水色。

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my name is

 「いただきますとごちそうさまは、ちゃんと言いなさい」

 そう説き伏せられる家で育った。

 「いただきます」

 母さんは常に、看守のごとく我が子の労いを待ち望み、その言葉を聞くと久々の薬にありついた囚人のごとく安堵した。

 そもそもは能動的に言うものであって無理に言わせるものではないでしょう、母さん。

 あるいは、ことごとく大衆の心を打つ巨匠が作中で食物に感謝することの重要性について喚起する時代の渦中を生きた。

 「いただきますって、なんだかぽかぽかする」

 「ごちそうさまって、なんだかぽかぽかする」

 この映画は、擬似精神として亡き母親の魂がインストールされた人造人間に向かって主人公がありがとうとさようならを告げて幕を閉じる。主人公は決して彼の両親に強制されるのではなく、自らの意思でその言葉を口にした。非常に心地良いある種の論理だったように思う、人が感謝することに脅迫されないで済む中庸な関係。

 あの頃はその美しさにまだ気づくことができなかった。

 泣く子も黙る冷房と扇風機の合わせ技に愉悦を覚え、僕は外に出るのが億劫だった。されどその意向には当然反し、待ち合わせの時間は刻一刻と迫っている。

 「昼ごはんは道中で食べるから包んでもらっていい?」

 自室と違って窓を開けて換気しているだけの居間は暑さを凌ぎ切れていない。

 「また食べずに出るのか。用意してもらったご飯くらい、きちんと三食家で食べてなさい」

 「わかったよ、兄ちゃん。けれど、もう時間がないんだ」

 「気をつけなさいよ」

 いってきます、を強制されたことはそう言えばまだない。高校生の子供は親元に帰ってくるしかないということを、母さんは本能的に感知している。それが証拠に、母さんが父さんに対するいってきますとただいまを欠いた所を見たことがない。二人はもともと赤の他人だ。父さんはこの家に帰ってくる義務はない、この家に帰らなくてもいい余地がある、きっと母さんはそのことを本能的に感知している。

 それから僕は一日三食が人間にとって最良の食習慣ではないことも知っている。人口増加による一時的な食糧不足と、食パン企業の商業意欲と、「一日三食」という標語的美のようなものが瞬間的に合致したために、以来、大量消費の文明になるにつれてますます都合よく浸透していった一つの志向に過ぎない。何せ一日一、二食で一万年生き延びた狩猟民族が僕たちのご先祖様なわけで、三回ご飯を食べることなんかより、きんきんに冷やした自室で、きんきんに冷えたアイスを頬張り、輪をかけてきんきんに頭を痛めることの方が僕にとってはよほど滋養になる。

 「待った?」

 外に出てしまうと氷菓子の効能はたちまち消え去って、脳梁までどろどろに融けているような気がした。頭は冴えず、神経の情報伝達は滞り、思考に靄がかかる。

 「ううん、今着いたばかり!」

 車が通る気配のない住宅路を道いっぱいに二人横並びで駆ける。登り坂になってしばらく一本道に続くこの路地は、自転車でいくと水平線が果てしなく続く。目線を上げると広大な青空が無限に飛び込んでくる。坂道がどこまでもその道幅に空をとどめて放さないようだった。

 ことのほか涼しい道のりが誘うのは晩夏の市民プール。しばらく漕ぎ続けたペダルのそよ風は出発前後の気怠さをいつしかどこかに吹き飛ばしていた。

 「急に泳ぎたくなったの?」

 僕は緊張し始めていた。

 「まあそんな感じ」

 彼女の水着姿を直視せざるを得ないこと、自分の水着姿をお披露目しなければならないことを今さら気に病んだからだ。

 血がこびりついて。

 透明の水にさらさずにはいられない。

 「何か言った?」

 自転車に乗ったまま振り返りざまに僕は尋ねると、何でもないと返事がした。疾走する雑音が僕の耳を邪魔したけれど、彼女は確かに何か言った。

 「不思議」

 「何が?」

 こんなにも古びた公営プールに人が集まり、商売繁盛しているのが。幼稚園の頃からずっと、駐車場のコンクリートは舗装が必要なほど粗く、簡易車庫を区画する黄線の番号は依然修正されないまま数字が剥がれ落ちている。それが彼女の言い分だ。

