雷の日(夜光虫シリーズ)

レント

第1話

 彼らと初めて会ったのは、秋の終わりごろだったかもしれない。

国慶節も過ぎて、華やかな賑わいを避けて歩き、そのせいでさらに心に余裕がなくて、ふらふらと夜道を歩いていた。

ボロボロの姿だっただろう。

国慶節と同じ日に生まれ、どこを歩いても華やかな飾りに囲まれ誕生日を忘れることすらできない。

なぜ自分は生きているのか、余計に考えてしまう時期だった。


 けれど、そうでなければ、自分に刃を向けた子供を連れ帰ろうなんて、突飛で衝動的なことはしなかったかもしれない。

あの時の俺の姿について、二人はたまに思い返しているらしい。



「ジャンボ、相当参ってたよな」

「めちゃくちゃ怖かったもん。なんか、殺し屋みたいだった」



 そんな二人の声を聞いて、ジャンボは苦笑いしながら振り返る。



「急になんだよ。包丁持ってるからか?」

「そんなの見慣れたよ。ご飯もうまくなった」

「それはどうも」



 ジャンボは料理を続けた。

ここ最近、暑い日が続くので、サラッとした昼食を二人に作ろうとしていた。

凉拌豆腐丝リャンバンドウフースーだ。

角切りでしっかりとした豆腐干ドォウフーガァンを薄く切り、平たい麺状にしたものを主役に使う。

きゅうり、鷹の爪、香菜シャンツァイなども切って下ごしらえをし、ごま油や花椒ホアジャオ、醤油などを使い、調味料とあえてゆく。

火も使うが一瞬だ。

食べ盛りの男子二人がこれだけで満足はしないだろうが、とにかく食べやすく、二日酔いの朝なんかにも自力でよろけながら作った覚えがあった。



「あといくつか作るから、先に食ってろ」

「うおー!すげぇ!また見たことないやつ!」



 チョコはわりと料理をしっかり味わって食べるほうだった。

本当にすべてを記憶してるのか知らないが、初めて見る料理はなぜか嬉しいらしく、レパートリーが増えたのはチョコのせいだ。

バニラはもうがっつき食べ始めている。

チョコとは対照的で、うまければなんでもいいという、これもまた難易度の高い要求をされていた。


 なんにせよ、二人にはほとんど好き嫌いがなくて、それに助けられているところも大きい。

ちょっと料理を失敗しても、ちょっとくらいなら食べてしまう。

好き嫌いができる環境ではなかったのだろう。

ふと、ジャンボは憂いを滲ませて彼らを見るが、そんな思いを吹き飛ばすように二人は笑った。

この笑顔にもずっと助けられてきた。

 あのボロボロだった日の血迷ったような選択が、全てを変えてしまったのだ。


 人生とは本当に分からない。

ジャンボは軽くほほえみ、次の料理の支度にうつる。

たまに外食する時に、料理の仕方を教えてもらったりして、少しずつ出来ることが増えていた。

このままきっと生活の方も軌道に乗るだろう。

仕事の収入も増えた。二人も楽しそうに学校に通っている。


 上手くいくと、安心し始めた頃だった。

そんな気持ちは慢心だったのだろうか。

突然、全てを雷鳴が打ち消した。



「ぎゃあ!」



 テーブルがガタンと揺れる。皿がひっくり返る。箸が転がった。

何が起きたか分からないままに、素早い動きでチョコがテーブルの下に潜り込んでいる。

バニラは箸を伸ばしたまま、数秒固まった。



「……チョコ?」



 明らかに尋常ではない様子に、ジャンボは戸惑いながら、そっとテーブルに近づいた。

すると、できる限り縮こまって、両耳を手で塞ぎ、真っ青な顔で震えるチョコがいた。

バニラは箸を置き、少しだけ言葉に悩みながら、立ち尽くすジャンボに説明する。



「雷の音が鳴っただろ。……チョコ、夏が来る度にいつもこうなんだ」



 バニラは理解出来ないというふうに、半分気まずそうにしていた。

もう三年くらい二人だけで暮らしてきたが、雷のなにがそんなに怖いのか、本人さえもわからないと聞き、どうにもできず放っておくことが多かった。


