はらぺこトライアングル

六月ミウ

第1話


 疫病禍とは無縁のとある世界線、オリンピックの盛り上がりもどこか遠くに感じられるようになった二〇二一年の春。

 田中みさきは学校帰り、駅前のバスターミナルで一人の少女と向き合っていた。

「おいお前、アイドルになれ。」

「お前ですって?工業高校の雌猿は口の利き方も分からないのですね。」

 あ?と口をついて出そうになる怒声をみさきは飲み込んだ。

 ここを我慢して頭を下げ、この少女にアイドルになってもらわないといけないのだ。

「お、お願いします。アイドルになってくれませんか。」

 つたない敬語を紡いで頭を下げる。

 しかし、少女の表情は変わらなかった。

「大体、意味が分かりませんわ。突然腕をつかまれて何かと思えば、アイドル……?」

 少女はみさきを頭からつま先までじろりと見回した。

「ヤンキー風情がアイドルと何の関係が?わたくしにも理解できるよう百四十字以内にまとめて提出なさい。話はそれからよ。」

 そう言って少女は行ってしまった。

 みさきはその場に立ち尽くす。

「はあ、やっぱあたし、お兄ちゃんの役には立てねえや……。」


一方先ほどの高飛車な少女はというと、「アイドル」という言葉に胸を高鳴らせていた。

 この少女は鈴木しおみという。

「アイドル……か……わたくしが……!」

 しおみはそう呟くと、制服のスカートを翻して家までの道を走り出した。

「このお話、はやくママに聞かせなくっちゃ。」


田中みさきは、北海道のとある港町に住む不良少女である。といっても警察の世話になるレベルではなく、別の不良相手に口喧嘩をふっかけたり、制服のスカートを短く切ったりするだけだ。言動が荒い以外は平々凡々。アイドルとは一見何の関係もない田舎の女子高生だが、みさきの年の離れた兄は生粋のアイドルオタクなのだった。

みさきの兄・深雪は札幌で会社員をしていたが、半年前に精神を病み実家に戻ってきた。この田舎では趣味であるアイドルの追っかけも出来ず、外出の機会を失いどんどん引きこもりが加速していった。そんな兄がつい数日前にぽつりと「この町には夢がない。」と言ったのを聞いたみさきは考えた。当分札幌には戻れない兄がこの町で元気になるためには、「夢」が必要なのではないか。そして兄の言う夢すなわちアイドル、そうだ、町で噂の美少女を捕まえてアイドルになってもらおうではないか!と。

その噂の美少女こそが、先ほどの鈴木しおみである。

 実際しおみはばちくそ興味があって詳しい話を聞く気満々だったが、高飛車どころではない癖の強い言動のせいでそれは伝わっておらず、みさきは断られたと思い込んでいる。


バスターミナル近くのスーパーに寄り道していたみさきは、溜息をつきながらアイスを口に含んだ。

「はあ~……どうすっかな。」

「わ、私を代わりにアイドルにするなんてどう?」

 右から突然声がかかった。一瞬自分に向けられた言葉だと気づかず、ワンテンポ遅れて首を向ける。

 いかにもメンヘラくさそうな少女が目を見開いてみさきを見ている。

「誰だおめー?」

 思わずそう言うと、メンヘラ少女はぎこちない笑顔で自己紹介を始めた。

「私の名前はえとも!うさぎさんといちごが好きな十七歳!ね、えともアイドルになりたいんだ。どう?どう?」

 わざとらしい作り声で自己紹介を終えたえともは、みさきにぐいぐいと顔を近づけた。

「ち、ちけえよ。大体突然何だァ……?」

「あなただって突然だったでしょ!?えとも、さっき鈴木さんに声かけてるの、見たよ。」

 それを言われると何も言えないみさきである。

「チッ……あんた面倒くさそうだけど背に腹は代えられねえ、ソロアイドルである必要はないからな。さっきの鈴木さんを誘うのに協力してくれたら、あんたもアイドルにしてやるよ。」

「ほ、ほんとぉ!えとも頑張るね!」

 アイドルにしてやる、とは言ったもののノープランであることにみさきはここで気がづいた。しかし、黙っていた方がいいこともあるだろう。

「おう!あたしの名前は田中みさき。よろしくな!」

 こうして、みさきによる鈴木しおみアイドル化計画にえともが加わった。

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