閑話 夜桜奇譚

春夜~雪娜とふしぎの子(前)~

 かつて生者と死者、人と魔物の垣根が曖昧だった過去の時代。


 桁違いの魔力があったと言われているほう国の初代皇帝が、魔物の側において有力な存在だった龍と手を組んで、死者の国の王を退けた――と、建国記の冒頭には書き記されている。


 それから人の側が何世代にもわたって代替わりをしているのに対し、龍の側は当時から変わっていない。


 ただし前の皇帝の代になって、龍にも子が出来た。


 これで皇帝と龍が手を取りあう御世はまだ続くのだと、誰もが安堵していたのだ。




 ――欠けのない月が輝く夜。


 王宮の綱紀を糺す部署とも言える御史台。

 そこには夜間に活動し、人ならざるモノの脅威を退けるための部署、更夜部が通常業務の部署とは別に存在をしていた。


 更夜部の筆頭は、常に最も魔力が多く、魔物をほふる能力に長け、何より王宮を守護する結界を張れる者が任じられている。


 そのため文官としての能力はさほど求められておらず、御史台全体の長である御史大夫の職は、監査官吏の側から輩出されることがほとんどだった。


 それを覆したのが、当代の御史大夫――朱雪娜。


 過去、更夜部の筆頭職、御史中丞までなら女性が任じられたこともあった。

 性別よりも魔力量が重視される部署であるが故だ。


 それを、郷試→会試→殿試と王宮官吏になるための試験を全て首席で突破して、昼と夜の業務を両立させ、倣国史上初の女性の御史大夫となったのが、雪娜なのだ。


 ただ基本的には、魔力持ちと言う「替えのきかない」存在である更夜部の筆頭としての職務の方が比重が大きく、出仕しているのは夜であることが多かった。


 そこで昼間作成された監察関連の書類に目を通して、署名捺印をするのが雪娜の日常の業務でもあった。


(――――雪娜よ)


 滅多と聞くことのない声だが、聞き間違えようのない声だ。 

 

(雪娜よ、急ぎの話がある)


 耳ではなく脳裡に響いた〝声〟を聞き取って、雪娜は書類から顔を上げた。


「……かしこまりました。少々お待ち下さい」


 そう言って腰を上げた雪娜に、すぐ傍で書類仕事を手伝っていた、腹心の部下であり現在御史中丞の肩書を持つ鄭圭琪が、驚いた視線を雪娜に向けた。


 彼からすれば、誰も何も言っていない中でいきなり雪娜が声を発した状況なのだ。


「雪娜様?」

龍泉りゅうせん様がお呼びだ。庭池に少し出てくる」

「龍泉様が?……っ、お待ち下さい!お一人で行かれるのはさすがに――」


 龍泉は国を護る龍。

 倣国皇帝と同格、あるいはそれ以上に敬われるべき存在。


 だからと言って、当代の御史大夫である朱雪娜を一人で出歩かせるわけにはいかない。


 圭琪も慌ててその後に付き従った。




 更夜部の執務室を一歩出ると、中庭に面した渡り廊下が監察部署の部屋に向かって続いている。


 一見すると何もない渡り廊下ではあるが、実は監察部署と更夜部との間には、雪娜が練り上げた結界が存在しており、御史台所属ではない人間は、監察部署より奥へは進めない仕組みになっていた。


 進もうとしても巧妙に意識が逸らされ、いつのまにか違う部署の廊下に出ていたりするのだ。


 そして監察部署に所属する人間にしても、雪娜の許可がなければ更夜部が視認出来ないようになっていると言う、繊細にして強固な結界がそこには存在していた。


 万が一にも王宮内で魔物に身体や意識を乗っ取られる者が出ないよう、予め危険からは遠ざけておく措置が取られていたのだ。


 そしてこの時は、雪娜は更夜部の敷地の外には出ず、廊下の外に広がる庭池を見下ろすように、欄干の前で立ち止まった。


「龍泉様」


 雪娜の声がけと共に、まだ花が咲く前の、池に浮く蓮の葉が揺れた。


 それに合わせる様に雪娜が片膝をつき、すぐ傍にいた圭琪も、さっとそれに倣う。


 やがて辺りが眩い光に包まれ、光の中央に長髪の壮年の男性の姿形が浮かび上がった。


「雪娜か。やはり人間ひとと言うのは、しばらく見ぬ間に雰囲気を変えるものだな。前にうたのは、其方そなたが御史台に入る直前であったか。そう時間はっておらぬと思うておったが、人間ひととは時間の流れが違うことを失念しておったわ」


