解錠の音が

逸木裕/小説 野性時代

第1話


解錠の音が──2009年 秋



 わたしは、後ろ手に縛られていた。

 両手首にそれぞれ革製のバンドを巻かれていて、ふたつは太い鎖でつながれている。手首に巻かれた滑らかな革は、引っ張ると吸いつくように食い込んでくる。

 鎖を引きちぎることなどできない。バンド自体を外そうとしても、留め具の部分がナンキン錠でとざされており、外せない。

 椅子に座らされている。たくさんの目が、わたしを見つめている。

 観客は、お金を持っていそうな老人たちだ。

 成り行きを不安げに見つめるものもあったが、中には明らかに、面白いショーを楽しむようなものもある。わたしはつばを飲み込んだ。こんなにも大量の好奇の視線を向けられたことはない。なぶられているようだ。

「動けないでしょう」

 背後から、低い声。

 顔の右側に、短いきりのような器具を差しだされた。鋭くとがったステンレスの先端が、視界の隅で怪しく光った。

「いまから、これを使います」

 わたしを見つめる目たちの温度が、わずかに上がった。思わず、うつむいてしまう。わたしの動きに合わせて、じゃらりと、バンドをつなぐ鎖が鳴った。

「今回のために用意した特別な器具です。よーく見てください」

 観衆に見せびらかすように、わたしの視界の隅で器具が振られる。

「じゃあ、やりましょうか」

 背後で、空気が動いた。

 縛られた手の甲を、一瞬、金属の冷たい感触がでた。尖った先端が手首に触れ、ちくりとする。全身が、一瞬でこわばった。

 器具が鳴る。静かな部屋に、無機質な音を響かせ続ける。

「……はい、この通りです」

 カチャリと、解錠の音が響いた。

 おおっと、会場からどよめきが上がる。手首の拘束が外れ、めぐりだした血で指先が温まる。

 振り返ると、おくさんが南京錠を持ち、ぶらぶらと振っていた。

「はい、皆さん、判りましたね? 南京錠は専門のピッキングツールを使うことで簡単に開けることができます。大変にもろいもので、プロにとってはペットボトルのふたを開けるのと変わりありません。皆さんの自宅の錠も、対策をしていない場合はこれと同じだと考えていいでしょう。多くの家が、かぎはあるけれどかかっていないに等しい──逆に言うと、いくらでも忍び込みやすい家はありますので、対策をすれば空き巣は敬遠します。おなかがいているとき、夕食のテーブルに刺身と丸魚が並んでいたら、わざわざ魚をさばいて食べようとする人はいないですよね?」

 流れるような話術に会場が沸く。わたしは彼の大きな身体を見上げ、軽くにらんだ。

「それを説明するのに、わたしが縛られる必要はあったんですか」

 奥野さんは子供の駄々をかわすように、余裕の笑みを浮かべた。

「講演にはつかみがいるんです。新人はいちいち、文句を言わない」


「この鍵は駄目ですね。すぐに換えたほうがいい」

 皆さんの自宅の鍵を、教壇まで持ってきてください──奥野さんのリクエストにこたえ、セミナーの参加者たちが前方に集まっている。

「これはディスクシリンダー錠といって、もっともピッキングに弱い錠のひとつです。私なら一分、手慣れた空き巣なら十五秒で開けられます。美和社の〈U9〉や、カバ社の〈カバスター〉など、ピッキング対策がなされた錠に換えるといいでしょう」

 奥野さんは、パワーポイントが表示されたスクリーンを指差す。〈防犯対策がなされた家の上面図〉と題された図が表示されている。

「繰り返しになりますが、空き巣は対策がなされた家を敬遠します。玄関の錠を換える、窓ガラスに防犯フィルムを貼る、防犯砂利を敷く、二階への踏み台にされない位置に室外機を移す、センサーライトやカメラを設置する……防犯には、これだけをやっておけば大丈夫というものはありません。コツコツとひとつずつ対策を積み上げて、家をけんろうにしていくのです」

 わたしはデジカメを取りだし、てきぱきと説明する奥野さんを撮影した。高校生のときから使っている古いカメラだが、手にんでいることもあっていまだに使っている。

「みどりちゃん」

 わたしの隣に、はまなかけいいちさんがやってきた。このセミナーの主催者で、ツイードのジャケットが上品なご老人だ。

「今日はありがとう。彼、いいねえ。あんな人を紹介してくれるなんて、みどりちゃんに頼んでよかった」

「いえ、たまたま弊社に適任の者がいただけです。わたしは、別に何も」

「適任者とつながりがあるというのは、立派な能力のひとつだよ。みんな喜んでいる。本当にありがとう、みどりちゃん」

 浜中さんは、わたしが住むこしがや市の市議を長年務めていた人だ。いまは引退して、地元の企業や商店の相談役のようなことをやっている。もともとは父の友人で、わたしも顔を合わせればあいさつをする程度の顔見知りだった。

