第8話「伝説をつくる」の巻
退院間近のある日、祭林は加藤と病院の屋上で話していた。すでに、車椅子は必要なくなり、いつでも退院できそうな様子である。
「祭林さん、退院したら最初に何がしたいですか」
「実は、ずっと気になっていることがあるんです」
「何でしょうか」
「あの臨死体験の中で出会った、前の部長のことです」
前の部長とは、祭林をリストラしようと画策し、祭林の一世一代の大芝居で逆にクビにされた男だ。祭林が脳溢血で倒れて死の淵をさまよったとき、三途の川で出会い、木の枝に揺れるむくろも見た。
「見舞いに来た会社の者にも聞いたんですが、誰も知らないんですよ」
「ほうほう、それで」
「あれが本当にあの世の入り口だったとすると、部長は首を吊ったことになります。まだ、どこかにぶら下がってるんじゃないでしょうか」
「……私、探しませんよ」
「さすが加藤さん。察しが早い」
「探しませんよ。ぶら下がっている人なんか」
「まあ、そう言わずに。生きていることさえ確かめられればいいんですから。夢だったって分かればそれでいいんですから」
「いやですよ。ぶら下がっていたらどうするんですか」
ほどなく、二ヵ月の入院生活を終え、自宅療養期間が始まったが、祭林は家にじっとしていられなかった。さすがに一人で出歩くのは危ないと、加藤が連れ出された。まず、部長の家に行った。門柱の石の表札には「菊池」と書いた紙が張ってあった。部長の姓とは違う。祭林は数年前にこの家を一度訪れたことがある。奥さんのお葬式のときに帳場の手伝いをした。そのときは感じなかったが、大邸宅が多いため、人影がなくさみしいところだ。バブル崩壊で維持できなくなったのか、空き家も目立つ。部長もこの家を手放したのか。重い曇り空、昼間にもかかわらず、薄暗くなっていた。背後に山と森のある自然豊かな風景も、かえって気味が悪い。山の方から犬の遠吠えも聞こえる。
「いやな予感がしてきましたよ。出直しませんか」と加藤。
「彼の解雇は、私にも大きなかかわりがあります。このままでは私も夢見が悪い」
「しかし、引っ越されたようですよ。何かほかに手掛かりはあるんですか」
「裏山に鳥居が見えます。神様に聞いてみましょう」
祭林は、いやがる加藤を連れて裏山に入り込んだ。確かに古い木の鳥居があり、小さなほこらがあった。風が木の枝をザワザワと鳴らす。
「首吊りにはピッタリの場所ですな」
「やめてくださいよ」
無視して、ほこらに手を合わす祭林。祭林が顔を上げると、急に光が差し、ほこらの後方から犬が現れ、続いて人影が…。
「部長」と祭林はつぶやいた。
加藤は「ウワーッ」と叫び声を上げ、卒倒してしまった。
雲が切れ、日の光が木漏れ日となって、明るい雰囲気をつくっていた。
「これは祭林課長じゃないですか」
それは、本当に前の部長だった。生きている。しかも笑顔だ。
「部長。お元気でしたか」
「いやあ、何とか生きていますよ。こうやって、毎日犬の散歩ですよ。……それより、どうしました。こんな所へ」
祭林は、自分のせいで部長がクビになってしまったことをずっと気にしていたと伝え、その後、自分が病に倒れ、三途の川で部長に会ったことを話した。
「……三途の川ですか。それは本当に私だったのかもしれません。この場所で、本当に首を吊りました。しかし、ロープが切れて地面に落ちました。そしたら、この犬が横にいましてね。捨てられたんでしょう。お互いに頑張ろうなと誓い合いました」
「部長……。申し訳ない」。祭林は土下座をした。
「これこれ、いけません。手を上げてください。何も恨んだりはしていません。悪いのは私です。それに、私は捨てられたわけではありません。社長には私から辞表を出しましたし、ちゃんと退職金を出していただきました。私が勤めた数十年間の仕事も認めていただきました。昨今の非情なリストラとは違います。自殺しようとしたのは自分が情けなかったからなのです」
部長は祭林を抱き起こしながら、続ける。
「会社時代、祭林課長には大変なご迷惑をおかけしました。いつかぜひ、会ってお詫びをしたいと思っていました。こちらこそ、本当に申し訳なかった」
「部長」。「祭林課長」。二人は、涙を流してがっちりと握手をした。
「そちらの人は」
「加藤さんといいます。ひょんなことから友だちになりまして、今日も一緒に部長を探しに来てくれました。メーカーの販売代理店の人で、昔、部長と喧嘩したことがあったらしいですよ」と言いながら、祭林は加藤を起こした。
「いやあ、びっくりしました。加藤と申します」。ようやく正気に戻った加藤。
