春の秒針が止まるとき

佐々野 悠

第1話 不思議な感覚(1)

 その日は、特に何事もなくいつも通りだった。


 朝には、二つの目覚まし時計を上手く使いこなして起きたし、結ばないと貞子だと言われるボサボサな硬い髪を結んで、下手な化粧に時間をかけ、いつも見ている情報番組のエンディングを横目で見ながら、時間通りに家を出た。

 階段を降りながら、隣にある色が剥がれてかけている瓦のマンションの玄関で、大家さんだと思われる男性が箒で掃除しているのが目に入る。

 あの人は、近所でも綺麗好きって噂になってるもんな。

 思いながら、靴の爪先をトントンと鳴らして歩き出す。

 爽やかな空気に包まれ、ビルばかりがある街並みを歩いていくと隙間から見える青空が眩しくて、目を細める。

 もし、ビルが一つ残らずなくなって、焼け野原になっていたらどうしようと考える日もあるが、いつもと変わらない景色である。

 安心しながら、ふと上に視線をずらし、

 今日の一限はなんだっけな。あ、今日でテスト最終日か、じゃあ、今日はご褒美にビーフシチューでも作ろかな。

 そんなことを考えていると足が引っ張られる感覚がして、下を見ると靴紐が解けていた。そして、同時に目に入る黒いロングスカート。

 いつもは、大安の日にならないと新しいものを使い始めようと思わないが、お天気お姉さんが「今日は暖かい一日になるでしょう」と笑顔で言っていたのを見て、幸せな気持ちになったので新調した。

 そういえば、最近黒の服着ないな私。黒、好きなのに。

 なんにでも合わせられるし、なんてったって、カラスと同じ色だから失敗しないと思うんだ。

 そういえばこの話、あいつ知ってるかな。カラスはなぜ黒いのかっていう話。

 私が昔聞いたやつは、まあ一説として存在するのかもっていう前提なんだけどね…。


 そうこうしているうちに学校に着いた。一つの学部しかない小さな大学。

 名物ではないけど長い階段が特徴的で、教室に行くまでが疲れてしまう。

 あ、前の子、ペース落ちてる。

 可愛いカバンだな。ペンギンのストラップおっきいな。

 そこで、よく見ると見覚えのある背中だと気づきペースを速める。隣に行くとその子がずっと前だった視野をずらしたタイミングを見て、声をかけた。

「朋花おはよう、今日いつもとカバン違うね。」

 朋花は、大学に入ってできた唯一の友達。今日も、私と同じくらいの長さの髪を茶髪に染めて、毛先を巻くスタイルをしていた。黒髪じゃなくてさ、大学生なんだから染めなよ。と最後に言われたのは記憶に新しい。

「澪、おはよ〜。今日は、荷物少ないからこっちで来たのよ。」

 ふーんというと、それにしても相変わらず涼しい表情で登るわねあんた、その体力よこしなさいよと睨まれたので、苦笑いした。

 登りきり、化粧を少し崩しながら肩で息をする朋花に心の中で労いの言葉をかけながら、一緒に歩く。

 教室に着くと、真面目に勉強している人、諦めているのか騒ぐ人、携帯をいじっている人と様々な行動が目に入る。

 私は、どの部類に入るのだろうと考えながら、席に着いた。するとすぐに朋花が、私の肩を叩き、

「ねね、今日のテストどこ出るの?」

 とお決まりのセリフを吐いて笑う。

 彼女はいつも授業中、携帯電話をいじることしかせず、テストで本気を出すタイプなので、こう言われることは目に見えていた。

「ふふ、今日の範囲はここだよ。」

 今日は勉強モードなんだ。と考えながら答えた。

 私より一つ年上の朋花はよく母親と喧嘩し、お酒をがぶ飲みしてその次の日は二日酔いのままよく騒ぐので、それがテストの日だと直前の勉強に集中できないことがある。

 そう考えると、今日の私達は前者らしい。

 数分間、話しながら勉強していると先生が入ってきた。普段は優しいのに怒ると豹変する鬼教師。私は嫌いじゃない。

 必要なもの以外出すな。あと学生証は必ず出せと、今日は不機嫌な態度を見せているので急いで準備する。

 先生が問題を配ろうとヒールを鳴らして歩き出す、その音を聞きながら学生証を机上の左側にずらした。

 『井原澪』と書かれ、スーツを着ている私が仏頂面で睨んでくる。私もテストの緊張のためか、その顔を睨み返す。

 「そんな顔すんなよ。」

 一瞬、どこからか声が聞こえた気がした。ああ、あの時のあんたはそう言って笑ってたっけ。怪しまれないように少しだけ口角を上げる。

 制限時間を叫ぶ先生に、教室の空気が一気に張り詰める。秒針が二倍速に見えた。

 「始め!」

 怒号のような声と裏腹に、さあっと柔らかな風が吹いてブラインドが揺れた。 


 「ああ〜、テスト絶対落ちたー。だるい。」

 「お疲れ、でも、それいつも言ってるけど、朋花ってテスト落ちたこと一度もないじゃん。」

 お昼休み、教室で机を向かい合わせにして昼食を取る。弁当を広げながら、朋花から3日連続で聞かされている愚痴に全く同じ返答を返す。

 「まあ、そうだけどさ。運がいいのかなあ。」

 「提出物の点数が入ってるんでしょ。いつも頑張ってるもんね。」

 そうは言うものの、この子は天才なのか又々本当に運がいいのかいつも考えてしまう。テスト直前に勉強するのに、私より点数の良い教科も少しばかりあり、嫉妬を覚えることも少なくないからだ。

