第18話 進むべき道のヒント
その日は、岩手県宮古市にある、山の中のキャンプ場に行くつもりで、俺は彼女たちを引き連れて走った。
津波による被害を受けた震災遺構を見たためか、海沿いのキャンプ場に泊まるのが怖いというのも実はあった。
そして、その間、元々、一人で旅をするつもりで、インカムも持っていない俺は、道中考えていた。
いや、思い出していた。森原沙希との出逢いを。
それは大学1年生の頃。今から7年前に遡る。当時、俺も彼女も大学1年生だった。同じ都内の私立大学に通っていた。
丁度、同じく経済学部経済学科の1年生で、同じ授業を受けることもあったが、大学というところは、中学や高校と違い、クラスメートと言っても、仲のよいグループで集まるだけで、特段交流がない。
俺も森原も当時、全然面識はなかったし、高校も別々の高校に通っていた。
そして、その「出逢い」もまた実に平凡なものだった。
大学1年生の春。俺はどこにでもいる平凡な大学生として、学部での授業を受けていた。
その時、すでに彼女は「目立って」いた。
持って生まれた、美しい容姿と、どこか気品すら感じさせるお嬢様っぽさが目立ち、大学の校内でも上位に入るくらいの人気だった。
そんな彼女を俺は、最初、遠巻きに眺めることしか出来ていなかった。もちろん、森原は男女問わず人気があったから、いつも友人に囲まれていた。
俺のような平凡な男とは、「接点」などとてもないだろう、と思っていたら。
ある授業の時。
たまたま、彼女が隣の席に座った。隣、と言っても大学の授業が行われる講堂は広く、隣の席との感覚も、高校に比べると広い。
そして、偶然なのか、その時、彼女は珍しく一人だった。
同時に、授業が始まってすぐに俺は気づいた。鞄の中に、授業に使う教科書が入っていないことに。
単純に、家に忘れていたのだが。
気配り上手な森原は、そんな俺に気づいて、何も言わずに、自分の教科書を俺の方に向けて、差し出してくれた。
「ありがとう」
それだけを言うのがやっとで、彼女はわずかに微笑んでいた。
それから、少しずつ話すようになり、いつの間にか仲良くなっていた。俺の目から見ると、「隙」がないほどの完璧な人間にも見えるほど、彼女は優秀だった。
学業も運動も抜群の成績を残し、3年時に選んだ、経済学のゼミでも彼女と一緒になったため、ますます距離は近づいていた。
もっとも、その頃の彼女は、今以上に目立っていたから、常に友人が傍にいて、グループでの交流はあったが、二人きりという場面はほとんどなかった。
そして、卒業間近の4年生の春。前述のように、俺は思いを打ち明け、敗れたのだった。
だが、俺の中では、彼女にはまだ「未練」があった。
再会した時は、驚いたが、それ以上に嬉しかったし、こうしてわざわざ俺のモラトリアムツーリングについて来るということは、脈がないわけではないはずだ。
その思いがあるからこそ、俺はこのツーリングで彼女に再度「告白」しようと改めて思い立っていた。
問題は、いつやるかだが。鬱陶しい林田が傍にいる時は避けたい。
出来れば、林田がいないタイミングで、同時に森原の誕生日を狙うことに決める。彼女の誕生日は、終戦記念日と同じ8月15日だった。
4日後に迫る中、俺たちは夕闇迫る、宮古市の山の中にある、自然溢れるキャンプ場で一泊することになった。
テントは、各自が持参していた。
俺のは、ツーリングテントと呼ばれるもので、2人用のコンパクトなもの。ワンタッチではないが、オーソドックスなポール式テントで、2人用なのは、荷物を置くので、1人でも2人用の方が使い勝手がいいためだ。色は緑。
森原のは、彼女の性格を反映したような、少しオシャレな赤と茶色のチェック柄の、自立式テント。
林田のは、安物のワンポールテントで、恐らく1万円もしない。貧乏臭い気もするが、持ち運びは楽そうに見えた。色はオレンジ色。
それぞれがテントを立てる中、森原は手早くテントを立ててしまい、林田のテント設営に付き合っていた。
なんだかんだで、面倒見がいい彼女らしい行為だ。そもそも森原と林田の姉のちひろが友人なだけで、その妹のひなのとは、別に仲がいいわけではないはずだ。
一通り、テントを立て終わると、すでに辺りは漆黒の闇に包まれる。
俺は、買ってきた薪を使い、火を炊く。
キャンプファイヤーを通して、それぞれが持ち寄って食材を使って、簡単な夕食会になった。
俺が作ったのは、体が暖まる坦々餃子。森原はスープパスタ、林田はフライパンで焼いただけの、ただの牛肉だった。
「お前だけ素人っぽいな」
缶ビールを傾けながら、彼女が焼いた肉をつまむ。ご飯は、メスティンと呼ばれる容器で作った。飯盒代わりに使えるし、キャンプでは重宝する代物だ。
「そんなこと言ったって、キャンプなんて、ほとんどやったことないですし」
口を尖らせて、不満を述べる彼女に、
