美少女の手料理
「ねえねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんって、何て名前なの?」
「名前? ああ、そういえば自己紹介とかしてなかったな」
思い返してみても、真那に名乗った覚えもない。陽翔は真那の名前を知っているが、それは真澄が呼んでいたからであって、互いに自己紹介はしていない。
未だに自己紹介をしていないというのもおかしな話だ。いい機会なので自己紹介をしておくことにする。
「俺の名前は戸倉陽翔だ。太陽の陽に飛翔の翔で陽翔だ」
「陽翔って言うんだ……陽翔お兄ちゃんって呼んでもいい?」
「陽翔お兄ちゃん?」
「うん……ダメ?」
「いや、ダメってわけじゃないけど……」
ただお兄ちゃん呼びもそうだが、そんなに親しげに呼ばれるような理由に心当たりがない。先程から妙に懐いてくれているようだが、その辺りのことが関係していたりするのだろうか。
ただまあ、理由が何であれこうして懐かれているのは悪い気はしない。少なくとも、嫌われるよりは何倍もマシだ。
「好きに呼んでいいぞ」
「本当? ありがとう、陽翔お兄ちゃん!」
真那は年相応の無邪気さを感じさせるように笑う。釣られてこちらまで頬が緩みそうになる。
これまで妹がいたことはないが、実際にいたらこんな感じなのかと真那を見ながら思う。
「随分と嬉しそうだな」
「うん。だって私、今までお姉ちゃんしかいなかったから陽翔お兄ちゃんできて凄く嬉しいよ」
真那の兄になったつもりはないが、呼び方一つでここまで喜んでくれるのなら陽翔も悪い気はしない。
「じゃあ次は私の番だね。私はね、黒川真那って言うんだ。真那って呼んでね、陽翔お兄ちゃん」
「ああ、よろしくな真那」
「うん、よろしくね陽翔お兄ちゃん」
言われた通り名前で呼ぶと、真那は笑みを深めた。
「ねえ陽翔お兄ちゃんってお姉ちゃんと同じ学校なの?」
「ああ、そうだな。ついでにクラスも同じだぞ」
「そうなの? じゃあお姉ちゃんはほとんど毎日陽翔お兄ちゃんに会えるんだ……いいなあ」
「羨ましがるようなことか?」
「羨ましいよ。だって私まだ小学一年生で、高校生の陽翔お兄ちゃんとは学校が違うからあんまり会えないもん」
「俺に毎日会えなくても、別にいいだろ」
「私は毎日陽翔お兄ちゃんに会いたいんだもん! 陽翔お兄ちゃんは、私に会いたくないの?」
瞳を潤ませて上目遣いで訊ねてくる真那に、陽翔は少しばかり狼狽える。
「あ、会いたくないとは言ってないだろ」
「じゃあ毎日会いに来てよ」
「毎日って、流石にそれはな……」
子供故のワガママというやつだろう。無理だとバッサリ切り捨てるのは簡単だが、罪悪感が湧きそうだ。もし泣かれでもしたら困る。
何と答えるのが正解なのかと頭を悩ませていると、不意に二人の会話に入ってくる者がいた。
「――こら真那、戸倉君を困らせるんじゃありません」
いつの間にやらリビングに来ていた真澄が、真那を窘めた。
「戸倉君だって暇というわけではないんです。自分の都合だけで無理を言ってはいけません」
「はーい……」
目に見えてしょんぼりとする真那。てっきりゴネるかと思ったが、意外にも真那は聞き分けが良かった。
(何か姉妹というよりは、親子みたいだな)
年が離れているというのもあってか、二人のやり取りを目にした陽翔はそんな感想を抱いた。真澄が同い年だというのに大人びているのも、親子のようだと感じる原因の一端なのかもしれない。
真澄は妹を叱り終えると陽翔の方に向き直る。
「お待たせしました、戸倉君。夕食ができましたよ」
「お、そうか。悪いな、何から何まで任せて」
「いえ、誘ったのは私ですからお気になさらず」
夕食ができたということで、三人は席に着く。テーブルには出来立てと思しき料理と人数分の食器が並べられていた。
メニューは白米、豚の生姜焼き、豆腐とワカメの味噌汁、ほうれん草のお浸し。テーブルに並べられた料理は陽翔の鼻腔をくすぐり、食欲を刺激する。
ここ半年ほどカップ麺ばかりを食べていたこともあって、目の前の料理の数々は極上のものに見える。思わず、ゴクリと喉がなってしまう。
「美味そうだな」
「大したものではありませんが、そう言っていただけると幸いです。冷めないうちにどうぞ」