 一理あると思いつつ、僕には別の考えがあった。家族や学校や冠婚葬祭のように、僕たちはただ参列する。そこに意思や能力や能動や受動や需要や供給といった概念はなく、僕たちはただ市民プールに参列する。社会や時代に組み込まれて生きることを僕たちは喜んで受け入れる。市民プールに市民じゃない者は訪れにない。市民プールに市民は訪れない、市民はただそこにいる。

 水色と肌色の予想外の比率に毎度面食らうというのが恒例の慣しだ。今日も市民プールは賑わっている。

 「懐かしい。そう言って毎年訪れているような」

 「懐かしい、と思うことに懐かしさを覚えているような。じゃあまた園内で」

 更衣室に入ると今日は運がいいと思った。

 一つに、横並びに三連続で空になっているロッカーが残っていたからだ。見知らぬ裸体と隣り合わせで着替えることほど嫌なことはない。粗野な裸は強烈に主張してくる。絵画の粗雑な下書きを精巧に批評させられるような、ネームにも満たない程度の原画をそのままの状態で単行本一冊分連載するような、衝動と詩的情緒と発散と緊張だけで紡がれた文学を読まされるような、言い換えれば地獄である。味が濃い、密度が高い、もちろん整っていない。だから赤の他人の生尻は前蹴りしてやりたくなるし、赤の他人の硬い乳首はつねり取ってやりたくなる。生身を味わうには海魚のごとく、もっと水にさらし、もっと半透明にする必要があるはずだ。

 一つに、空きのロッカーを一個挟んで隣り合わせたのが老翁だったからだ。繰り返しになるが、赤の裸体は極力目にしたくはない。ただし、萎びた老軀は別だ。朽ち果てる寸前の老体は一味も二味も違う。おそらく彼と人称していいその老翁は、腰に手を当て無邪気にコーヒー牛乳をあおっていた。

 「いいね、兄ちゃんは。今からプールを楽しめるんだろ」

 「どうも。楽しんできます」

 「たったいま俺は終わっちまったよ」

 老体はとうに主張することをやめていて、生きとし生ける全ての人間の行き着く先を全身で体現している。ただれた皮、茶黒ずんだ乳首、更年で消え去った毛根、ぶよぶよの目蓋に涙袋、刻印としての白髪と染み。全てが澄み、洗練され尽くしている。削ぎ落とすべき部分を少しも残すことなく、大気の只中にたたずみ、ただそこに在る。ダビデでもなくヴィーナスでもなく、全人類の憧憬となるべき肉体はこの老体であるように思う。半透明のその骨身は、彼か彼女かやはり見分けがつかないまま着替えを終え、ふてぶてしく更衣室を後にした。

 「おすすめは流れるプールだよ」

 園内で落ち合った彼女の言うままに僕は緩やかな人工の水流を愉しんでいた。

 先の老翁も同じ場所を薦めていたのは決して偶然ではない。彼女は年齢離れして達観したところがある。一方で、彼女の肉体はあり余る美貌だった。ただしこの事実は認識によるところが大きい。老翁や彼女の母親にしてみれば美しいとは言えないだろう、二人すれば彼女の肉体もまた、ただそこに在る。僕はまだその域に達することができていない。許されるのであれば、僕は彼女の身体を拐いたい。一方で、僕は一丁前に達観しようとする。しようとしている時点で、決して真に達観することはできないということも理解している。なのにどうして俯瞰したがるのだろう。思うに僕の心身にはある種の芯が無い、信が無い、神が無い。依る所なさ故に、僕は包括的に知ろうとする。虚に広がる空の甚大さと、果てることのない水平線の眩さと、根と引力で全土を支配しようとする大地の欲深さと、自身の奥底まで飲み込んで閉じ込めようとする大海の強大さに必死に耐えれるべく、世界のあらゆるものとの距離を測り、座標を刻み付け、自分の克明な位置を定めたいと願う。