「加藤さん? 喧嘩? ……思い出しましたよ。自信満々のやり手の営業マンだった。当時の私は、仕事ができる人を見れば反発を感じ、仕事ができない奴を見ればイジメたくなるような男でしたから」
「仕事ができない奴って、私のことですか」
「いやいや………はは、はははははは。………ところで。そろそろ、店の時間なので行かなければなりませんが、どうです、ご一緒に。私の店へ」
「店?」
「退職金で、ラーメン屋始めました」
「ラーメン? それはまた唐突な」
「はい、唐突でした。おかげでまったく流行りません」
「そうですか。私、『ラーメンの加藤』と言われるほどの者です」
「何をおっしゃる加藤さん。私こそがラーメンを知り尽くした男。通として人後に落ちたくはありませんな」と祭林。
「それは心強い。ぜひ、一杯食べてみてください」と部長。
部長は二人と犬を車に乗せ、二十分ほどかかるという自分の店へと向かった。
「部長。なぜラーメンなんですか」
「この犬からのテレパシーですよ。…ああ、祭林さん、その部長というのはやめてください。あの陰険な部長は死にました。私は生まれ変わったのです」
「それでは、何とお呼びしましょう」
「クコチのおやじとでも呼んでください」
「クコチ?」
「店の名前なんです。……さっきのほこら、クコチ神社というらしいんです。クコチっていうのは、菊池の古い発音だそうです。私も生まれ変わったつもりで、菊池と名乗っています。もちろん、通称ですが」
「それで、表札がそうなっていたんですか」
「ええ。あそこでこいつの目を見てから、私、人が変わりました。変な話ですが、何かの霊力ではないかと思います。ほこらの謂れを調べてみたら、伝説がありました」
伝説というのはこうだった。あの辺りは七世紀ごろの戦場で、ほこらは滅亡した土地の豪族クコチ氏を祀ったもの。若くして非業の最期を遂げた一族最後の当主、狗狐地楚輪彦は死後、山中で天狗となり、犬に姿を変え、後の世の敗軍の落ち武者を助けたという。クコチの犬は弱い者の味方なのだ。
「あなた方をあそこに招いたのも、何かの思し召しではないでしょうか」
「そういえば私、何の根拠もなくあの神社に行きました」。もしかしたら、あの臨死体験も、と不思議な気持ちになる祭林であった。
都心から一つ北の駅の前、場所は悪くない。店に入ると内装も今風で、清潔な感じである。祭林と加藤はカウンターに座り、出されたビールを飲んでいた。待つこと三十分。ようやくラーメンが出てきた。
一口、すすって二人は顔を見合わせた。
「いかがですか」
「正直に言っていいですか」と加藤。
「まずいっす」と祭林。
「やはりそうですか。私もそう思います」
「自分でそう思っていながら、よく客に出せますね」と加藤。
「申し訳ない。私なりに研究はしたのですが、何が悪いのか分からないんです」
「脱サラとかリストラで日銭が稼げる飲食店を出したという話はよく聞きますが、多くは漫然とやって失敗しているそうです」と加藤。
「祭林さん。加藤さん。教えてもらえませんか」
「いいでしょう。レシピを見せてください」
レシピは、しっかりしたものだった。材料も悪いものは使っていない。
「菊池さん。これは失礼ながらあなたの腕が悪いんだ」と加藤。
「たぶん、スピードがないんです。段取りと手際ですよ」と祭林が助言。
その日は店を開けずに徹夜の特訓となった。加藤がスープと麺を再チェック、祭林が道具と材料の配置を工夫し、調理のスピードアップを助けた。クコチのおやじはしごきまくられたが、上手になりたい一心で文句も言わず、「はい」と言って従った。三人の心は一つになった。そして、早朝四時、ラーメン通を自称する二人を満足させるラーメンが出来上がった。
「ありがとう。祭林さん。加藤さん。私、初めて物事に一生懸命になりました」
祭林はこの特訓を眠りもせずに見守っていた犬が気になった。
「この犬、本当にクコチソバノヒコなのかもしれませんよ。おやじさん。あの伝説、いけますよ。話題づくりに『伝説のクコチラーメン』といこうじゃないですか。この味はこの犬が教えてくれたことにするんですよ」
犬が恥ずかしそうにクーンと鳴き、三人は笑った。
一日休んでから、祭林と加藤が伝説を書いた宣伝チラシを駅前で配った。評判は口コミで広がり、やがて、行列の出来る店として、地元ミニコミ誌に紹介されるまでになった。
祭林は会社復帰後、部長の名誉回復運動を行った。社長も彼の退社が願いによるものであったことを明らかにした。祭林と社長は連名で反省文とラーメン屋の推薦文を、お茶目に社内掲示板に張り出した。
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