「でも、ひなのちゃん。お肉、おいしいわよ」
すかさず森原がフォローを入れていた。
縁もたけなわ。
自然の中で、騒音もなく、都会とは明らかに違う、穏やかな雰囲気の中、食事は進んでいく。
そして、森原が不意に呟いた一言がきっかけだった。
「それで、山谷くん。何かやりたいことは見つかった?」
一応は、気にしてくれていたらしい。そのこと自体は、個人的にはすごく嬉しいものの、俺の中では、IT業界を辞めて、その後に何をやるか、までは決めていなかった。
「いや」
「先輩なら、何でもできますよー」
適当なことを言っているようにしか思えない林田は置いておいて、森原は、スープパスタをつまみ、チューハイを傾けながら、俺の予想の斜め上の回答を引き出してきた。
「山谷くんは、昔から英語が得意だったよね?」
「得意というほどじゃない。ちょっと学生時代に、アメリカに短期留学した程度だ」
「TOEICの点数は?」
「600点」
「すごいですね!」
林田は、肉を頬張りながら、行儀悪く感嘆の声を上げていたが、森原の感想は違った。
「600点か。微妙だね。せめてあと100点あれば、転職も有利になるよ」
「それはわかってる。だが、この100点の壁が意外とデカい」
森原に言われるまでもなく、TOEICのスコアは、700点以上、出来れば800点以上というのが、いわゆる「履歴書に書ける」点数だ。
逆にそれ以下だと、書いてもあまり「箔」がつかない。
「でも、私は君にはそういう仕事が似合ってる気がするんだよね。君、日本人っぽくないでしょ。細かいの苦手で、大雑把だし」
痛いところを突いてくる。
森原とは、付き合いだけは長いから、その辺の俺の性格は読まれている。
「けど、英語に関する仕事って? 通訳とか? 大体、今や自動翻訳が全盛だろうが。通訳なんて仕事はいずれなくなるぞ」
それは俺の持論であり、英語を介する仕事自体が、昔に比べて、ハードルが高いというか、需要がなくなってきている気がしていた。
だが、
「そんなことないと思うよ」
森原の意見は俺とは違った。彼女は、独自の視点を持っているようだった。
「どうして?」
「自動翻訳ってのはね。一般的なものは出来るけど、専門分野の用語を正確に翻訳するのは難しいの」
「なるほど。一理ある」
確かに、一般的な日常会話程度の翻訳なら、今や自動翻訳で十分になってきているが、「仕事」で使うような専門用語を、自動翻訳が正確に訳すのは、まだまだ難しい。
「だから、そういう仕事でも探せばいいんじゃない?」
と言われても、俺には何がいいのか、思い浮かんでいなかった。
「先輩。英語しゃべれるんですね。すごいです。私、方言もしゃべれません」
目を輝かせながらも、どこかピント外れな回答をしている林田だった。
その間、俺は考えていたが。
「IT業界でも、英語力は生きるよ」
その前に、森原が答えていた。
「例えば?」
「IT業界には、今やインド人や中国人が多いでしょ。彼らとコミュニケーションを取るには、やっぱり英語が一番いいわけ」
なるほど。言いたいことはわかる。確かに少子化によって、日本人の働き手が減っている昨今、特にIT業界には、インド人や中国人が多い。
中国人の中には、日本語がペラペラな連中もいるが、インド人は大抵、日本語が苦手で、英語しか話せないことが多い。
彼らを相手にするというのが、彼女の発想だが。それは同時に「外資系企業」に務めることを意味する。
「外資系か。入りたいけど、厳しいな」
「そうかな? 君には、英語の『土台』の部分はあるんだから、後は伸ばせばいいだけじゃない?」
相変わらず、森原は俺のことを正確に、分析してくる。
これは、彼女と将来、結婚でもしたら、「尻に敷かれる」かもしれない。そう思うほど、物事の冷静な分析と、判断力に優れている。さすがに才女だと思ってしまう。
一方の林田は、
「先輩。ちょっと、英語で何かしゃべって下さいよ~」
さっきから飲んでいるウィスキーで酔っぱらって、もうべろんべろんになって、赤くなっていた。
どうでもいいが、こいつは酒が弱いくせに、酒好きだ。
「何かって言われてもなあ」
「何でもいいんですよー。彼女、お茶しない? とか」
「アホか」
相手にしてられん。
森原がさすがに心配になったのか、林田にもう「飲まない」ことを勧め、そのまま肩を貸して、彼女のテントに連れて行った。
明日は、あいつは二日酔いだな。
そう思いながら、岩手県の夜は更けていった。
静寂と漆黒の闇に包まれ、焚火の火を眺めながら、静かな夜が横たわっている。都会の鬱陶しい喧騒も、時間に追われる日々もそこにはない。
(英語か……)
俺は改めて、自分の将来の道を考え始め、同時に英語力を鍛えようと思い始めていた。
8月11日が終わる。
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