第7話(つづき)

 店に着くと、店長がレジで忙しく電話を掛けていた。

 いつも平然と仕事をこなしているため、珍しいなと思う。声が入らないように頭だけ下げておいた。

 

 ロッカールームで制服に着替えていると、仕切りの向こうから、

 「菅谷くんごめんだけど、今日もしかしたら忙しくなりそう」

 と、言われた。

 

 「何かあったんですか?」

 


 電話をかけていたことと、関係があるように思われる。


 「望月さんからさっき急にバイトやめるって連絡きてさー、ヘルプ探してるんだけど見つからないんだよね。やめる理由聞いたんだけど、何も言わないで電話切れちゃって」

 「あーそうなんですか」

 「菅谷くんなんか知らない?」

 「いや、知らないです」


 そう店長が聞いてきたということは、昨夜のことは誰にも話していないということなので、ひとまず安心する。


 望月さんがバイトをやめたのは確実に僕のせいだろう。


 シフトに穴を空けて店長や他のバイトの人に迷惑をかけてしまうのは申し訳なかったが、望月さんの行動に対しては「そうなったか」としか思わなかった。

 

 ヘルプが来ることのないまま開店の時間になり、いつも以上にせわしなく働く。これに関しては自業自得なので、仕方なかった。金曜日の混み具合に辟易しつつも、むしろここで望月さんが来ていたら気まずいから、むしろやめてくれて良かったとさえ思った。 


 それは、ラストオーダーが終わった直前だった。配膳が終わり、空いたお皿を端から下げていたとき、レジの電話が鳴った。


 レジ締めを始めていた店長が電話を取ったので、僕は特に気に留めることなく片付けをしていた。あらかた、営業時間の確認の電話だろうと推測したが、子機に切り替えて裏に行ったので、会社の人かなと思った。

 

 全ての片付けが終わり、お客さんも全員帰らせて安全確認を行う。ガスの元栓が閉まっているか、コンセントを抜いてあるかなど、キッチン担当の井上さんとチェックしていく。


 

 最後の項目までチェックしたところで、店長がこちらへ向かってきた。「おつかれさまです」とあいさつをすると同時に、右手の子機に目が行く。電話が鳴ってから三十分は経っていたためかなりの長電話だったと察する。


 すると店長は、

 「二人ともおつかれさま。井上さん先上がっちゃって。菅谷くんには話があるからどっか個室で待ってて、後から行くから」

 と指示してきたので、僕は井上さんにあいさつをし、指示通りに奥の個室へ向かった。


 

 個室に行くと、いつも働いている居酒屋なのに、音楽がなく照明が少し落ちているだけで、違った雰囲気を醸し出していた。


 店長からの呼び出しなんて初めてだった。心当たりがないわけではないので、緊張する。


 「ほーい、おまたせー」


 そう言いながら、ビールとまかないのおつまみ、灰皿を持ってきた。話があると言っていたから、素っ頓狂な顔をしてしまった。


 「あれ?菅谷くんお酒飲めるよね?」

 「あ、はい、飲めます」

 「じゃあ飲もうよ。まかないも取っておいたし。あ、これ本社には内緒ね」


 人差し指を口に当てる仕草は、中年間際の男性の挙動ではないのに、不思議と店長には似合っていた。


 「あ、煙草持ってきていいよ。吸うでしょ」

 「あ、はい、持ってきます」



 店長は、出会った時から、何を考えているのか分からない人だった。


 面接でも、「居酒屋でのバイト、初めて?」と「君、遅刻しない自信ある?」に対して、両方「はい」と答えたら採用された。


 さらに言えば、誰も店長の、年齢も、苗字も名前も知らない。「店長」という肩書きだけしか教わらなかった。


 でも、誰にでも当たりは優しい。店長の機嫌が悪いところも、怒っているところも見たことがなかった。



 煙草を持って個室に戻ると、店長はもうジョッキの半分を空けていた。


 そして、煙草に火を付け一息入れてから店長が口を開く。


 「菅谷くんさ、望月さんと何かあったでしょ」


 その質問で、先程の電話は望月さんからだと分かった。しかも、僕をわざわざ呼び出したということは、ほとんど知っているに違いない。今更しらを切っても意味がなかった。


 「ご存じの通りです」


 いちいち僕に聞かなくても分かってるでしょ、というニュアンスで、皮肉交じりに答える。


 しかし、店長は、僕の何枚も上を行っていた。


 「望月さんが泣きながら話してくれたんだから、君の口からも言わないとフェアじゃないよ」

 「まぁ、そうですね」


 そう言われ、僕は仕方なく場面をかいつまんで説明した。なるべく客観的に、私情を挟まずに。ここで、なぜ僕がこのような行動に出たかを語れば、きっと足元を掬われる。

 