 「あれ、澪今日のお昼は作ったんだ。テスト期間なのに。」

 「って言っても簡単なものだよ。朋花は飽きないの?それ。」

 そう言って、朋花が食べているクロワッサンを指差した。いつもコンビニで買ってくるそれは、表面を輝かせて私を誘惑してくる。

 テスト期間中、お昼をカップラーメンで過ごしていた私は、今日こそはと和えるだけのボロネーゼを作ったのだが、コンビニのクロワッサンには勝てないと心底思った。

 悔しい気持ちになりながらボロネーゼを頬張っていると、

 「あれ、澪どしたの?」

 「ん?」

 「顔赤くない?絶対熱ある顔だよねそれ。」

 「え、なんとも感じないんだけど。」

 紅潮しているらしい顔色を指摘された。確かにテスト勉強で遅くまで勉強していたのは事実だが、具合の悪さは感じない。

 「病院行ったら?午後は先生と個人面談するだけだから、私、伝えとくよ?」

 「ええ、私、病院嫌いなんだけど。病院行くくらいなら家で薬飲んで寝るよ。」

 「でも、澪一人暮らしなんだから、一応行きなよ。」

 珍しく心配してくる朋花に驚いた。前に自分が学校で熱を出して、顔が真っ赤だった時には、二日酔いだから別に気にしないで〜、あはは〜。なんて私の話を聞きもせず、結局は、先生に保健室に連行されてたのに。

 「うーん、どうしよかな。え、そんなに顔赤いの?」

 化粧ポーチから鏡を出して見ると、顔全体が赤くなっていた。これは、まずいと瞬時に思う。

 私が病院が嫌いなのは、兄のせいだ。小さい頃に予防接種を受けに行った時には、俺から注射する!なんて言って目の前で針を見た瞬間に泣きじゃくり、その恐怖が私にも伝染した。そして、季節性のインフルエンザに罹った時には、貰った薬があまりにも苦かったのか何度も嘔吐して、暴れていた。それらがきっかけで病院の注射や薬がトラウマになり、一人暮らしを始めて風邪を引いてからも市販の薬でなんとか乗り切っていた。

 「まあ、無理にとは言わないからいいけど。」

 朋花が拗ねたような顔をする。自分の心配を無駄にする気かと訴えているのが目に見えて分かる。

 「分かった、病院行くよ。」

 「ホント!よかった。」

 ぱああっと効果音をつけたくなるほど笑顔になる朋花に若干引きながら、

 「じゃあ、先生に伝えておいてね。」

 言いながらボロネーゼをさっきと変わらない量を頬張ると、食欲があるなら、すぐ治るわね。と朋花が笑う。

 言われてみれば全身がほかほかするなと思い、中身が空になった弁当箱を片付け、鞄を持って席を立つ。

 「じゃあ、病院行くから帰るね。あとはよろしくね。」

 「うん、任せて。本当は車で送って行きたいんだけど、学校まで車で来ちゃだめだからごめんね。」

 と、謝罪しながら朋花は眉を下げる。

 大丈夫だよ、ありがとね。じゃあ、と手を挙げて言いながら教室を出る。

 本当のところ病院に行くつもりなど更々ないのだが、朋花を見ていると良心が痛む。仕方ないから行くかとため息をついた。

 階段に差し掛かり、さっきより重く感じるようになった体に鞭打ちながら降りていくと、後ろから声をかけられた。

 「井原さん?」

 「佐藤先生、こんにちは。」

 「こんにちは。顔赤いわね。もしかして、帰るの?」

 「はい。ちょっと熱っぽくて。すみませんが、午後の面談は日程をずらしていただくことは可能でしょうか?」

 さっきまで、教室でただならぬオーラを放っていた鬼教師に出くわすと思わなかったため、ぎこちなくなってしまった。

 気のせいか、安らかな表情に変わっている。

 「全然いいわよ。テストで疲れたのね、きっと。分かるわ、私もテストの問題作るの大変だったから、解放されていい気分よ。」

 なんて、ミュージカル女優みたいに手を上に上げながら、視線を色っぽく移す。

 早く解放されたい。

「先生、私達のために問題を作っていただきありがとうございました。それでは、失礼します。」

 礼をして立ち去ろうとするが、細い指を持つ手に腕を掴まれる。

 振り向くと、腕時計を見ながら先生が言う。

 「まだお昼休み終わるまで時間あるから、先生が送っていくわよ。」

 「え、いや。」

 「いいから行くわよ。井原さん、一人暮らしなんだから遠慮しないで。

  帰りは会議あるから、抜け出せないかもしれないけど。」

 腕を引かれて歩き出す。

 「帰りは自分で帰ります。」

 我ながら失礼な返答をしたと思った。顔の熱が全身に広がり、先生のヒールの音が頭に響き、離れない。気がついたら、車に乗っていた。

 「井原さんはこっちに来てから、病院に行ったことあるの?」

 「ありません、風邪を引いても市販の薬を飲んでました。」

 「そうなのね。ここらへんの病院っていったら、松崎病院があるけどそこでいい?」

 「構いません。」

 松崎病院とは、そこそこ大きい病院で私の家からは徒歩20分かかり、学校からは車で15分ほど離れた場所だ。確か、学校で行う健康診断もその病院の先生だったような。

 その後も先生がいくつかの質問をしてきたが、よく覚えていない。保険証持ってる?とかそういう質問をされたと思う。ぼーっとした頭で考えても何も浮かばなかった。

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春の秒針が止まるとき 佐々野 悠 @Sasano20

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