 そんなことは不可能なのに。

 僕はあらゆるものとの距離を明らかにしたい。僕は僕との距離を明らかにしたいと思うもの全てについて詳しく知りたい。しかし、世界に存在する全てのものに注意が行き届くほど、僕の身体の機構は完全ではないし、そもそも元あった世界に遅刻して生まれてきている。故に、僕の願いは決して成就しないことがあっけなく証明される。それとやはり、求められさえすれば僕は彼女の身体を遍く貪るだろう。

 「あれ、見て」

 「何あれ、怖い。大丈夫なの」

 聞こえてきた会話を頼りに飛び込み台に目をやると、そこにはついさっきまで僕の隣にいたはずの彼女の姿があった。ちょうど陰毛の生え際すれすれの所まで裁断された最軽量の競泳水着を身につけ、台の先端に爪先立ちして綺麗に伸びをしている。水着のタンクトップからはみ出した両肩は絶妙に丸みを帯び、屋内プールの乱反射する白熱球を浴びてまっしろに発光していた。さらに双肩から伸びたしなやかな両腕は有頂天まで垂直に張り、十本の指で一つに絡まり合っている。下肢のブイラインから伸びた二辺の脚は、寸分の狂いなく調律された弦のように思われ、もも、膝、脛、ふくらはぎ、くるぶし、踵、足裏、足指の全てが揺るがしがたく張り詰めて存在していた。

 顎関節まですっと伸びた首筋の素直さに僕が夢中になっていると、確かに彼女と目が合った。

 距離にして四〇メートル。

 唇の動きを僕は読み取れない。

 矢先、彼女が宙に舞う。

 時速一八〇キロメートル。

 僕はきっと彼女を貪り尽くすだろう。

 白い肩に白い歯がたつ。

 血がこびりついて、透明の水にさらさずにはいられない。

 「不思議」

 瞬く間。プール全体を包む塩素の靄に紛れてたしかによぎった新鮮な鉄の香りを僕は無意識にとらえた。

 瞬く間。ただそれだけで彼女と全てを分かち合った。

 勢いよく水面から顔だけあげた彼女は、濡れて一つに固まって自由の効かない髪の束を首の後ろにはらって天を仰ぎ、背中から再びプールに倒れ込む。

 しぶきが上がる。

 「見事な飛び込みだね」

 「ありがとう。良い予行演習になった」

 純白の両腕を地面につき、片脚から極端に折り曲げて水からあがる。よく見ると意外に黄色みがかった彼女の踵から水が滴り、乾いたプールサイドが次第に湿る。中途半端な生乾きの廃水じみた臭いが強まっていく。

 午後の晩夏の日差しは心地よい温もりに成り下がっていた。先に更衣室を出て案内受付を逆行し、建物入口を抜けた駐車場の側で彼女を待った。沿道に据え置かれたベンチは、案内受付の建物の屋根が作った日陰と何にも遮られていない日向のちょうど間に位置していて、本当はどちらも水色なのに日陰の側は黒に、日向の側は黄金に見えた。

 明暗分かれたり。

 この錯覚こそたしかな原理原則の一つであり、世界の駆動因でもある。僕は抗って水色を愛せるだろうか。

 沿道の敷き詰められたコンクリートタイルは所々盛り上がり、原形を留めていない。そこにはサルトルの見出したマロニエと同質の生命が既に氾濫し、盛り返したタイルに砂利が散らかっている。草履にタイルであれば直接すぎてすぐに藁が千切れてしまうだろうけど、溢れかえる粒々の土砂が薄膜として介在することで草履は長持ちする、さくさくと軽やかな音が鳴る、歩き心地が格段によくなる。

 「プールの後はやっぱりサイダーだよね」

 首筋の辺りに冷たい瓶の感触がして、その向こうから彼女が顔を覗かせる。

 「ありがとう、いくら?」

 「おごりだよ、付き合ってくれたおかげ」

 先の老翁に憧れて更衣室の自販機で既にコーヒー牛乳を飲み干していたけれど、それはわざわざ口にすることではない。

 「じゃあ遠慮なく」

 爽やかな、良い一日だったように思う。炭酸の気泡がはぜる余韻と夕暮れの残穢が共鳴する。袖なしのワンピースから伸びる彼女の右腕を西陽が照らす。ワクチンの二段の六の目と、柔らかな産毛が煌く。見出されるもう一つの爽やかな喜び。

