...

 DAY.6


 腹、

 セット、胸。


 波は荒れるだけ荒れて、一晩風が収まっただけできょうは適当なサイズに落ち着いていた。


 「あしたはババァがくっからぁ」

 面談をあしたに控え、ネコは屋上事件以来ずっとくっついていたぼくを離れて、ひとり浜の右奥、ショートボートエリアへ駆けていってしまった。

 「わりぃけど、ババァにみせてやんなきゃ、なんねぇんだ。」

そう、ドヤ顔でじぶんのボードを抱えて。

 「はは〜。やっぱ、ママがいいんだ。妬くだろ?」

やっぱり、雪さんとショートボードのエリアへ向かう天さんがそう、ぼくにニヤニヤと耳打ちしていく。


 はぁぁぁぁあ?

 親に妬くとか…


 けど、ふと、ぼくの顔を覗き込んで足をとめた。

「コータ、」


 あ、


 「大丈夫か?」

あわてて曖昧に頷く。

「そうか…? 無理はするなよ?」

もう一度、頷く。天さんは、それを見ると、けどまだ心配そうな顔のまま、ネコを追うように浜の奥へ向かっていった。


 バレてる…


 小さくため息をつく。

 実のところ、きょうは朝からずっとふわふわ、地に足のついてない感覚がつづいていた。

 この瞬間も、まるで夢の中にいるみたいだ。

 むかしのぼくと、数ヶ月前のぼくと、いまのぼくと、どのぼくも次第に現実味がなくなって、見るものすべて、つくりものみたいな感覚がしていた。


 だれにでも愛を

 だれにでも親切を

 だれにでも笑顔を

 そうやってだれにでも、

 喜ばれて、

 受け入れられて、

 頼られて、

 百合の紋をつけた制服を着て、

 胸を張って歩いていた。


 両親は仕方がないとして、

 神様に、

 友だちに、

 先生に、

 愛されている自信があった。


 だれにでも愛を

 だれにでも親切を

 だれにでも笑顔を


 そうやって引き伸ばしていたのもがプッツリ、切れて。ひとり、真っ暗にした部屋で、薬を飲んでは眠ってばかりいた。


 どこでなにを違えたのか、

 わからなかった。


 それなのに、


 朝、目を覚ますと、

 「コータ! だっせ! だっせ!」

もみじ饅頭みたいなぷよぷよの手が乱暴にぼくの頬を掴んで笑っているのだ。真夏のひまわりみたいに。


 海の青さにハッと、目を覚ますようにネコの手にハッと、つい先月まで十六年生きてきた神奈川の記憶が遠く過去に追いやられて、いまこの多々戸の生活に引き戻される。


 愛がないはずなのに、

 だれも愛さないと誓ったはずなのに、

 「ぶたーっ、だっせ! コータ、だっせ!」

 ぼくの顔を引っ張って遊ぶどうしようもなく大切なものを、腕に抱えている、いまのぼくの生活に。


 足下が覚束なくて、硝子越しに世界を見ている。そんな感覚だった。


 「浩太くん」

 天さんが気づいたのだから、小山先生が気づかないはずがない。いや、もしかしたら授業中に、すでに気づいていたのかも知れない。

 海に入っても、小山先生は練習をはじめなかった。

 ユウトをカイトさんに任せると、

「ちょっと沖にでようか。」

そう、にっこり、笑った。

 波の崩れない、少し沖まで漕ぐ。

 小山先生が、波待ちの姿勢になるのに、ぼくも倣ってボードにまたがる。

 「ボードは、いつも波にまっすぐ。」

ふたり、並んで水平線へ向かう。

 うねりが静かにボードを揺らす。

 午後の陽をうけた目に痛いほどの青を望み、揺蕩う。

 足元、遥か下、海の底に光の輪が揺れている。

 耳を、微かな風がかすめてゆく。

 小山先生が深呼吸するのを真似る。

 潮の香り。

 湘南とは違う、もっと、淡い潮の香りだ。

 肺で弾けて、ぼくの中もあの透明に透ける青で満ちてゆくようだ。

 「浩太くん、」

小山先生は、水平線を、望んだままだ。けど、あの、いつもの柔和のお手本みたいに笑んでいるのが、わかる。

 「そういうのは、がまんしなくて、いいんだよ?」


 え?


 思わずふり向いて、

「あ、波から目を離さないで。危ないよ?」


 あ、


 あわててまた水平線を向く。


 なにを、だろうか。

 ぼくはなにを、がまんしていただろうか。


 小山先生はなにもいわずに、ただ前を見ている。

 しばらくそうして、ぼくの意識が少しずつこの海に戻ってくるころ、小山先生が、こちらを向いて笑った。

 「戻ろうか」




 「浩太くんは、ネコのライディングを見てきてあげて? 喜ぶから」

 結局、沖から戻ったところで、小山先生からにっこり、退場命令がでた。


 「海は、ちょっとした判断ミスが、命取りになるからね」

 音を立てて忙しなく旋回するヘリコプターを見ながら、きのう、小山先生はそうぼくにはなしてくれた。『きょうの夕飯、ハンバーグだよ』みたいな調子で。


 集中できないなら、入らない。

 のれない波なら、入らない。

 入らないのも、勇気だから。

 クローズアウト宣言をだした天さんも、そうはなしていた。


 ぼくはボードをおくと、素直にネコの『仕上げ』を見にいくことにした。

 ギャラリーがぼくでネコが果たして喜ぶのかどうかはわからないんだけど、ネコのお手並み拝見、て、ショートボードエリアへ向かうぼくの気持ちは朝より軽くなっていた。

 麦茶を二本、手に、ショートボードエリアの駐車場へ向かう。

 そこではいつも、雪さんが天さんのライディングを撮影している。


 あの、となり、いいですか?


 麦茶を差しだすと、雪さんは小さく頷いて、麦茶を受け取ってくれた。

 となりに、膝を抱えて座る。

 雪さんと、海に目をやる。

 天さんも、ネコも、真剣だ。

 天さんはネコに波を譲ったりなんかしないし、ネコはすばしこく動きまわって先に波のピークを取ろうとする。


 天さんのサーフィンは、月子さんとはまた違う次元で優雅だった。

 ショートボードにのる人は、必死にパドルして波に食らいつく。波にのったあとも必死にボードをふりまわす。

 けど天さんののり方はいつも、その性格を表すようにゆったりとしていた。

 パドル数回で波を掴み、フワリ、身体の大きさなんて感じさせない柔らかさでボードにのる。そのまま波の斜面を降っては登って、大きく、ゆったりとカーブを描く。波の上をうっとり、愛撫するみたいに。

 フィギュアスケートの選手が氷の上をなでるようにして舞うみたいだ。滑らかに優しく、なでてゆく。

 天さんはそれを、固い氷の上ではなく、瞬間瞬間で変化する波の上で、繰り返すのだ。

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