〈十月は防犯月間だろう? 毎年この時期に、地元の高齢者向けに、防犯セミナーをやっているんだ〉

 ある日道端で会ったとき、突然相談を受けたのが話のはじまりだった。

〈去年、ここらのコンビニで大規模なスキミング事件があっただろう? あれ、僕の友人も引っかかって、百万以上も盗まれてね。最近はオレオレ詐欺もってるし、空き巣やひったくりも増えてる。僕たち弱い人間をターゲットにする犯罪が多くて、嫌になるよ。みどりちゃんは探偵をはじめたんだよね? 誰か防犯に詳しい友人がいたら、講師としてきてもらえないかな?〉

 スキミング事件については、報道もされたので覚えていた。コンビニに設置されたATMのキャッシュカード入出口にスキマーが仕掛けられ、カードの情報が大量に盗まれた事件だ。

 スキマーで吸いだされたカード情報は、通常はそれだけでは使えず、わたしたちが普段ATMで入力している暗証番号が別途必要になる。あの事件が厄介だったのは、スキマーと一緒に小型カメラも仕掛けられており、暗証番号を入力する手元が撮影されていたことだった。これによりカード情報と暗証番号のセットが大量に流出してしまい、甚大な被害が出てしまったのだ。浜中さんはこういう最新の犯罪から身を守るために、十月に友人を集めてセミナーを開いているらしい。

 父の興したサカキ・エージェンシーに就職してから、一年半が経つ。

 探偵業をはじめることはだいぶ前に決めていたが、いざなろうとしたら父から猛反対された。まさかわたしが本気で探偵を目指しているとは、思ってもいなかったらしい。めに揉めた挙げ句、わたしが個人事務所を開業する準備を具体化したところで父が折れ、いまはサカキ・エージェンシーの社員として働いている。

 会社はその後、拡大を続けている。もともと自宅兼オフィスで営業していた零細会社だったのに、従業員も増え、今年からあかさかに拠点を移した。あのぼんやりとした父に商才があったのだから、人間がどう化けるかは本当に読めないものだ。

「彼、いいね」

 浜中さんは、壇上の奥野さんに目をやりながら言う。

「知識の幅が広いし、それが整理されて彼の中で体系になっている。この手の話が好きなんだね。元警察官とはいえ、お仕事でやってるだけでは、あのレベルの素養は身につかない」

 奥野さんはもともと埼玉県警の警察官で、退官後に探偵になり、わたしとほぼ同じ時期にサカキ・エージェンシーに入社した。奥野ちからというと県警本部の生活安全部では有名らしく、防犯は彼のライフワークだそうだ。奥野さんの入社に伴ってサカキ・エージェンシーは防犯相談の仕事もはじめ、順調に売上を伸ばしている。

 わたしも今日、改めて奥野さんの深い知識に感心した。

 セミナーの前半は、別の講師によるインターネット・セキュリティの講演だった。〈九十パーセントの人間が、複数のサイトでパスワードを使い回していると言われます。使い回しは厳禁です。必ずすべてのサイトで異なるパスワードを設定し、定期的に変更しましょう〉。そんな話に対し、後ろで出番を待っていた奥野さんがみついたのだ。

〈パスワードを使い回さないのは大切ですが、定期的に変更するのはよくありません。何度もパスワードを変えると、人は無意識的に簡単なものや、誕生日・住所などの個人情報とひもづいたものを設定するようになります。複雑なパスワードをサイトごとに設定し、それを変更せず使い続けるのが正しいです〉

 講師は反論をしたが、奥野さんは論文や書籍、行政府から発信された文書などを引用し続け、プロである講師を論破してしまったのだ。

 講演を終えた奥野さんが、わたしのほうにやってくる。「いやあ、素晴らしかった」浜中さんが両手を広げて、彼を歓待した。

「定期的にこのセミナーはやってますから、ぜひまたきてください。今日参加できなかった友人にも、あなたの話を聞いてもらいたい」

「ありがとうございます。恐縮です」

 わたしも、奥野さんに頭を下げた。

「奥野さんに声をかけてよかったです。今度、お食事でもごそうさせてください」

「いえ、お構いなく。若い人におごってもらうわけには行きません」

「まあ、そうおっしゃらずに。奥野さんとは、前からお食事もしたかったんです。約束ですよ」

 奥野さんは微笑んで、わたしの言葉を受け止める。

 はたから見ていたら判らないだろうが、わたしはその笑みの中に、やんわりとした拒絶を読みとった。

 彼と微妙な緊張関係にあることは、浜中さんには言えない。

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