 しかし、話し終えると、店長は僕の行動を叱ることも、咎めることもしてこなかった。


 「若いねぇ。若さは無敵だよ。いいなぁ。俺なんてさ、もう三十過ぎてるのに結婚もせずに、安い月給で居酒屋の店長なんてやってさ。特にしたいこともないし、刺激が欲しいとも思わないし、ただ死ぬのがだんだん怖くなってくだけ―――でも君にはまだ膨大な時間がある。うらやましいよ。」


 そう言ってビールを飲み干す。


 「僕は早く就職して自分で稼いでちゃんとした大人になりたいです」


 本心だった。早くこんなところから抜け出したかった。


 「俺みたいな大人にはなりたくないってことか」

 「あ、いやそういう意味で言ったわけでは……」

 「ははっ。冗談冗談。いやぁ、でもまさか菅谷くんがそんな行動するとは思ってなかったね。もっとつまらない人間かと思ってたよ」

 「え?」

 

 店長の言っていることが、よく分からなかった。

 

 「何というかさ、さっき言った『ちゃんとした大人になりたいです』って方が本来の君だと思ってたからね。量産型というか個性がないっていうか。だから、その不純な欲にまみれきってる君の方が人間らしくて、俺は好きだけどね」

 

 店長は五本目の煙草を取り出す。

 

 「君は今、自分をちゃんとしていないって認識しているけれど、俺からしたら君は充分ちゃんとしてるよ。まぁ、女の子泣かせちゃったのは紳士的ではないけどね。でも学校も行って、バイトも掛け持ちして、それを俺は怠惰だとは思わない―――多分さ、君はまだ何かを諦められてないんじゃないかな」

 

 そう言いながら深く煙を吸って、吐く。


 「例えば、俺は子供の頃、野球選手になりたかったんだよね。小中高ってずっとやっててさ。甲子園も行ってたし。でもさ、そんなの大人になるたびに、現実を知るたびに諦めてくじゃん。自分より才能がある奴見るたびに、あぁ、俺にはなれないなぁって。まぁ、そんな感じ。君が描いてこうなりたいと思っている「ちゃんとする」と、君にとっての現実的な「ちゃんとする」は違うのかもしれないよ」


 笹原さんのとき以上に僕にはその意味がよく分からず、首をかしげてしまう。


 「君が描いてる「ちゃんとした大人」っていうのはきっと、大学を卒業して、そこそこ大手の会社に就職して、結婚して子供もできて、家も建てて、年齢と共に給与と職位が上がっていって、そのうちに孫もできて老衰していくってのなんじゃないかな」


 その通り過ぎて、うなずくことしかできなかった。


 「分かる分かる。まぁこれも僕の持論だけど、「ちゃんとしたい」と願う人ほど、焦ってると思うんだよね。―――っていうのも、多分、昔からちゃんとしてない人たちを見てきて、自分はこうならないようにってしてる結果なんだと思う。でも、それだけ人の弱いところとか辛いところとかを見てきている。だからその分、とっても優しい人なんだと思うよ―――菅谷くん、君もね」


 学生時代、数々の「大人」と呼ばれる存在に助けを求めては一蹴されて、失望し、心を閉ざしていった僕だったが、この人の前ではそれも虚勢だった。完全に僕の心を見透かしていた。


 僕はいつの間にか一つも包み隠さず、懺悔するかのように全てを話していた。

 望月さんになぜこんなことをしてしまったのか、それにまつわる過去のことも、小泉さんのことも、優希さんのことも全部話した。


 人に期待して裏切られるのが怖い。だからもう期待したくない。でもそういう人の方が上手く生きられていて、それが羨ましくて憎い。そういうのを望月さんにぶつけてしまった、と。

 

 それはまるで、もう十何年と溜まっていた心の膿を自分の体内から吐き出すかのようだった。


 店長は何も言わずに煙草をくゆらせながら、ただただうなずいて聞いてくれた。

 僕は泣いていた。自己保身のために誰かを傷つけるのは間違っているのにやめられない僕が嫌いで、僕がやっていたことは僕が嫌いな奴らと一緒で、心底自分に絶望していたことに、話すごとに気が付いていった。

 

 本当は僕は、誰かに知って欲しかった。孤独を安寧と思っているくせに人に飢えていて、人に期待しないことで自分を守っているくせに無情になりきれない中途半端な人間であることを、分かって欲しかった。その上で、「それでも生きてて良い」と、誰かに言ってもらいたかった。


 ただ怖かった。そんな僕が生きている価値なんかなくて、「お前なんて、この世に存在しなくていい存在だ」と言われることが怖かった。



 「よく、ここまで生きてきたね。君は強い子だ」

 

 そう言って僕の頭をなでてくれた店長は、いつもどおり優しく微笑んでいた。


 僕はこの時ために、この言葉を掛けてもらうために、今まで生きてきたのだと思った。


 「ちゃんと話してくれてありがとう。もう傷つかなくて大丈夫だよ」


 卑屈だった僕は、もうどこにもいなかった。

 

 「君のこの先の未来は明るいよ。俺が保証する」








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