 すっかり全体がオレンジになった水色のベンチに、二人は並んで腰かける。彼女のももに枕する、抵抗は来ない。辺りを包む夕陽の靄の向こうに、明らかな鉄の匂いがする。若草の麻のワンピースは辛うじて僕をその鉄から匿っていた。空気は見事に血を希釈している。

 「これ、よく似合ってる」

 「コモディティだよ」

 言葉の意味がよくわからない。

 「どこにでもある服」

 「服のことを言っているんじゃないよ、ぴたりと君に似合っていると思うんだ」

 「でも同じように似合う人がきっと八千万人はいる」

 それもそうだ。こめかみが痛む。

 「お父さん!また来たい!」

 「よかった、また来ような」

 楽しげな顔のまま子供が車に乗りこむ。エンジンをかけた父が車を発進させる。四、五人乗りの普通自動車。車が後にした車庫は黄線で二〇番。

 僕は依然彼女に枕して眺める。

 「八千万人いたら、似合う具合はどう変わる?」

 「ううん、私は気にしない」

 ただ同じように、若草が似合う八千万人がただ存在している。

 こめかみが痛む。

 「また来たい、お父さん!絶対に!」

 「また行こう、絶対な」

 楽しげな顔のまま子供が車に乗り込む。エンジンをかけた父が車を発進させる。三、四人乗りの普通自動車。車が後にした車庫は黄線で三六番。

 つがいの百足が仲睦まじく身づくろいしている。僕たちには理解できない情報体系で愛のような概念を確かめ合っているのだろうか。あるいは、他者や外界との触れ合いを通じて内的な情動を散り散りに巡らせているのかもしれない。

 二匹はコンクリートで固められた地表にいる。何やら轟音と激しい揺れが側から急に伝わってくる。

 矢先、二匹が粉々に爆ぜる。黒光りした甲殻が一瞬摩擦で発火する。車に轢かれて瞬く間に死んだ!しかし、この大事はどうやら稀有なな出来事ではない!八千万匹、四千万のつがいが同様の結末を迎えた可能性すら大いにあるというのか!

 この忌まわしき世界!

 いつの間にか僕は二匹の遺骸のもと駆け寄っていた。命の煌めきはあまりにも儚い。自らの散文が繰り返されるコモディティであるかもしれない事実を受け入れる覚悟と諦めがつかない。愛すべき水色が、愛すべき砂利が、彼女の見事な飛び込みが実は掛け替えに溢れた代物であったなんて。今日という日を彩る爽やかな喜びの数々憎悪と恐怖に形を変えて弾ける。どうして僕の思索と詩作にだけ都合よく唯一性が機能するだろうか。どうして僕の思索と詩作だけ、淀みのない、爽やかな固有の喜びであるだろうか。

 八千万の手跡にまみれた有象無象のファストファッションである確率の方が断然高いというのは明らかだ。

 いただきますとごちそうさまを強調されているのが僕たちだ。熱い薬缶を触った手が瞬間的に退くように、無意識の程度まで習慣が予めインストールされている。僕たちはその言葉の意味とは遠く離れた所に始めから存在する。だから挨拶の仕方は教わっても、その重要性が薄れていく。だから再び強調される。強調されるということは、それを重視する意識が働かないからであり、重要視する意識が働かないのは、本当は必要ないからだ。六文字の二言を発音する意味の側に、僕たちは生まれた時から必要とされていない。尊い命の等価交換の枠組みからひどく外れた所に始めから僕たちは存在している。生きるでも死ぬでもない。消費されること、消えてなくなることが僕たちの生まれ落ちた意味。八千万の兄弟とともに僕がきれいさっぱり無くなることを、空は、海は、大地は、地平は望んでいる。

 遅れて彼女も僕のもとにやってきて、二匹の遺骸を手に取り、一息で吹く。発火して消えゆく生命を僕は諦めきれない。彼女のももは依然温もりを保っていた。

 

 

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