 ジャンボは遠い昔の記憶が蘇りかける。

また、雷鳴は容赦なくとどろき、チョコさらに小さく縮まって、ガタガタ震えていた。

いつの間にか降り出した雨のせいで、夏の初めの気温は下がり、うっすらと肌寒さまで残す。



「チョコ、少しだけ動けるか?」



 ジャンボは椅子を避け、チョコの前にしゃがみ込んだ。

窓とチョコの間に、大きなジャンボの背中が、壁のようにそっと待つ。

雷に警戒しながら、チョコはボロボロ泣いて、ゆっくり顔を上げた。

ジャンボが手を伸ばすと、縮こまりながらも、その腕を受け入れた。


 テーブルの下から抱きかかえられて、その間にも雷鳴は鳴る。

チョコはジャンボにしがみついて、言葉もなく泣いていた。

バニラは二人の様子を見て、なんとなく居心地が悪そうだ。



「なんかさ、そんなに怖がる必要ある?って俺、思うんだけど」

「バニラ、違うんだよ。これは」



 ジャンボは決して責めることなく、昔、京劇学校の先生から聞いた言葉をなぞった。



「雷恐怖症、ってのがあるんだ」



 ジャンボも幼く、京劇学校の仲間たちも幼かった頃。

そのうちの一人で、いつもは明るく元気なのに、雷が来ると物陰に隠れて、一言も喋らず震えるやつがいた。

自分も仲間も何度かからかってしまった。

雷が過ぎると本人も分からないまま拗ねたように元気を取り戻すので、誰も問題視してなかったのだ。


 けれど、先生はまた、棚の奥から育児書なんて取りだして、やっぱりこれだと呟いた。



「悪いな、もっと早く気がつけたのに」



 やはり雷の鳴る日、その時はもう夜だった。

物陰でいつものように震える彼に、先生は寄り添って、そっと頭を撫でていた。

自分も仲間たちも、大いに驚いた。

先生の優しさなど、ほとんど見た事がなかったからだ。


 先生は静かに、まだ幼い生徒たちに話し出す。



「俺は先端恐怖症、というやつらしい。最近知ったんだ。万年筆の先も、小道具の刀の先も、尖ったものがどうしようもなく怖かった。

理由が分からなくて、でもそれじゃあ現役の役者なんて出来なくて、自分に失望しながら引退した。

それでも京劇に携わりたくて、悪あがきみたいに開いたのがこの学校だったんだ」



 役者としてのプレッシャーにもやられてたから、当時は本当に酷かったと、先生は自嘲するように言った。



「学校を開いて、余裕が出来たら恐怖は少しずつ収まってきた。でも、未だに自分に向けられる刃先は怖い。小道具もただのハサミもだ。

ずっと、どこか似ていると思ってた。でも俺にはそこら辺の知識はなかったから」



 先生は泣き続ける仲間に毛布をかけてやり、彼の耳を両手で覆った。



「恐怖症っていうのは厄介だ。俺でさえ逃げ回って泣くほどだった。雷や尖ったものだけじゃなくて、色んな種類があるらしい。

お前たちもよく覚えておきなさい」



 静かな声が、雷鳴の間に響く。

耳を覆われて、毛布に包まれた仲間は、少しずつ落ち着いていった。

その間に雷鳴は遠くなってゆく。

 その日から誰も彼をからかわなくなった。

雷が鳴ったらみんなで彼を囲んで、なんとか音を軽減させようと、耳あてをプレゼントしたりもした。


 無知というのは残酷だ。

でも、知れば変えられることは沢山ある。

ジャンボはその全てを包み隠さず、バニラに伝えた。



「音っていうのは、雷に限らず、敏感な人が多いからな。落ち着くまで俺ができるのはこれくらいだ」



 チョコを寝台に運んで布団でくるみ、その耳をジャンボが両手で覆った。

大きな手は自分で塞ぐよりも、音を小さくし、それに安心感がある。

チョコは目を閉じたまま、布団の端を握って、静かに泣いた。


 ふと、バニラが歩いて、チョコの隣に座る。



「ごめん、何度もからかって。全然知らなかったから……」