 何代か前の皇帝に「龍泉」と名付けられ、龍の姿と人間ひとの姿とを自在に変えられるとされる、この目の前の守護龍は、今は王宮内と言うこともあって、混乱を招かないよう人間ひとの姿で、この場に姿を現していた。


「龍泉様、それで本日はどのような……?」


 雪娜からの答えを必要としていない呟きであることは明らかだったので、特に会話に迎合することなく、雪娜はかなめの用件を聞くことにした。


「うむ、其方のその、龍に媚びへつらわぬ姿勢、いつうても心地よいわ。本来であれば皇帝を頼らねばならぬのだろうが、どうしても其方のその清浄な魔力の気配に惹かれてしまうのは許せ」


「勿体ないお言葉です」


 頭を下げたため、龍泉の表情は読み取れない。

 ただ、少し切羽詰まった空気が伝わってきた気がした。


「雪娜、すまぬが我が子らを探してはくれぬか」

「……龍泉様、それは……」


 思いがけない龍泉の言葉に、雪娜は我知らず頭を上げて、池の上に佇む龍泉を見やった。


「たまたま其方ら御史台の魔物狩りに巻き込まれたのか、それとも我を脅そうとする何者かに侵入されたのかは分からぬ。とにかく今、棲み処すみかのどこを探しても、我が子らがおらぬのだ」


「な……んてこと……っ」


 顔色を変えたのは雪娜だけではない。

 傍で膝をつく圭琪までもが、弾かれたように頭を上げていた。


 龍泉の子。

 次代の守護龍。


 雄雌一頭ずつ、どちらがなるにせよ、次代とその補佐となれば、既に自分達の代で国は揺らぐまいと思われていたものを。


 今はまだ、日頃から払っていた敬意をもって、龍泉もこちらに敵意をぶつけることは控えている。


 だがこの後の動き方次第では、人間ひとと龍との友誼が壊れ、未来永劫袂を分かつことになりかねない。


 それくらいの事態が起きたと、告げられてしまったのだ。


「雪娜様。御史台は監察側も更夜部側も、今は誰も魔物狩りに動いてはいない筈です。少なくとも正規の手続きにおいて、私は承知しておりません」


 震える声で、圭琪が雪娜に申告をする。

 雪娜も「分かっている」と、圭琪を見ないまま低い声を発した。


「圭琪、念の為今すぐ全御史台官吏の居所を確認しろ。龍泉様やそのお子が棲まう山に入れるとするならば、我が御史台の官吏か、皇帝直属の近衛隊の衛士どちらかしかない。私は春宮とうぐう太子たいしに至急の謁見を請う。御史台側は任せるが良いか」


「御意にございます」


 そう答えるや否や、圭琪は立ち上がって龍泉に一礼して、身を翻した。


 残った雪娜は、もう一度深々と龍泉に対し頭を下げた。


「長年に渡りこの倣国を守護して頂いてるにも関わらず、このように宸襟を騒がせ奉りましたこと、お詫びのしようもございません。お怒りはごもっともかと存じますが、今しばらく我々に猶予を頂けませんでしょうか」


 龍泉が「……うむ」と答えるまでの時間が、雪娜にとっては永遠にも等しい時間のように思えた。


「先ほども申したように、我は其方のことは好ましく思うておるのだ。何もいきなり断罪をしたいわけではない。其方であれば、身命を賭してでも我が子らを探してくれるであろう?」


「当然にございます。どうかいったん御前を下がらせていただく無礼をお許し下さい。何としてでも、お子様がたを探し出して御覧にいれます」


「頼んだぞ、雪娜。我の方から皇帝を叩き起こすようなことはせぬ。其方と其方の手の者でカタがつけられれば、大事おおごとにもならぬであろうからな」


「龍泉様……お気遣い、大変に有難く存じます」


「まあその代わりと言っては何だが、実行犯は我に引き渡して貰うぞ。万一我が子らがケガでもしておったら、八つ裂きにしても足りぬ故な」


 場合によっては、実行犯は皇帝に引き渡さねばならないところだが、さすがにこれ以上、龍泉に妥協を強いるわけにはいかない。


 御意にございます、と答えることしか、雪娜には出来なかった。

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