殴り書きの一場面

 神様、どうか、どうか――。

 地面に平伏し、年々広がっていく額を押しつけて握り合わせた両の手を掲げて、遠ざかる背中に祈った。

 自分ではどうにもできないことを知っていたからこそ、男はたった一人の冒険者に託した。

 最愛の一人娘が無事に帰ってくること、それだけを祈った。


 数日経って祈ることにも疲弊し、半ば諦め茫然としていた。

 男の視線の先、小屋の木戸が音を立てて開いた。

 項垂れた頭をゆっくりと上げた男に、聞き慣れた、でも乾きからか掠れた声が届いてくる。

「――お父さん、ただいま」

 男は思わず手に持っていた湯飲みを床へ落とし、すっかり冷め切った中身と割れた破片を床へぶちまけた。

 膝を震わせながら立ち上がり、すっかり細くなった両腕で何度も叩くように娘がそこにいることを確認し、力いっぱい抱きしめた。

 普段の粗雑さや、意地といったものも全て捨て去り、ただ涙を落とす父親の姿にようやく実感が湧いたのか、やがて一人娘も鼻をすすり、崩れ落ちるように抱き合って再会を喜んだ。


「――そういえば、あの方は……」

 ひとしきり喜びを噛み締めたあと、父親の男が冒険者のことを娘に問うた。

 娘は急に顔を曇らせて、やがて小さく首を振った。

 まさか、娘を助けたことで――。

 容易に出来た想像を口にするより早く、娘は苦笑した。

「途中まで確かにいたのに、気づいたらいなくなってた。でも――」

 そう言った娘は、丸まった紙つぶてを開き、男に手渡した。

『金に集(たか)るハゲタカは金の匂いがする方へいくよ。元気でな」

 確かに、べらぼうに高い対価を求められ、それを支払う約束はした。

 最悪、自分が奴隷にでもなれば、と男が覚悟していたのも事実だ。

 じゃあ、あの冒険者は一旦なんのために……。

 悩んだ末に、父娘はひとまずことは脇へ置いておくこととした。

 村の人々とも喜びを分かち合い、こう言った。

「私たちは、名前も知らない冒険者に救われた」

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