「いや、これだけあれば十分だろ」
少なくともカップ麵ばかり食べている陽翔にとっては、これだけでも十分すぎるほどのごちそうだ。大したものではないなんて、とんでもない。
せっかくの手作り、真澄の言う通り冷めないうちに食べなければもったいない。陽翔は真澄の言葉に従い、「いただきます」と口にする。
まずは味噌汁の椀を手に取り、少量を口に流し込む。熱々の味噌汁の優しい風味が広がり、素朴でありながらもしっかりとした味を感じさせてくれる。
作り手が手間をかけたことがよく分かる丁寧な味わいだ。
次は豚の生姜焼きを一切れ口に運ぶ。程よくピリっとした生姜の風味と、豚肉の旨味が合致して舌を喜ばせてくれる。少し濃いめの味付けも、付け合せの千切りキャベツとの相性はバッチリだ。
「美味い……黒川、料理得意だったんだな。正直ここまで美味いとは思わなかった」
「得意というほどのものではありません。他人に料理を振る舞ったのは初めてのことでしたが、満足していただけたのなら何よりです」
真澄の切れ長の瞳が柔らかく細められた。他人に料理を振る舞ったのは初めてと言っていたから、陽翔がどんな反応をするのか不安だったのかもしれない。
真澄の料理は絶品で、箸が止まらない。多少は遠慮するべきなのに、あまりにも美味しいものだから、つい遠慮なしにおかわりまで要求してしまった。
「わあ、陽翔お兄ちゃんよく食べるね」
感心と驚き半々の感想を漏らすのは、隣の席で陽翔の食べっぷりを見ていた真那だ。小さな子供の真那からすれば、食べ盛りの男子高校生の食欲は目を見張るものだろう。
真澄も同意するように頷く。
「確かによく食べますね。男の子はみんなこうなんでしょうか?」
「……悪い、食べすぎだったか?」
「いえ、責めてるわけではないんです。むしろそれぐらい食べてくれた方が、作った身としては嬉しいですから」
「そうか、なら良かった。黒川の料理は美味いから箸が止まらないんだよ」
この場合の箸が止まらないというのは、そのままの意味だ。真澄の手料理が美味しくて、もっともっとと求めてしまう。
こんなに何かを食べたいと思うのは、久しぶりのことだ。
「そうですか……まだまだたくさんありますから、好きなだけ食べてくださいね」
そう言った真澄の表情は柔らかく、食事に割いていた意識が逸らされてしまうほど可愛らしかった。
普段無表情でクールな美少女が不意に見せた笑顔。そんなものに抗える男子がいるわけもない。箸を動かす手が止まり、不覚にも魅入ってしまった。
「…………ッ」
陽翔ははっとすると、熱を帯びた顔を見られまいと慌てて俯いて食事を再開した。
夕食を食べ終えた後。長居するのも申し訳なかったので、陽翔はすぐに帰ることにした。現在玄関には、陽翔と真澄の二人がいる。
ちなみに真那は夕食の後、眠気に負けてしまいリビングでスヤスヤと寝息を立てている。帰る前に挨拶でもした方がいいとも考えたが、わざわざ起こすのも可哀想だったので放置することにした。
「今日はありがとうな、黒川。掃除をしてもらっただけじゃなくてメシまで作ってもらって」
「掃除は真那の件のお礼ですし、料理は私が好きで誘っただけです。気にしないでください」
「だとしても今日は美味いメシを食わせてもらったんだ、感謝ぐらいはさせてくれ」
あれだけ美味しい料理だ。仮に対価を要求されたとしても、陽翔は文句を言えない。
「それなら、私の方こそ感謝させてください。真那も戸倉君と一緒に食べられて嬉しそうにしていました。あんなに嬉しそうな真那を見たのは、久しぶりです」
真澄の表情がほんのりと緩み、瞳には慈しみの感情が見て取れた。その想いが誰に向けられたものなのかは、考えるまでもない。
学校で見る真澄はあまり感情が表に出ない、冷めた人間というイメージだった。きっと陽翔だけでなく、真澄を知る学校の人間は大半が似たようなイメージを抱いているだろう。
けれど今日陽翔は、学校ではお目にかかれない真澄の色々な表情を見ることができている。そのことが、陽翔には少しだけ幸運なことのように思えた。
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