4-5

 平凡な一般市民であれば、実際には国の皇族の名前は覚えていない……と言うか、最初から知りもしないことが多い。


 皇帝陛下、皇太子殿下、皇女殿下と言った敬称で充分通じていて、そもそもよほどのことがなければ会話に上ることすらない。


 ただし珠葵の場合は、様々な地位の者が出入りをする妓楼の中に店があることと、珠葵自身が御史台更夜部と言う王宮内の部署に所属する面々とも懇意にしていることとがあって、特に意識をせずともそれ以上の知識が身に付いてしまっていたのだ。


 春宮とうぐうは、当代皇太子の住まう宮。

 ゆうと言う姓は、皇族のみが名乗ることを許された姓。


 すなわち春宮・游皐瑛こうえいとは、当代の皇太子を指す――と。


 何でこんなところに――! と言う珠葵の絶叫も、無理からぬ話だった。

 足元が冷たい石だったとしても、跪拝をしないわけにはいかない。


 珠葵が膝をつきかけたところで「牢の中でまで作法は遵守せずとも良い」と、鉄格子越しに声がかけられた。


「いえっ、ですが――」


「大事な秘蔵っ子にそのようなことをさせたと知られれば、私が雪娜に叱られ――いや、されてしまう。社交辞令と取るな。そのまま楽にしていれば良い」


「は、はあ……」


 ちらりと様子を窺えば、意外に表情が真剣だ。

 本気で雪娜に無視されるのは困る、と言った感じだ。


 考えてみれば、確かに雪娜はそう言いそうな気もするので、珠葵もとりあえず、跪拝をすることは止めた。


 姫天は、相手に悪意がないことは分かるのか、珠葵の足元でオロオロと、珠葵と皐瑛を見比べている。


「あっ、あのっ、雪娜様に何かあったんでしょうか⁉」


 先ほど皐瑛は、御史台更夜部がすぐには動けないだろうと口にしていた。

 雪娜だけではなく、鄭圭琪もだと。


 南陽楼に李明玉が現れて、多種多様な物を売り払って行ってから、珠葵の周りは騒がしくなる一方だ。


 ここまで詳細を確認する時間も伝手もなかったが、皇太子までが姿を見せたとなれば話は別だろう。


 珠葵はぐっと牢の鉄格子の方へと近づいた。


「わ、私に出来ることはありますか⁉」


「……ほう。わざわざ首を突っ込むと?」


「雪娜様の為でしたら! あっ、でも、子龍たちを差し出せと言われるのは困ります! 他ならぬ雪娜様から、誰にも、それこそ親である龍泉様が望む時以外は誰にも触らせるなと言われているので!」


 珠葵が素早く話の先回りをしたところ、皐瑛は「惜しい」とでも言いたげに微笑わらった。


「よほどそう言ってやろうかと思ったが、己でも理解をしていたか。……まあいい」


 片手を不意に持ち上げた皐瑛が、パチンと指を鳴らす。


 その途端、柔らかな風が珠葵の頬を撫でていった。


「これで会話は外には洩れぬ。あまり長い時間こうしておくと外から怪しまれてしまうが、短時間の話であれば構うまい」


「……怪しまれる」


「腰でも引けたか?」


「いえ」


「そうか。虚勢だろうと、張れるだけ大したものだがな」


 あまり本気で感心しているようには思えないが、仕方がない。

 珠葵は両手の拳をぐっと握りしめて「聞く」体制をとった。


「実際に親しかろうと親しくなかろうと、現状を打破するためには凌北斗を探し出す必要がある。まずはそのことを理解しろ」


「……え」


 珠葵は思いきりイヤだと表情かおに出してしまったが、皐瑛は取り合わない。

 それがかえって真剣さを感じさせるようで、珠葵はその不快感を口に出す事までは出来なかった。


「事の発端は凌北斗、いや、その養父が死んだところにある」


 皐瑛の言葉に、そう言えば父親がどうのと言う話は、北斗自身がしていたかも知れないと、珠葵は北斗の行動に振り回されていた間のことを反芻する。


「それまで『凌北斗』と言う存在は秘されていた。存在自体が噂でしかなかった。それが養父の死で、紗が剥がれるかの如く一気に表面化してしまったのだ」


 もしかしたら、人ひとり隠し通すだけの『術』のようなものがかかっていたのかも知れない、と皐瑛は言った。


 それが養父の死によって解けてしまったのではないか、と。


「つまりは、そうとしか考えられないくらいに突然で、しかも不自然な発覚の仕方だったとも言える」


「確かにあれだけ猪突猛進に騒ぎ立てる性格だったら、これまで誰の話題にも上らないって言うのも不自然と言えば不自然……」


 うっかり顔を顰めたまま呟く珠葵に、皐瑛は苦笑ぎみだった。


「なるほど、猪突猛進」


「もしかしたら、その養父と言う人が殺されて、頭に血が上ってるだけかも知れませんけど。絶対真相暴いてやる! って言うくらいの勢いでしたし」


「……殺された? 凌北斗は、そんな風に言っていたのか」


「あ、はい。明明さん――李明玉のことを知りたかったのは、その養父が最後に会ったからだ、みたいなことを言ってたような……」


 珠葵をここに放り込んだ連中と違って、居丈高に聞いてこないせいだろうか。


 気付けば珠葵はスラスラと、北斗との会話のあれこれを皐瑛に対して答えていた。


「ああ……そうなると、その時点で凌北斗はもうに見つかっていて、養父の存在だけが邪魔だったと言うことか……」


「向こう?」


「殺されたと言う妓女は、凌北斗の養父を殺害するためだけに利用された。目的を果たした時点で口封じの為に殺され、凌北斗の捕獲あるいは殺害自体は別の者に依頼したんだろう。出来る限り、自分に辿り着かないよう幾重にも罠が張り巡らされた」


「えーっと……もしかして、お心あたりが?」


 さっきからの皐瑛の口ぶりは、既に誰かを想定してのものであるような気がする。


 どうして、捕らえるなり尋問するなりしないのだろうと思ったのを見透かしたのか、皐瑛はやや皮肉っぽく口の端を歪めた。


「春宮住まいだからと言って、そう何もかもが思い通りなる訳ではない。現に今、私の味方である筈の御史台更夜部は動かせない。動かしたところで、雪娜を絡めとるための口実にされるだけだ。本人たちがどう思おうと一歩たりとも外へは出せん。かと言って、本来であれば自由に動ける筈の秘蔵っ子は牢の中ときている」


 秘蔵っ子、と言われたところで珠葵が自分を指差すと「他にいたら教えてくれ」などと大真面目に返されてしまった。


「……ちなみに聞くが、北衙禁軍と言うのがどう言う組織か知っているか?」


「えーっと、以前に雪娜様から教わりました! 確か陛下直属の親衛隊――あれ?」


 何気なく答えを返したところで、珠葵はおかしな可能性に気が付いてしまった。


 ここに珠葵を放り込んだ連中、丹劉帆。彼らはそれぞれ何と名乗っていたか。


「妓女に殺されたのは、凌北斗の養父。当然、凌はその義父の姓」


 皐瑛の声が、頭の中の「まさか」と言う声にかき消されそうになる。


「ならば実父の名は? 何だと思う?」


「……っ」


 珠葵は言葉の代わりに、ヒュッと息を呑み込んでしまった。

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