水曜日の部

日直君は早く帰りたい

 日直の仕事は、そんなに大層なものか?

 うちの担任は若人こそ大衆に無償の労働力を捧げる、奉仕の精神を大事にしたいらしい。

 ということで、俺は今日の日直仕事として、教室の鉢植えに水をやり、黒板をきれいにし、教卓を水拭きする。無償労働を搾取しているのは担任のお前だろうが! という心の叫びを胸にしまいながら。

 本当なら黒板消しクリーナーの騒音を隠れ蓑にして、理不尽な思いのたけをぶちまけてもいいのだが――教室にはもう一人の生徒がいた。

 木谷白香きたに しろか

 名前だけならどこのお嬢様と思うかもしれない。聖徳太子以前の日本のお姫様の名前に似た、毅然としつつも楚々とした雅な名前。

 しかし当の本人は、金髪に一束ピンク色のエクステを装備した、毎日ばっちりメイクでまつげバサバサに長いギャルだ。

 めちゃくちゃやりづれえぇ~……。

 たまにしか授業に出て来ないし、さぞかしただれた青春を送ってるんだろうな……まあ皆まで言わないし想像もしないけど。趣味じゃないからギャルは。俺はビッチ嫌いなんだよッ!!!!

 と、聞かれもしないのに心の中で毒づきながら、俺は木谷を横目に廊下の水道場へ向かった。

 木谷は要するに居残りだ。昨日の数学小テストを受けるために今日は残っているらしい。

 そして、日直の俺は木谷が帰るまで教室を締めることが出来ない。故に帰れない――酷い扱いだなんだこれはなんだこれは!!?

 水拭きの雑巾を洗いながらそうとなれば徹底的に教室にきれいにしてやろうときつく、きつく、それはもうキツク雑巾を絞った。

「ねえ~アンタさあー」

 教室に入った途端ビクッとしてしまった。

 まさか木谷に話しかけられるとは、想像外の出来事だったから。

「この問題わかる? こんなの授業でやってたっけ?」

 やってない問題は出て来ないんだよ!?

 お前が授業サボってるからだろうが!?

 という叫びが秒で文字になって脳内を流れて去ったが、まさかそんなこと話したことも目も合わせた事もないギャルに言えるわけがない。

「……えーと、木谷さんテスト受けてるんだよね? 私語は……」

「知らねー言葉使うなよ、マジキメェ!」

 こ、こわい……ギャルこわい……。

 いや、たぶんこれは俺に言ってるんじゃなくて、テストの文章にキレてるんだ。

 こんな狂犬みたいのを、俺は帰るまで見守らないといけないのか……?

「ねえ! ホンットにわかんないの! マジ助けて!」

「え、えーと……」

 これ以上有耶無耶に無視が出来るほど俺のキモは据わってないし、ギャル以上のコミュニケーション能力も持ち合わせていなかった。とぼとぼと彼女の着く席へ近づく。

「これ! こんなん授業でやった!? あのジジィ声小せぇから授業出ても意味ねぇっつーの」

「……ああ、これ昨日やったばっかのやつだよ」

「あーしが居ねー時の問題出すなよ! ハアッウッザ!」

 こえぇ~……。

 いや、落ち着け落ち着け、俺にキレてるわけではないのだ。このギャルは。

 ……あ、あれ? このギャル、耳にイヤホンつけてらっしゃるけど??

「き、木谷さん? 何聞いてんの? テスト中じゃ……」

「あン? ストラヴィンスキー聞いてんの。時短っしょ」

「す、すと……?」

 海外のアーティストだろうか。俺にはパリピの流行はわからない。

「ね! これ食う!? 最近チョーハマってんの! くっそウメェから、くってみ!」

「ちょ、え、何?」

「何その顔! チョーウケるっ! これね……」

 あ、あれー?

 あなたテスト中ですよねー!?

 極めてフツーに、かつフレンドリーに話しかけてくる木谷に面食らう俺。

 反応に困る!

「あー……チョコが美味しいね、うん……」

「でっしょ~ッ!? リピ買いしてて、マジあーしのうちに山になってっから! こんもり? もっさり?」

「へ、へ~……」

 もう逃げられない。ダメだ、もう俺はダメだ。

 木谷の気まぐれなマシンガントークに捕らわれた俺は、隣の机にさりげなく濡れ雑巾を放置して、とりあえず空いてる席についた。もう逃げる気はない。

 とはいえ、木谷の数学小テストは続いているし、俺も日直日誌を書かなくてはいけない。

「ちょっと離れるけど、いい?」

「おっけーおっけー! ヨユー」

 何で許可取ってんだよ俺……。

 教室の隅に引っ掛けられてる日直日誌を持って、また同じ席につく。今思ったけど、素直に木谷の傍らに帰らなくて良かったのでは?

「ねねねっ、これわかんないんだけど」

「えっ、あー……」

 彼女が帰らないと俺は帰れない。ってことはさっさとテストを終わらせてもらった方が、俺的にも嬉しい。そんな思惑が働いて、軽率にも彼女に解き方を教えてしまった。

 まあ持ちつ持たれつってことで。

「チョー助かる! めっちゃイイ奴じゃん! ありがとー! 名前知らんけど」

「お、おお」

 なんか感謝された。名前は知らないらしいけど。

「あ、そうだ! 感謝のお礼に……左手貸して?」

「左手? 何で?」

「ネイルの練習したいの! 新しいラメ入りの買ったし、ちょっとぬらしてよ」

 感謝のお礼じゃねえのかよ。

「俺の爪にか!? いやいいですいいです!?」

「え~イイじゃん! カワイくするからさ♪」

 ガサゴソとデッカイマスコットのついた学校鞄を探り、小さな小瓶を取り出す。マニキュア持ち歩いてんの?

 キュッとマニキュアの蓋を持ち上げると、サーモンピンクと七色に反射するグリッターぽいのが入った液体が独特の香りを伴って目に飛び込んできた。ムリムリムリ! ムリだって!

「はーい、動かないでねぇ~」

「うわ、ちょっとひんやりする……うぅー……」

 日誌を守っている間に左手は彼女に奪われてしまった。

 ぺた、ぺた、と丹念にサーモンピンクに色を変えていく俺の人差し指の爪。自分の指なのに、変な感じだ。

「日誌は書いてていいから。ほら、日直ファイト!」

「いやいや、気になるでしょ!」

 そう言っているうちに中指の自由を奪われた。全部の指をやってしまうらしい。なんということだ……。

 落ち込んでる時間も空しいので、空いてる右手で日直日誌を埋めていく。少し書きづらいが、左手をちょっとでもずらそうとするとがっちりと掴みなおしてくるので如何ともしがたい。

 木谷の手は白くてほっそりしていて、とても同じ人間とは思えない作りをしている。俺は自分の手が『カワイく』加工されていくのを盗み見るフリをして彼女を観察していた。

 何で俺にこんなことをするんだろう。

 日頃から気まぐれな木谷だから、思いつき程度に弄ばれてるだけなんだろうけど。

 白くてしなやかなのに、ふっくらとした感触が不思議な感じがする。やわくて、たよりないのに、しっかり熱がある。それに意識を持ってかれるとシャーペンがブレる。クソ。

「あーし昨日までずっとバレエの遠征だったからさー、チョー遊び足んなくって! わりぃねー」

「あ、ああ……そうなの。て、バレエ!? バレエってあのフリフリ着て踊るヤツ!?」

「おい動くなっつのッ! そーそークラシックバレエやってんの。もうチョー先生厳しくって、怒られまくったかんね! マジつら」

 そう言いながら顔は真剣に俺の爪先を見ている。その眼差しは普段とは全然印象が違う。

 大きな口でゲラゲラ笑って、目はいつも輝いていて面白そうで。口調はダラしなくて言ってる内容も本気なんだかよくわかんないけど、まっすぐに響いてくる。よくわかんないたまに学年に何名かいるギャル。それが木谷白香だった。

 こういう目付きでクラシックバレエを踊ってるのか……。考えるとちょっとドキドキした。

「遠征って、海外とか行ってたのか? えーと、バレエは……フランス? あ、ロシアとか?」

「いんやー。先生の先生のとこ。大きなバレエ団があって、大人もいるの。そこでめっちゃシバかれてた」

「日本?」

「あったりまえじゃん! あーしそんなうまそーに見える?」

 あ、やっと笑った。

 これまでのいちばん強い印象――無邪気で、無神経で、無垢な笑い顔。

 マニキュアはまだ塗り終わらないけど、もう少しじっとしててもいい。

「てか、あーしがバレエやってんの笑わないんだね。友達にめっちゃ笑われたんだけど」

「うーん、意外だったけど……そもそもあんまし木谷と喋ったこと無いからよく知らなかったし。でもいいと思うよ」

「ホンマ?」

「ギャップ的にありだと思う」

「はーあ?」

 うん、笑ってた方がなんか安心するな。木谷に限っては。

 俺はなんだか木谷につられて少しだけ楽しい気分になっていた。

「授業休み過ぎて単位ギリだけど、ちゃんと卒業してから留学するってマミーと約束してっから、今日もクソだりぃーけどがんばって来たんだよね」

「おーえらいじゃん」

「だしょー!? もっとほめてくれていいかんね!」

「はは」

 俺の左手の爪は残らずサーモンピンクに染め上げられた。ふうーっと木谷に息を吹きかけられて、俺はビクッと肩をあげてしまってばつが悪かった。

「いいッしょこの色! めっちゃカワイー」

「これどうすればいいの?」

「明日もこれで来ればいいじゃん」

「えー……」

 明日、このままサーモンピンクの爪で来た俺を、木谷は笑ってくれるのか?

 それならいいけど。

 木谷の無邪気で、無神経で、無垢な笑い顔。少し楽しみだな。

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