友だち

大塚

第1話

「アイちゃん、うちら友だちやんね」

 ユリの囁き声が、ずっと怖かった。


 ユリとは大学で知り合った。関西から上京してきたばかりで東京のことは右も左もわからない、とりあえず友だちがほしくて映画同好会を選んだと笑顔で自己紹介するユリに、好感を持たない者はいなかった。小動物を思わせる小柄で華奢な佇まい、いつも健康的に紅潮した頬、大きな瞳、全体的に幼い雰囲気を持っているのにそこだけ妙に色っぽいくちびる……。

 誰もがユリの友だちに立候補したけれど、彼女が選んだのはなぜかわたしだった。いや、なぜか、ではない。わたしが誘ったからだ。当時好きだった映画監督の作品を特集するオールナイトのイベントに、わたしは他意なくユリを誘った。ユリ以外の同期や映画同好会のメンバーにも声をかけたけど、結局来てくれたのはユリだけだった。その映画監督は当時は全然無名だったので、まあ無理もない話だったのだけど。それでわたしとユリはふたりで9時間近く映画館の椅子に座り、明け方腰が痛い体が痛いなんて笑い合いながら朝マックをし、また学校でねなんて言って解散した。それからだ。ユリがわたしをいちばんの友だちだと言い始めたのは。

 正直、ちょっと重いかな、とは思った。校内にいるあいだ、ユリは常にわたしの傍らにいた。自分が取ってないゼミにまで遊びに来た。ユリの近くにいると、知らない人に話しかけられる機会が増えた。みんなユリ目当てでわたしはオマケだって分かっているんだけど、飲み会や合コンに誘われるのは楽しかった。ユリはそういう場でも、頑なにわたしの側から離れなかった。お持ち帰りをされるようなことももちろんなかった。ユリを、彼女の下宿最寄り駅まで送り届けるのはわたしの役目だったから。アイちゃんはユリちゃんの保護者みたいだね、と言われることが増えた。それは本心からの感想だったり、ユリと関わりたいのにおまえがいるせいで叶わないという恨み節だったり、とにかく色々な意味を含んでいる言葉だったけどわたしはあまり気にしないようにしていた。ユリほどではないけれどわたしも普通の女の子だったし。別にユリの王子様になりたいわけじゃ、なかったし。


 それでユリと知り合って半年ぐらいが過ぎた頃、わたしはユリに彼氏を紹介した。高校の時から付き合ってるリョウちゃん。交際は高校の時からだけど、知り合ったのは中学の頃だ。同じ地区に住んでて同じクラス。お互いのパパとママにも会ったことがあるし、家族ぐるみの付き合いをしているわけではないけど将来そうなってもしんどくはないだろうな、みたいな距離感でいた。

 リョウちゃんを交えてご飯を食べた次の日、ユリは見るからに具合が悪そうだった。周りからもユリちゃんどうしたのって聞かれて、そんなの分かんないよと思ったけど、原因究明はわたしの係だと誰もが思っているようだった。

「アイちゃん」

 お昼時。食堂でお弁当を広げるわたしに、ユリは震える声で言った。

「うちら、友だちやんね?」

「え?」

 そうだよ、急にどうしたの、そんなふうに答えた気がする。だってその質問はあまりにも唐突で、奇妙に切実で、わたしにできるのは当たり障りのない返答だけで──

「それやったら、またリョウちゃんに会わせてくれる?」

 良く分からない問いかけだった。昨日一緒にご飯を食べたリョウちゃん、わたしの彼氏、そのリョウちゃんにいったい何の用事があるというのだろう。別にいいよ、と言った気がする。ユリはぱっと顔を輝かせ、ありがとう、と本当に明るい声を上げた。


 それから一ヶ月後、わたしとリョウちゃんは別れた。それで、リョウちゃんとユリが付き合い始めた。


 こんなことが、大学在学中ずっと続いた。リョウちゃんの件は偶然だと思っていた。単に、お互い高校生から大学生になって、生活のリズムも変わって、色々合わなくなっちゃっただけだって。でも違った。ユリはいかにも誇らしげにリョウちゃんとのツーショット写真──ふたりとも裸だったし、背景は明らかにラブホの壁だった──を見せてきた。

「アイちゃんのおかげや。ありがとう」

 空いた口が塞がらなかった。でもこれは始まりでしかなかった。ユリは、わたしと親しい関係にある人間をことごとく横から奪い取っていった。奪い取る、という表現は正確ではないかもしれない。ユリは別に誰かを脅したり、暴力に訴えたりしたわけではない。ただ、わたしと親しい関係にある人間に対して、「野原アイより南條ユリの方が魅力的だよ」と訴えかけただけだ。それで、訴えかけられた相手はわたしよりもユリを選んだ。単純な話。

 本当は、本当に、ユリから離れたかった。4年間何度も試みた。でもユリはわたしを離さなかった。わたしから離れようとしなかった。

「アイちゃん、うちら友だちやんね」

 ユリにそう言われると首を縦に振って、微笑む以外に何もできなかった。一度だけ「違うよ」と言ったことがあった。ユリは映画同好会の会長に「死にます」と連絡を入れて、下宿のお風呂場で手首を切った。ユリの部屋に残されていた一筆箋には「アイちゃんと仲良くできないなら生きてる意味がない」と殴り書きで書かれていた、という。人から聞いた話だ。わたしは実際にその遺書? めいたものを見ていない。

 ユリに取られた人、好きだった先輩、慕ってくれた後輩、憧れていたOB、映画のイベントで出会った自主映画を撮っているという若手監督、その友だちで相棒の脚本家、目をかけてくれていた教授、男も女も関係ない。ユリが「欲しい」と思ったらわたしには止める手段なんてなかった。ユリ以外の友だちもいたけれど、あまりにもユリとわたしが行動を共にしているせいで、気付いたらわたしの隣にいるのはユリだけになっていた。


 卒業、就職を機に、やっとユリから逃れることができた。ユリは就職せず、映画のイベントで知り合ったプロデューサーにスカウトされてモデル業を始めたらしい。定期的に写真が掲載されている雑誌が送られてくるけれど、全部見ないで捨てていた。

 わたしの就職先は出版社だった。ユリからは卒業後もメール、しばらく経ってからはLINEで連絡が来ていたけれど、定型文みたいな返信だけ送っていた。それでもユリはわたしとの繋がりを断つ気はないらしかった。

 ある時、勤務先から出版されている書籍が映画化されることになった。出演者一覧の中に南條ユリの名を見つけてゾッとしたけれど、別に映画を見なければいい、こちらの意思で回避できる。

 そのはずだったのに、なぜか、映画の完成披露試写会に部署の先輩と共に参加することになってしまった。本来顔を出す予定だった担当編集者が体調を崩してしまい、やむなく、その日何の予定もなかったわたしに白羽の矢が立ったのだ。試写会を終え、スタッフ、キャスト、それに一部の関係者で懇親会を行うという名目で居酒屋に流れた。ユリはすぐにわたしを見つけた。だがわたしも、見つけてしまっていた。

須東すどうさん?」

「ノバラちゃん!」

 須東さんは、わたしが昔追っかけをしていたインディーズバンドのボーカルだった。バンド自体はわたしが大学を卒業するぐらいのタイミングで解散していたのだけど、須東さんが個人で音楽活動をしているということは風の噂で聞いていた。その彼に、こんなところで再会するなんて。

「うわっ懐かしい! 元気してた? え、いま、何してるの?」

「この映画の原作出してる会社で働いてるんです。営業で……」

「出版社さんかぁ! ノバラちゃんぽいね、似合う似合う」

 ノバラ、というのはわたしがチケットを予約する時に使っていた名前だ。須東さんはわたしの本名をフルネームで知っているけど(わたしが差し入れを送る時なんかにいちいち名前を知らせていたからだ)、今でもノバラちゃんと呼んでくれるのがものすごく嬉しかった。

 だからわたしは、一瞬、自分が置かれている状況を忘れてしまったのだ。


 モデルで俳優の南條ユリと新進気鋭のミュージシャン須東サクラが熱愛、結婚、というニュースは、それから三ヶ月もしないうちに世間を賑わせた。死にたい、と思った。須東さん。大好きだったのに。本当に変な意味はなくて、須東さんと付き合いたいとか思ったことは、なくて、須東さんの音楽が好きで、人柄が好きで、バンドが解散してから一度も会わなかったわたしを「ノバラちゃん」と呼んでくれる須東さんが、好きで、好きだったのに。


 仕事を辞めて失踪でもしたかったけど、現実的にそれは不可能だ。わたしは須東さんとユリの結婚式に出席し、友人代表としてスピーチまでした。第一子が生まれた時には、ユリはマスコミに報道されるより先にわたしに子どもの写真を送ってきた。赤ら顔の猿みたいな生き物の写真。可愛いと思えるはずがない。でも子どもには何の罪もない。ただ、須東さんとユリがセックスしているところを想像して、吐いた。


 誰でもいいからわたしを助けてくれ。

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