第7話 林田への課題
俺が、林田ひなのと「ツーリング」に行く条件として、課した課題。
それは、
「要件定義書を今週中に作れ」
だった。
それは、IT業界の新人には、かなり「酷」な試練と言える。
要件定義書。
こいつを説明するには、まずウォーターフォールモデルを説明する必要がある。
IT業界の、特に「構築」作業においては、要は簡単に言うと「受注した」案件、この場合は「構築してお客様に渡すべき作品」、と言い換えてもいいが。
その「作品」、というか「完成品」を作るために、まずWBS(Work Breakdown
Structure=作業分解構成図)というスケジュールを引く。
つまり、何月何日までにこの作品を完成させて、お客様に渡します。それまでにこういうスケジュールで組み立てます、という指標を作るのだ。
そこから、順番に「要件定義」、「基本設計」、「詳細設計」、「プログラミング」、「単体テスト」、「結合テスト」、「システムテスト」、最後に「リリース=お客様に渡す」となるのが一般的なウォーターフォールモデルと言われる。
中でも、この最初の「要件定義」は最も重要で、お客様が示す目標を着実に聞き取り、それを反映した上で、概要的な物を図示し、定義書を起こす。つまるところ、「聴く」力と「作る」力がいる。
こういうのをIT業界では、「上流工程」と言ったりするのだが、要は新人が出来る仕事ではないはずなのだ。
一般的にITの初心者は、構築より「運用・保守」、あるいは「監視」と言って、システムが出来上がってから、そのシステムを「見守る」作業に従事することが多い。
それは、一から物を作る「構築」より、すでに出来上がった物を見守る「運用・保守」の方がレベルが低い、というよりも手順書などがあって、入りやすいからだ。
俺は、この林田ひなのの経歴や能力、資格については何も知らないし、別に知りたくもなかったが、どうせギャルみたいな格好をして、ナメた態度で入ってきた新人だ。
ITのイロハも知らないから、絶対無理だろう、と思っていた。
それも、その要件定義書は通常なら、2週間から1か月はかかる代物だ。もっとも、すでに俺がある程度は要件定義書に着手しているから、残り期間はWBSでも1週間足らずだった。
その日は月曜日だったから、来週の月曜日までに終わればいい。どうせ彼女のことだ。今週いっぱいまでかかるだろうから、後は俺が引き継いで作るくらいの気持ちでいた。
だが、
「わかりました。じゃあ、それ作ったら、ツーリングに行ってくれますね。約束ですよ」
妙に気合いが籠ったような真面目な瞳で、彼女は念を押してきた。
「ああ。作れたらな。もちろん、完璧な出来以外は認めない」
「りょーかいです」
相変わらず、軽い返事だ。まあ、どうせ彼女には無理だろう。後始末でも考えながら、俺は休ませてもらおう。というより実は半ばサボりたいがための、口実作りに林田を利用したという目論見もあった。
ところが。
見たこともない真剣な瞳で、作業に取り掛かった彼女。声をかけづらいほどの雰囲気になっていた。しかも、いつの間にか、眼鏡をかけていた。うろ覚えだが確か、大学時代に会った時もかけていたような気がする、赤いフレームの眼鏡だ。
気がつけば、毎日残業して、必死に取り組んでいた。
さすがに少し申し訳ない気持ちになって、
「なあ、林田。そんなにマジにやんなくていいぞ。ダメだったら、俺が引継ぐから」
と声をかけるも、
「今、忙しいんで、話しかけないで下さい。あと、約束は守って下さい」
鋭い声で制されていた。
驚くべきは、彼女の「集中力」だった。そんなに集中できるなら、最初からやれ、とも思うし、逆に「手を抜いて」いたのだったら、なおさら、
とにかく、こうして月日は流れ。
木曜日の夕方。
一応、俺は彼女のことを気にしながらも、自分に課せられた別の仕事をこなしていた。午後6時の終業時間を回った頃。
さすがに無理だろう、と帰ろうと立ち上がったら、
「先輩。今日中に出来ます。少し待ってもらってもいいですか?」
斜め向かいの席にいる彼女から声がかかった。
「んだよ。メンドくせーな。何時までかかる?」
「あと3時間で仕上げます」
現在時刻は、午後6時過ぎ。まあ、9時なら全然いいか。
かつては、毎日終電近くまで残っていたからな、と思いつつ、俺は外にタバコを吸いに出るのだった。
なんだかんだで、ストレスの源はちっともなくならないし、タバコは辞めるつもりが辞めれていなかった。
