第10話 転機
林田とのツーリングからしばらく経った頃。
結局、森原は思ったよりは怒ってはいなかったらしく、またツーリングに行こう、とは言ってくれたものの、元々優しい子だ。気を遣ってくれたのかもしれない。
そんなわけで、日常に戻ったが。
「はぁ。だっるー」
朝っぱらからテンションがダダ下がりの林田が、文句を垂れていた。ちなみにその日、溝坂は朝から社用で会議に参加しており、いなかった。それも狙ってのことだろう。
「朝から何だよ?」
俺まで気分が滅入りそうだ。と思ったら、
「だって、何なんですか、このスケジュール」
彼女が紙で示したのはWBSだ。
通常、ITの構築作業というのは、3か月から数か月かけて、要件定義からリリースまでを果たすもので、俺が今、手がけている案件は、その中でも「大型案件」と言われる、通常なら半年はかかる内容のものだった。
これを3か月でやろうというのが「溝坂」はじめ、上層部が決めたことだ。
曰く。
「お客様の要望だ。絶対に遅延は許されない」
だそうだが、俺に言わせれば、その「お客様の要望」が滅茶苦茶すぎるのだ。
どこの業界でもそうだが、上の人間は、現場のことをわかっていないことが多い。
「これくらいで行けるだろう?」
という目測で、勝手にスケジュールを組んで、後は下の人間にやらせるから、こういうことが起こる。
「まあ、お前の言いたいこともよくわかる。だが、社会人ってのはそういうものだ」
「そうですかぁ? 何か納得いきません」
そんな彼女に、真向いの席に座る川谷先輩が、
「まあまあ、林田さん。ヤバくなったら、僕がフォローするから」
と言っていたが。
実際の問題として、俺自身が、この多重労働と、無理なスケジュールには参っていた。
何しろここは、人間なんて「替わり」がいるくらいにしか思っていない、つまり「人を物としか思って」ない連中が仕切るブラック現場だ。
いちいち、働く人の面倒なんて見てくれないし、長時間労働、残業超過、
そんなものは、上の連中には、ハナから眼中にない。
過労で倒れたら、根性がないと言われる精神論がまかり通っている、異常な世界。
そんな現実に、俺も嫌気が差してきていた。
大卒後に、働き始めてもう3年が経つが、こんな業界で今までよく働いてきたと我ながら思う。
そんな6月上旬。
梅雨の時期が迫ってきており、その前にツーリングに行きたいと「彼女」に言われ、LINEで約束をして、待ち合わせ場所に向かった。
土曜日。
空は曇り空で、少し蒸し暑いような気候だった。昨今の地球温暖化の影響で、6月初旬とは思えない湿気を感じる。
中央高速道路、
三鷹市に住む俺の家からは約50分。彼女の家からも約1時間15分ほどと、それほど遠くはない。
待ち合わせ場所には、前回と同じように早く向かった。
もちろん、相手は森原沙希だった。
談合坂SAは、中央高速道路の神奈川県から山梨県に入ってすぐの辺りにあり、この辺りでは一番大きなサービスエリアで、フードコート、土産屋、コーヒーショップまで揃った大きな施設で、時間を潰すには丁度良かった。
とは言っても、俺はいつものように喫煙所で、彼女を待つ。
待ち合わせ時間の10分前。一際目立つ、彼女の銀色の旧型カタナが高速から上がってきた。そのまま、バイク専用の駐車場に停めて、ヘルメットを脱ぐ。
今日は、乗馬に使うようなキュロットと呼ばれる、細いズボンを履き、上は緑色のフライトジャケットを着ていた。
相変わらず、いつも服装が違う。一体、何着、服を持っているんだろうか、と思いながらも、タバコをもみ消して、彼女の元に向かう。
「おはよう」
こちらから声をかけると、森原はわずかに微笑んで、
「おはよう。早いね」
と様子はいつも通りのように感じたから、少しだけ安心できた。
そのまま、適当に土産コーナーを見ながらも、彼女と目的地と今日のルートについて話し合う。
LINEによれば、彼女は長野県に行きたいとのことだった。
彼女は、特に一度も行ったことがない、「ビーナスライン」に行きたいという。
ビーナスラインは、長野県の諏訪地方の北部に広がる、高原の中を走る、ライダーの間では特に有名な道だ。
俺自身は、昔、行ったことがある。
談合坂SAからは、中央高速道路で真っ直ぐ進み、下に降りて、大体2時間くらいはかかる。
その日は、久しぶりに彼女と一日中、一緒にいられるということで、俺のテンションも上がっていた。
今回は、一応は行ったことがある俺が先導した。真っ直ぐに中央高速道路を走り抜け、諏訪南インターで降りたら、後は県道を乗り継いで真っ直ぐだ。