 チョコにくっつくようにバニラは座り、なにかを考え込むように下を向く。



「俺も同じなんだ。本当は。テーブルを叩く音とか、扉を強く閉める音が怖い」



 ジャンボは驚き、バニラの方を見た。

彼は俯いたまま、告解のように話す。



「誰かが……怒ってるんじゃないかって。そんな音が全部、怖いんだ……」



 人との対立が人並みにあれば、物に当たる人は何度も目にすることになる。

バニラの過去も断片的にしか知らないが、そんな日がほとんどだったのだろう。

扉を思い切り閉める音は、皮肉も怒りもすべて表してしまう。


 そういえば、と。ジャンボはチョコに何度か尋ねられた言葉を思い出す。

「いま、なんかジャンボ怒ってる?」と。

大抵は寝ぼけてる時に聞かれ、なんのことか分からず首を横に振っていた。

するとチョコはバニラに駆け寄って、コソコソとなにか話しているようだった。


 合点がいって、あー、とジャンボは情けない声を出す。



「俺、寝起きが弱いんだ。弱いというかその……行動が荒くなるっていうか」

「分かってるよ。ちゃんと分かってる。それは本当」



 バニラはため息をついた。



「さっき、チョコと話してたのも、あんなに怖かったのにこんなに毎日楽しいなんて、不思議だなって。

外で暮らしてたのが嘘みたいだって、思ったんだ。

でも……俺もまだ治ってないみたい」



 ジャンボが、ひっくり返された皿よりも、チョコを優先して抱えあげた時も、なにか自分を責められているような気がした。

気の利かないやつだと。

心がないやつだと。

そんなことをジャンボが思うはずはないのに、背中にずっと、自分を責める影が張り付いているようで。



「俺も……」



 ジャンボはなにかを言いかけて、黙り込む。

紅い腕章が、それを着けた自分が、常に後ろにいる気がするなんて、誰に言えたものか。



「ごめんな」

「違うんだよ。俺が勝手にそう思うだけなんだよ」

「寝起きが悪いのは事実だ。それに酒に酔った時も似たようなもんだろ、たぶん……。

ちょっとさ、俺も真面目で健康的になりたいから」



 ジャンボは笑って見せた。

バニラは自分を責める声が、ふっと柔らかくなったのを感じた。

チョコも震えがだいぶ収まってきて、泣き疲れたようにウトウトしている。



「このまま昼寝するか」

「……うん」



 バニラはそっと頷いて、ゆっくり横になるジャンボの背中の方で横になった。

ジャンボの手はまだずっと、チョコの耳を塞いでいる。

雷鳴はもうほとんど聞こえないくらい遠くなったけど。

でも。


 バニラはジャンボの背中にしがみついた。

ジャンボは驚いたが、そのまま泣いているバニラを静かに受け止めた。

先生のおかげで学べたことは、こんなにも深く、いまだに自分を支えていた。

ジャンボはそのまま目を閉じる。

ずっと蔑ろにしてきた記憶を、少しずつ辿るように、京劇学校の仲間たちを思い返していた。


 いつか、謝れるだろうか。

俺が台無しにした全てを。先生の最後の優しさを受け取らなかった、この手を。


 この手は……きっと、チョコを安心させる手になった。

背中も、バニラを支えられるようになった。

あの日の傷はどうやっても消えない。

けれど、どんな傷も薄くなっていくものだ。


 チョコとバニラが安心できる日も、いつか自分が作り出せるだろうか。

そんなことを思いながらまどろみに落ちていった。


 三人はそのままくっついて寝ていた。

いつか、影が晴れるその日まで。



終わり

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雷の日(夜光虫シリーズ) レント @rentoon

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