第17話 東北人と震災

 翌日。8月11日。


 朝。俺は森原の両親にお礼を言って、出立することになった。

 ところが。


 見ると、2人ともツーリングに行くような格好をしている。

 2人とは、もちろん森原と林田のことだ。


 森原は、夏用の薄い白のジャケットにスキニージーンズ、ロングブーツという格好。林田は、薄い青色のライダースジャケットに白いジーンズという格好。


「山谷くん。私も一緒に行くわ」

「私もー。面白そうだから、ご一緒します」

 意外すぎる2人の選択に、俺は驚くと同時に、肝を冷やす思いがした。


 何しろ、この2人は別に仲がいいわけではないはずだ。

 森原にとっては、林田は親友の妹だが、姉のちひろほど仲がいいわけではない。それどころか、前に房総半島でバッティングした時は、嫌な表情を見せていた。


 林田にとっても、森原はただの姉の友人くらいだろう。


 なのに、2人とも俺について来るという。どういう風の吹き回しかと思った。

「いやいや。何でついて来るんだよ? 俺は1人で考え事をしたいんだ。それにキャンプしながら色々回るから、女にはキツい旅だぞ」

 そう言い聞かせて諦めてもらおう、と思った。そもそも「女」の面倒を見ている余裕はない。


 しかし。

「ロンリーウルフなんて、先輩には似合いませんよ」

「大丈夫。私もキャンプ道具持っていくし。それに君と違って、一応社会人だから、4、5日くらいしか付き合えないし」

 2人揃って反論を受けていた。


「誰がロンリーウルフだよ」

 苦笑しながらも、応じるしかなかった。


 というより、勝手についてくるような気配だった。

 林田はともかく、森原が来てくれるのは、予想外だったから、これは「渡りに船」でもあった。


 林田が見ていないタイミングを見計らって、森原に接近できる可能性がある。というよりも、これはチャンスだと思った。

 せっかくわざわざ来てくれるということは、脈がないわけではないはずだ。


 俺は、この旅の中で森原に、再度「告白」をしようと思い立つのだった。


 同時に、森原の誕生日が間近に迫っていることを知っていたから、そのタイミングを狙おうと思うのだった。


 彼女たちは、行き先は完全に俺任せでいいという。


 1人きりで「考える」ためのツーリングのはずが、3人の旅になっていた。しかし、結果的には、この3人の旅が、俺の人生に影響を与えることに繋がる。


 まずは、予定通り三陸海岸を目指した。


 行き先は、特に決めていなかったが、森原に意見を聞くと、

「それなら、大川おおかわ小学校がいいわ」

 と言われたため、ひとまず彼女の先導で、そこを目指した。


 仙台市の森原の実家のある、六丁の目からは約1時間30分ほど。


 昨日、通ったコバルトラインには行かずに、国道398号を真っ直ぐに走った先に、それは確かにあった。


 宮城県石巻いしのまき市立旧大川小学校跡。


 北上川に面して建つ、その建物を前にすると、声すら出なかった。

 あまりにも壮絶な光景が広がっていた。


 屋根は形をなしておらず、窓という窓はすべて吹き飛び、かろうじて鉄の骨組みだけが無残に残っている。その建物を見て、俺はかつて学校の教科書で見た、ある物との共通点を感じた。


 広島市にある原爆ドームだ。


 まさに、まるで「爆撃」にでも遭ったような建物で、いやそもそも建物とは言えない、構造物の残骸だった。


 ここは、「震災遺構」として残されているが、説明によると、当時、2011年3月11日。北上川の河口から5キロの地点に位置するこの小学校には、約10メートルの津波が押し寄せた。


 校庭にいた児童78名中、74名と、校内にいた教職員11名のうち10名が死亡。その他、学校に避難してきた住民、保護者、スクールバスの運転手まで亡くなり、学校の管理下にある子供が犠牲になった事件としては、太平洋戦争以来、最悪の惨事になったという。


 普段は騒がしい林田も、この時ばかりは言葉を失っていたが、東北人の俺と森原には特に格別な思いがあった。


 ましてや、当時は秋田県に住んでおり、震災の被害をあまり受けなかった俺とは違い、仙台市に住んでいた森原は、感じるところがあったようだ。


「私は何回か来たことあるけど、やっぱり何回見ても、胸に来るものがあるわね」

 その彼女の言葉に嘘はなかった。


 証拠に、

「実は仙台にも荒浜あらはま小学校というのがあってね。当時、5メートルくらいの津波に襲われて、児童が取り残されたのよ」

 彼女は、震災の当事者として「生の声」を語ってくれるのだった。


 彼女の話は続いた。

 曰く。幸い、荒浜小学校では児童のほとんどが屋上に逃げて、ヘリコプターで救出されたが、1人の児童が亡くなったという。しかし、荒浜地区では200〜300人が津波で亡くなったという。


 当時、仙台市内の高校に通っていた、高校1年生だった森原にとっても、実家近くにある母校の、七郷しちごう小学校にたくさんの人が避難してきたのを見ていたらしい。


 仙台市民だった彼女には、東日本大震災は決して他人事ひとごとではない出来事だったのだろう。


 さらに、その当時、仙台空港も機能不全に陥り、市内の交通が麻痺。渋滞が多発し、コンビニには火事場泥棒が入ったり、電気が消えたりで、相当大変な思いをしたという。


 こういうのは、実際、当事者にしかわからないものだ。

 俺は秋田県出身。林田は神奈川県出身で、どちらも当時は学生だったが、どちらも東北の太平洋側ほど、ひどい影響は受けていない。


 貴重な話だった。


 この話を聞けただけでも、森原が来てくれて良かったと思う。


 その後、海岸線を北上して行くと、震災当時にはニュースで衝撃的な映像が流れた、南三陸みなみさんりく町、気仙沼けせんぬま市という地名を通りかかる。


 右手に見える海は、穏やかだったが、震災の爪痕は未だに残っており、海岸線沿いが更地になっていたり、高い堤防が築かれていたり、建物が高台に移っていたり、という光景が随所に見られる。


 そこは、まさに震災の跡地。戦争で言うところの「爆心地」に近い。


 そして、2時間ほどで、そこに到着した。


 岩手県陸前高田りくぜんたかた市。

 ここは、東日本大震災で、特に大きな被害を受けた街の一つで、震度6弱の地震が発生。大津波によって、市中心部が壊滅し、全世帯の7割以上が被害を受け、鉄道も流失。2011年4月9日時点で、死者1211人、行方不明者は1183人、避難者は16579人と言われている。


 ここでは、当時テレビにも映った、有名な「奇跡の一本松」を見に行った。


 海岸の堤防前にポツンと伸び、周りに残る旧陸前高田ユースホステルの瓦礫と、更地の中で、一際存在感を放っている一本の松の木。

 震災当日。陸前高田市に襲いかかった津波の最大の高さは、17メートルと言われており、この松の木の10メートル付近まで波をかぶったという。


 にも関わらず倒れなかったため、「奇跡の一本松」と呼ばれたのがきっかけだ。


 なお、この辺には、7万本もの松原があり、この木だけが唯一残ったが、理由としては一本松と海の間に、このユースホステルの建物があり、それが防波堤の役割を果たして、津波の直撃を防いだという。


「自然の力って怖いよね」

 森原の一言は、同じ東北人として、俺にも感じるものはあったが、実際の陸前高田市の当事者にとっては、それ以上の「何か」を感じさせるのかもしれない。


「それにしても、すごいですね。たった一本だけ残るなんて」

 珍しく、あの林田までもが、松の木に見入っていた。


 だが、振り向いて、突然、

「先輩は、津波が来たら、私の前に立って、守ってくれますか?」

 そんなふざけたことを抜かすから、


「やるか! つーか、そんなことしたら、2人とも死ぬって!」

 と言い返すと、「冗談ですよー」と彼女は笑っており、森原までつられて笑っていた。


 どうにもこいつといると、しまらない、というか緊張感が薄れる。

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