もっとも、ガソリンタンク容量に難がある新型カタナのせいで、俺は途中、給油を強いられていたが。
ビーナスラインに着くまでの間に通り抜けた田舎道が特に素晴らしく、八ヶ岳エコーラインと呼ばれる、道幅の広い道路を通る。
その名の通り、雄大な八ヶ岳山麓を駆け抜ける上に、主要国道ではないので、交通量も少ないし、信号機もたまにある程度だった。
道の両脇には、畑が広がり、右手には八ヶ岳、左手のはるか彼方には富士山が見える、まさに絶好のツーリングコースだ。
そのまま、山道を登って行くと、やがてビーナスラインに到着する。
標高1000メートルを越える高地にあるため、この辺りは夏でも涼しい、一種の避暑地にもなっている。
すぐ近くには、白樺湖や
そのビーナスラインで、互いにワインディングを楽しみながら、走行し、やがて「霧ヶ峰高原 ドライブイン霧の駅」という、道の駅のような施設に到着。
ここでは白樺高原牛乳を使った、ソフトクリームが有名であり、俺も彼女も同じ物を注文し、ベンチで座って食べることになった。
その間、ひっきりなしにバイクが、どこからともなく現れては、出発していく。
「バイク、多いね」
「まあ、ここは有名だからな」
何気ない会話、他愛のない話だけでも、俺は彼女と一緒にいられるという「喜び」を感じていた。
次に向かったのは、そこから1時間ほどで行ける場所であり、地理的にはさらに「奥地」に入る。
着いてみると、駐車場から見える景色が、想像を絶するくらいに「壮大」だった。
標高2000メートルを越える高地から見下ろす、無数の山塊。空はどこまでも広く、開放感があり、雲は眼下の山にかかって、少しだけ雲海のような様相を呈している。
「すごいね、ここ!」
珍しく、感情を露わにし、柵の前から見える景色に大きな声を上げる彼女の横に俺も立つ。
「ああ。こうして見ると、人間なんてちっぽけなもんだ。毎日、あくせく働いてるのがバカらしく思えてくる」
その、俺の一言に、勘のいい彼女は、どうやら気づいたようだった。
「何かあったの?」
そこで、俺は今の仕事の現場の不満、IT業界自体の不満、さらにはそもそも「日本人は働きすぎだ」という話までしてしまっていた。
気心が知れている彼女の前では、俺も素直になれる。
だが、それをしばらく黙って、聞いていた彼女の発した一言は、意外なものだった。
「じゃあ、辞めちゃえばいいじゃん」
「んなこと言ったって、簡単に辞めれるかよ」
「そんなことないよ。簡単だよ」
長い髪が、高原に吹きつける風に揺れて、髪の先が口元にまでかかり、それを払いながらも彼女は笑顔で答えるのだった。
「人生は一度きり。それに君はまだ若い。今、仕事を辞めたって、いくらでも取り返しがつくんだよ。これが30歳を越えると難しくなるし。もういっそのこと、仕事を辞めて、最後のモラトリアムでも楽しんじゃえば?」
大学生時代の彼女は、かなり優秀な生徒だった。頭もいいし、運動神経も良かったし、その上、容姿までいい。
そんな彼女が、わざわざ「回り道」をするような人生を、推奨してくるとは思っていなかった。
「若いって、お前も同い年だろうが」
かえって、その一言で、俺は少しだけ「気持ちが軽く」なった気がしていた。
仕事のことで悩み、将来的にもどうなるかわからないIT業界。この業界では、資格を取れば給料が上がるが、それは一時金として渡されたり、苦労して資格を取得した割には、少ししか給料が上がらないケースが多々ある。
そのことでも、俺は悩んでいた。
「まあね。もっとも、私は君より早い8月生まれだから、もうすぐ26歳になるけど。君よりちょっとだけお姉さんだよ」
そう言って、白い歯を見せ、可愛らしい笑顔で笑っていた森原沙希。かつて、お互いの誕生日を話したことがあるから、覚えていたらしい。
ちなみに、俺の誕生日は11月だ。
「たった3か月の差で何を言ってやがる。それに、今さらモラトリアムって言われてもなあ。何すればいいんだ?」
俺の何気ない一言から発したこの「不満」は、彼女の次の言葉で、大きな「転機」を迎えることになる。
「旅にでも出れば?」
少しだけ、いやかなり考えてしまった。
(旅か。仮に仕事を辞めても、実家に帰るのは嫌だが、その代わり……)
俺は、実家のある、北東北、秋田県の懐かしい情景を思い浮かべながらも、同時に別のことを考え始めていた。
人生の転機が訪れようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます