第13話「火を噴く」の巻

 ラーメン屋クコチは異様な臭いに包まれていた。庶務課長とのソフトボール対決で年甲斐もなく走り回り、筋肉痛を起こしている祭林の貼った湿布の臭いである。ほかに加藤、福本、そして新たに加わった国元がいた。メンマを肴にビールを飲んでいる。閉店間近、ほかに客はいない。

 「祭林さん、臭いよ。完全に営業妨害ですよ。ねえ、おやじさん」

 ラーメン屋の主人菊池は言った。

 「確かにこれじゃ、ラーメンの味がわからなくなる。本日はそろそろ看板にしましょう。いったい何の臭いなんですか」

 「菊地さん、ごめんなさい。これは私の学んだ忍法秘伝の膏薬で、いろいろな薬草が練りこまれています」

 「もう、年寄りなんだから、無茶しちゃだめですよ」と福本。

 「偉そうに言うなよ。君は随分肥満しているようだが、何か運動をしとったの」と加藤。

 「言っては何ですが、僕は高校のとき短距離の選手でしたよ」

 「見えない見えない」と加藤。

 「うそじゃないですよ。そういう加藤さんはスリムというより貧相な体格ですが、何かやってたんですか」

 「私は演劇部でした」

 「やはり、軟派な文化会だ」

 「いや、演劇は体育会系ですよ」と言ったのは国元だった。

 「もしかして、国元さんも演劇?」と加藤。

 「はい。高校のとき全国大会にも出ました。卒業後、役者をめざして東京にも行きました。理容学校に通いながらでしたが、小さな劇団に在籍したことはあったんですよ」

 「へえ、それは本物だ。国元さんはギターも弾けるし、芸達者だな」

 「それは劇団の資金稼ぎで、クラブで演奏をしていたからです。カミさんとはそういうところで知り合いました」

 「どんな系統の芝居をしてたんですか。シェークスピア?」と加藤。

 「いえいえ、アングラですよ」

 「アングラ?」

 「ええ、前衛の喜劇を目指してました。一時は夢の遊眠社なんかと張り合う勢いだったんですよ」

 「野田秀樹の夢の遊眠社。見たことあります。それはすごい」と福本。

 「体育会の福本さんでもそういうの見るの」と加藤がひやかす。

 「いいじゃないですか」

 「そういえば、今朝、まちをうろうろしていると、中央劇場に変な芝居がかかってましたよ」と加藤。

 「あのどこが中央なんだっちゅう感じの場末の芝居小屋ですね。加藤さん、何であんなところうろついてるんですか。さすが閑人だね」と福本。

 「いいじゃない。ひとがどこ歩こうと。好きにさせてよ」

 「で、変な芝居ってどんなんですか」と祭林。

 「ああ、『股旅地底人』だったかな。変でしょう」

 「地底人?」と大きな声を出したのは国元だった。

 「どうしたの。国元さん」

 「それ、なんていう劇団でした?」とまた国元。

 「それは、見てないですね。ごめんなさい」

 「面白そうじゃない。見にいきましょうよ」と祭林が提案。

 国元が休みの日曜日。四人の「地底人観劇ツアー」が敢行された。

 「なんだか、わくわくするな」とポップコーンをぱくつきながら福本が言う。

 「幕が開く前の雰囲気っていいものですよね」。加藤は酢昆布をしゃぶっている。

 「今日は仲がいいんだね」。祭林は膏薬の臭いがする足をさすっていた。

 国元に言われるまま、四人は最前列の真ん中に陣取っていた。ほかの客は数えるほどしかいない。

 「この芝居、たぶん、僕が昔やってたのと同じタイプです」と国元。

 「股旅物やってたんですか。イメージ合わないな」と福本。

 「地底人ですよ。アンダーグラウンド。つまりアングラです。今から、こういう芝居の正しい見方を実践します。できれば、皆さんも参加してみてください」

 「正しい見方? 参加? アングラにポップコーンはいけませんか」

 「一向に結構。これは喜劇です。できるだけ、派手に食べながら、やじってみてください」

 「やじるんですか。できるかな」

 本ベルが鳴り、幕が開いた。

 「ウワーッ」という叫び声とともに、股旅姿の白塗り男が舞台に転げ出てきた。土を払うしぐさで立ち上がり、口上を述べる。

 「おひかえなすっておくんなさいやす。早速のおひかえありがとさんにございやす。手前、生国とはっしますはゲイ州ホモ之郷蛇穴ビルA棟ヘノ3番でございやす。姓は大木、名は一郎。人呼んで、アナコンダの一郎とはっしやす」

 国元は「大木」とつぶやいた。祭林が横顔を見ると、国元のほほに涙が伝っていた。祭林がどうしたのかと尋ねようとしたとき、国元は鼻をすすって、そのまま息を吸い込み、「かまぼこ!」と叫んだ。福本は驚いてポップコーンをばら撒いた。「何だとお!」と舞台の役者が客席を睨む。間髪入れず国元が「板についてます!」。「ありがとう!」と役者。

 「何ですか、今のは」と福本。

 「おきまりのやじですよ。福本さんもやってみてください」

 「何でもいいんですか」

 「いいですよ。役者を困らせてください」

 「よーし、じゃあ。大根!」

 加藤が福本を押さえつけた。「役者さんに向かって何てことを」。

 舞台の大木一郎は、口をへの字に結び、剣を抜き、福本に向けた。

 「いかにも、いかにも拙者、売れぬ旅芸人でござる。しかし、大根役者とは聞き捨てならぬ。無礼者。手打ちにいたす。そこへ直れ! ……と言いたいところだが、このままでは芝居が進まぬ故、勘弁してつかわす 以後、口を慎め」と刀を鞘に戻し、ニコリと笑った。

