まれていた。状況もまともに飲み込めず、「痛い、痛い」と叫ぶと、「黙れ」と今度は髪をわしづかみにされた。


 それからのことはもう覚えていない。でも、行為が終わった後「ねえ、服に血付いたんだけど。これ。どうしてくれるの?」と吐かれた台詞と声のトーンは記憶にこびりついている。


 その夜、私は、好きとか恋とか愛とかそういうのは全て、行為の上にしか成り立たない事象なんだと、学んだ。




 皆、女の身体に飢えてばかりいて、大学生になってからは、脱げばすぐにお金が入ってくることを学んだ。それで捨てられても、すぐに新しいのを見つけられた。


 代わる代わるめまぐるしい毎日が新鮮だった。ご飯や買い物にも連れて行ってもらったこともあったし、お金に困ることはなかった。


 でも、だんだんと心が安定していかなくなった。リストカットやオーバードーズを繰り返すようになっていった。


 そんな私を見かねて、大学一年生の終わり頃、当時援助してくれている中の一人と付き合うことになった。


 普通のサラリーマンで、優しい人だった。付き合うようになってからは私の精神状態はかなり安定して、普通の大学生活を送れていた。


 しかし、大学二年生になって少したった頃、恐れていたことが起きた。

 


 彼との妊娠だ。



 その時の私には、到底受け入れられる事実じゃなかった。


 しかし、確かにお腹には子供がいる。ちゃんとした幸せの形を考えたとき、私はすぐさま堕胎しようと決めた。迷いはなかったし、彼氏も、私の選択を最優先にしてくれた。


 けれど、悪阻がひどくなるにつれ、お腹のこの生命力を感じるにつれ、堕胎することを考える度に泣いていた。


 悪阻もまるで、殺さないでと悲鳴を上げているかのように、一生懸命、存在を証明しているようにしか思えなかった。


 しかし、それも辛くて、私は薬で悪阻を毎日抑えた。叫び声を黙らせていた。何千回も何万回も、堕ろしてしまうことに対して謝った。



 そして、一年前の今日、子供を堕ろした。




****




 そう話しながら、優希さんは静かに泣いていた。その話に、僕はハンカチを差し出すことしかできなかった。


 そんなことがあったなんて、優希さんは一言も言っていなかった。


 動作にだって出ていなかった。いつだって僕とは対照的で、明るくて、潑剌としていて、自分の道をちゃんと生きているのだと思っていた。僕は優希さんの表面的な部分しか見ていなくて、何も知らなかった。


 「だから、もういい。あの子を殺してまで私が生きる価値なんてない」


 そう言って、すっと、また公園の縁に向かって歩き出す。


 「駄目だって」


 僕は、優希さんの手を掴む。優希さんの気持ちが分かる、なんておこがましいことは言えないが、この手は絶対に離してはいけないと思った。


 「なんで?菅谷くんに私の気持ちの何が分かるの?」

 「だからって死んで良い理由にはならないじゃん」

 「人殺しなんだよ?あんなに必死に生きていた命を私が殺したの!生きてて良いわけないじゃん!こんな奴が生きてちゃいけないからもういいの!」


 優希さんは再び声を荒げる。


 「違う。死んで詫びるんじゃない。生きてその子の分も生きなきゃ駄目だって。―――だって優希さんが生きなきゃ、誰がその子を幸せにしてあげられるんだよ。死んで何を償うんだよ。せめて生きろよ」


 会話の内容が支離滅裂になっていたし、僕も冷静じゃなくなっていた。でもこのまま優希さんを行かせるわけにはいかなかった。


 「綺麗事じゃん、そんなの!もう生きてなくていい、早くあの子の所に行きたいの!」


 「じゃあそんなに死にたいなら、罪を償うために生きろ。辛いまま生きて詫びろ」


 「だから私が死のうが菅谷くんには関係ないじゃん!だいたい、あの子が生きることを許してなんてくれるはずがない」


 「誰もそんなの分かんないじゃん。その子が何を考えているのか、産んで育てた方が良かったのか、堕ろしたことを憎んでいるのか、そんなの分かんないじゃん。でも幸せにしてあげたかったんじゃないの?」


 「うるさい!!!」


 「だから最善策をとって降ろしたんじゃないのかよ。優希さんが死んだら、だれがその子を愛してくれるんだよ、誰が幸せにしてあげられるんだよ。そんなの優希さんしかいないじゃん。優希さんが幸せにならない以上、誰も幸せになんてできないんじゃないの」


 「そんなこと、あの子が許してくれるわけない。私だけが楽しくのうのうと暮らすなんてあの子が許してくれるわけがない。死ねって言っている。私も死んでこっちに来いって―――」


 「だからそんなこと分かんないじゃん。それは先入観でしょ?幸せになって欲しいに決まってんだろ。優希さんの子供なんだから。自分の親に幸せになって欲しいって思ってるでしょ」


 「……」


 「優しい子のはずだよ。―――少なくとも、人の不幸を願うような子じゃない」


 「うっ……」


 僕がそう言い終えると、優希さんは堰を切ったように泣いた。


 それはまるで、生まれてきていたたかもしれないその子のように。

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