バニラの誕生日(夜光虫シリーズ)

レント

第1話

 そもそも彼は、自分の誕生日というのを知らなかった。

もっと言えば、自分の名前さえ定かではなく、いつも金切り声や罵声を飛ばす両親に追いやられて、隅っこの方で生きていた。

名前を呼ばれた事が何度あっただろうか?

きっと、片手の指で数えられるほどしかない。


 そんな中、唯一それらしいものを見かけたことがある。

文字は読めなかった。時計も読めなかった。日付だって怪しかった。

けれど、ぐしゃぐしゃになった何かの書類に書かれた日付を妙に覚えている。

多分、自分の誕生日だったのだろうと、後々彼は思った。


 両親から開放されたあの日、やっとの思いで生き延びて、街のゴミ箱から食べ物を漁って、ふらふらと歩いていた頃。

「誕生日は幸せなもの」という、ぼんやりとしたイメージが出来上がるくらいには、人々の会話を理解していた。


 そんな日は自分には来ない。

誕生日も名前も定かでない自分を、誰が祝うというのだろう。

ぼーっと、街の灯りを見ていた。

飯屋の前を通れば、見知らぬ食べ物の写真が並ぶ。

なにが入ってるのか知らないが、美味しそうな香りがする紙袋を抱えた人もたまに見た。


 今、店から出てきた人は鉄道の人達だろうか。

汽車なんてほとんど縁がなかったけど、遠くに見えた線路を走る姿に見とれ、駅の前を通った時に、つい働く人のかっこよさに憧れていた。


 全て、自分とは別の世界の人達だ。

子供ながらにそれだけは分かった。

駅の前を通った時も、追い払われないように、かなり遠巻きにしていたのを思い出す。


 そして、地面に生えた雑草とか、ザリガニとか、川の魚とか、そんなのをなんとか手に入れて家に帰って焼いていた。

母親はザリガニが嫌いだったらしい。

こんな気持ち悪いものを家で焼くなと殴られた。

だから、外で焚き火をしてる人から火を借りて、手に入れたものをなんとか食べて、日々を過ごしていた。


 変化は突然だった。

なんだか高級な服を着た、自分と同じくらいの年のやつがふらふらと歩いていた。

擦れて穴のあきそうな服を着た貧相な自分の姿と比べて、嫌な気分で目を逸らしたのに。


 どうして、共に行動するようになったのだろう。

それまでは名前すらもなかった。

なのに、あいつはチョコになって、俺はバニラになった。

二人でいればなんでも倒せる気がした。

このままなんとなく生きていけると思った。



「誕生日のお祝い、何が欲しい?」



 ハッとして、街の雑踏を振り返る。

どこかの親子の会話が耳に入ったようだった。

チョコもたまたま聞こえていたらしい。

やっと最近、人間らしく笑うようになったチョコは「誕生日かぁ」なんて呟いた。



「誕生日、いつ?」



 チョコはバニラに聞いた。

バニラは皮肉交じりに笑う。



「知るかよ。俺は名前だってないんだ」

「バニラだよ。名前ある」



 チョコは不器用に笑った。

まだなんとなくぎこちなくて、気がつけば遠くに行ってしまいそうなのは相変らずだ。

なのに、チョコは言う。



「今度、お祝いしよう」

「いいよ、そんなの。盗んできたものでお祝いなんて……」



 言いかけて、チョコが暗い顔になったの気がつく。

もうしばらく、チョコが夜中に刃物を持ってさ迷っているおかげで、食べるに困らなくなっていた。

助けられているのに、それをどうしても素直に受け取れない。

やめさせればいいのに、今までで一番まともに暮らせていたから。



「……ごめん。俺がそんなこと言う権利ないよな」

「バニラは正しいよ。きっと」



 チョコは続ける。



「俺が正しくないだけ」



 バニラは呼吸が止まりそうなる。

罪悪感がないはずがなかった。

しかしそれ以上にたぶん、チョコは死んだとしてもそれでいいと思って、夜中に消えてしまうのだろう。

自分の運命のようなものを、その一切を、チョコは諦めているようだった。



「違う」



 バニラは言った。



「正しくないのは俺たちだ。俺もお前も」



 チョコは笑った。

その背中に、大ぶりの刃物を背負ったまま。

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