 「怒られちゃったじゃないですか」と福本は青ざめていた。

 「いいんですよ。あれもパターンです。おかげで役者は調子が出たようです。福本さん知ってるのかと思いましたよ」

 そこへ、裸の上半身に茶色のクリームを全身に塗りたくった数人の男が現れ、大木を捕らえ、連れ去った。囚われた大木に酋長の息子が惚れ込み、牢屋から出してくれる。彼はホモだったが、大木一郎は、それだからといって差別するような人物ではない。彼と抱き合い、兄弟のちぎりを結ぶ。隠れ穴で地上の素晴らしさを話すと、酋長の息子は地上に出たいと言い出し、二人は駆け落ちをすることになる。穴を掘って進むうちに、大木は徐々に地底人の風貌に変わっていき、逆に酋長の息子は白い女になっていく。そして、濡れ場がある。もう少しで、地上というときに、酋長率いる地底軍に追いつかれる。

 さあ、チャンバラが始まった。国元が立ち上がった。

「行きますよ。乱入です」

 ほかの三人はわけも分からず舞台に引きずり出された。国元が叫ぶ。

「一人に多勢で襲い掛かるとは卑怯千万。大木殿、すけだちいたす」。舞台はチャンバラになった。

「どこのどなたか存じませぬが、かたじけない」。国元は敵の剣をかいくぐりながら、言った。

「存ぜぬとは面妖な。わしじゃわしじゃ」

「おお、なんと国元殿! お懐かしゅうございます」

「懐かしがって、泣いておる場合ではない! チャンバラに専念せよ」

 福本がポップコーンを投げつけた。地底人がそれを拾って食おうとするところへ祭林が蹴りを入れ、倒れた地底人に加藤が馬乗りになって、酢昆布を口にねじ込んだ。地底人は酸っぱい顔をしながら死んだ。すべてアドリブで展開している。

 祭林も負けてはいられないと、酋長に襲い掛かった。酋長は怪しいしぐさをした。酋長の息子が「お父様の妖術に気をつけて!」と叫んだが、祭林は魔法にかかり、舞台袖へと消えていった。

 しばらく一進一退のチャンバラが続き。大木が叫んだ。

「国元殿。力合わせて例の技を」

「あい分かった! 大木殿」

 国元と大木は剣を捨て、腰を振りながら不思議な踊りをした。息はピッタリである。そして、酋長に向かって光線を発射。酋長はうめき声を上げながら袖へと消えた。

 すると袖から、二メートル半はある化け物が現れた。酋長が祭林を肩車して布をかぶっているようだ。祭林は茶色い獣のメイクアップをしている。下の酋長が言った。

「これがわしの本性じゃ。人呼んで、モグラ大王!」

「そういえば祭林殿はモグラに似ている」

 そのとき、こともあろうに祭林は火を噴いた。

 客席から悲鳴が上がり、非常ベルが鳴り響き、緞帳が降りた。

 さいわい、火事にはいたらなかったが、劇場の支配人には怒られ、大木の劇団は追い出された。詫びのしるしに、ラーメン屋を借り切り、劇団員全員を招いた。

「拙者が火を噴いたばかりに、舞台が台無しになり申した。面目次第もござらぬ。かくなるうえは、腹かっさばいてお詫び申し上げる」

「祭林さん。言葉が変、変」と福本。

「いえいえ、この人、おもしろいなあ。おかげで、最高の舞台でした」と大木。祭林は喜んで、また火を噴こうとし、皆に取り押さえられた。

「それより、大木。久しぶり」

「国元さん。元気でしたか」

 大木と国元は無言で手を取り合い、やがて、顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。

 しばらくして、加藤がどういう知り合いなのかを尋ねると、長い話になった。

 二人は、同じアングラ劇団の団員でともに苦労をした仲らしい。国元が二枚目で大木が三枚目、その絶妙な絡みが劇団の売り物だったという。世界進出という同じ夢を描いていたが、国元が結婚して郷里で理髪師になると言い出し、大木は失望して、先に劇団を飛び出した。二枚看板を失った劇団は消滅した。二人の間には友情という言葉に納まりきらない関係があった。しかし、その後、今日まで再会することはなかった。

「しかし、僕の劇団だと分かって見に来たんですか」

「ああ、『地底人』といえばね」

「このまちは初めてなんです。国元さんの郷里だということも知っていました。一人前になってから乗り込みたいと思ってましたが、中途半端なまま、来てしまいました。『地底人』は国元さんへのメッセージでしたが、こんな形で出会えるとは」

「大木、夢を裏切って、すまなかった」

「国元さん、それは言いっこなしですよ。それに、僕が劇団を飛び出したのは、国元さんが演劇をやめると言ったからじゃないんです」

「えっ? それじゃあ、なぜ?」

「国元さんの結婚で恋に破れたからです」

「誰との恋? 俺のカミさん?」

「違いますよ」

「まさか、俺か?」

 それを聞いていた祭林は、火を噴いて叫んだ。

「ウウォーッ。痛い。青春の痛みだ。せつない。この恋、せつなすぎますぞーっ」

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