相変わらず溝坂のクソは、男を中心に「道具」としか思ってないし、林田は面倒な奴だし、唯一の楽しみは、森原とのツーリングくらいか、と思いつつ。
喫煙所から戻り、残業しながらも、俺は他の作業に取り組んでいた。
そもそも、この現場は、一人頭の「工数」が多すぎるからだ。やることは他にいくらでもある。
通常は、IT業界というのは「構築」、「運用・保守」に分けられるのだが、ここは「構築」も「運用・保守」も、さらには「監視」までやれ、と言われる。
簡単な話、「人使いが荒い」し、1人が複数の案件を抱える「多重労働」になっているから、いつまで経っても、仕事量が減らない。
そのうち、精神的に参って、いつの間にか消えている従業員がいるくらいだし、嫌気がさして辞めては、また新しい「餌食」とも言える新人がどこからともなく来る。
ここは、そういうITの底辺に近い、ブラック企業だ。
途中で、さすがに腹が減ったので、タバコに行くついでに、こっそり自販機でパンを買って、食べてから、自席に戻る。
時刻は9時をとうに回っていた。
「先輩。遅いですよ!」
林田が、珍しく怒っていた。
「ああ、悪い悪い。さすがに腹減ってさ」
「ご飯食べてたんですか? 私がこんなに頑張ってるのに」
気がつくと、俺と林田以外のメンバーは皆、帰宅していた。クソの溝坂はともかく、他の連中まで帰るとは薄情な奴らだ、と思ったが。
「で、何だ?」
一応、面倒だが、彼女の席まで行く。
「出来ました! 見て下さい」
彼女が印刷してきたのは、A4紙で8枚ほどの「要件定義書」だった。
「今から見るのか? 明日でいいだろ?」
「ダメです。今すぐにです」
溜め息を突きながらも、言い出しっぺだから、仕方がなく見てみた。
正直、驚いた。
一体、いつどこでこんな知識を入手したのか。その要件定義書は、ほぼ完璧だったからだ。
若干、粗い部分はあるにしても、概要は掴めているし、構成にも
要件定義書というのは、システム全体を理解し、サーバやネットワークの構成や繋がり、中身の部分まで、きっちりと「理解」しないと、普通は書けないものだ。
「どうですか?」
期待に満ちた瞳を向けられ、俺はしばらくその紙面に目を落としていたが、
「林田」
「はい?」
「お前。何で、新人なのにこんなに書けるんだ? 今まで手抜いてたな」
鋭い視線を向けると、彼女は少しひるんだように、
「そんなことないですよ。必死だったんです」
と、言い訳のように否定していたが。
「まあ、いい。内容的には問題ないだろう」
「そうですか。じゃあ、ツーリング……」
「ただし」
言いかけた言葉を遮って、
「一応、明日、溝坂さんに見せてからな」
本音は「溝坂さん」なんて言いたくないが、と思いながらも、そう返すと、
「はい!」
彼女は笑顔で頷いた。
驚くべきことに、1週間かかるはずの要件定義書を、たったの4日で仕上げてしまった林田ひなの。
人は見かけによらない、というか。俺は彼女のことを「見誤って」いたのかもしれない。
仕方がない。俺だけ飯を食べていたから、さすがに申し訳なくなって、
「林田。帰るぞ。飯でもオゴってやる」
せめてもの償いにそう告げると、
「マジですか? 行きます行きます!」
途端に、学生に戻ったかのような口調になり、同時に犬のように喜んでついてくるのだった。
全く、妙な女に懐かれた気がする。というか、そもそも俺はこいつを「女」として見ていない気がするのだが。
どちらかというと、「親戚の高校生」くらいにしか思っていない。
結局、俺の給料では大したものを奢る余裕がなく、普通の定食屋だったが、それでも彼女は喜んでいる様子だった。
ちなみに、翌朝。溝坂に見せると、
「すごいね、林田さん。山谷より使えるんじゃない?」
きっちりと嫌味を言われていた。
どうせこいつのことだ。俺が林田に、要件定義書作りを「丸投げ」していたと見抜いていたのだろうが。それ以上に、奴は「女に甘い」下衆だが。
とにかく、彼女は「合格」になった為、次の土曜日にツーリングに誘われていた。
(さてはあいつ。土曜日にツーリングに行きたいから頑張ったのか)
今週中という目標を与えていたが、金曜日に完成なら、確認が月曜日になるから、その前に終わらせたかったのかもしれない、と思った。
動機はともかく、彼女は一応、頑張ったのだ。俺は、彼女とツーリングに行くことを了承した。
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