第四十五章 ただもの

 猪の背に乗せられていたエイルは、胸が潰れる想いで声も出せなかった。


 体感時間を信じるなら、かなりの距離を踏破したはず。だが確証があるわけではもちもんの事ない。


 シノと離れ過ぎたためだ、というのも所詮は状況の根拠とはなり得ない推測で止まっている。彼女との繋がりを、エイルはその全てを理解できてはいないからだ。


 重力が反転したともいえる感覚。途端に突き付けられた感覚に戸惑ったエイル、しかしそれも一瞬の事で、次にやってきた衝撃には悲鳴を掻き鳴らした。


「わ、わわわッ――きゃああああああ!?」


 喉もそうだが、斜面に引っ張られた背中が炙られ熱を持った。背面へ叩いて抑えようとしても弾かれた。言葉のままに手も足も出ず、急降下したエイルを斜面は手厚く受け止めもせず底に滑り落とした。


「……おさ、まった……」


 難が去った事に胸を撫でようとしたエイルの手に、絡み付くか、あるいは掴んでくるとでも表現してもいい加減で触ってくる。


「草、この匂い……土? あと“これ”は」


 身体を包む空気。温かさとは異なる触り心地だ。

 冷気は生存を世界から遮断するとも違って、太陽で温められた空気が、流れていくごとにゆっくりと、その温もりを失せていったと、そう言えるような。


 今、地下にいる。


 拾えた状況からエイルは自分の立ち位置を証明した。それは即ち、この場に落とされた自分の心の均衡を定める事になるから。


「シノちゃん……」


 恋しさに負けたエイルが呟くのは、視えている世界を自分に分け与えてくれた友人、その名前だった。


 漂う空気に乏しいが温度がある。地下であるという事は、ここは地上から隔離され、全く太陽が届かない場所というわけでは少なくともない。ヨトゥン=ハイ、シノ――二人のいる所に戻る方法があるのはシノにはなによりの朗報となる。


 外からの風を感じながら絶望は免れたエイルも、身体だけは今は広く動かす事ができない。身体を起こし手探りで周囲に行く手を遮るような障害は確認できても、広い視野と繋がっていなければ、所在の全体像を広く把握はできない。


「私が落ちてきた穴は」


 引き返す針路をエイルは取った。最初から完全に期待していたわけではない。


 期待は少しだけ、あくまで少しだけだった。


「身体が無事かどうかは、関係なかったのね」


 振り向けばエイルには一瞬で引き返す事ができた落下地点だが、足音も、自信を失くしていく声も、待っていても反響するだけで降りてこなかった。


 落ちた身体を無傷に留めた要員として、調整された角度のそれ以上に、長く設けられた角度があった。


 掌の感じ方から、登り始めの位置で穴は三十度はあった。

 人間が登れる坂の限度でも、四十度が限度とされる。

 

 自分の基礎体力の低さ、これにエイルは謎の自信を持っている。今日はこれからその自信も一層高くなる事だろう。


 骨を折る覚悟で登ったとしても、エイルのスキルが傷を消す。だがスキルと登り切る事自体が無関係で、骨が折れては落ち、治れば登って、また折れては……。そうなればエイルにとっては地獄だった。


「二人とも、私を追い掛けて……きてないと、いいんだけど」


 手触りだけに集中しても、考えられるのはろくでもない可能性だった。


 エイルが擦れた部分はまだ熱を保っていた。土のように摩擦熱を逃がす構造をしていない。極め付きに、金属製にのみ許された独特の質感。


 他に出口を早急に見つける必要をエイルは問われている。連絡を取ろうにも通信系のスキルは会得していない、自力でここを脱出し合流する――なにはどうあっても追い掛けてくる二人を止めるにはそれしかエイルには最善策がなかった。


「いっそ、中級スキルで二人をんで……駄目、こんなことを考えるなんて、私は!」


 混乱を来たそうとしていた頭を、殴るエイルは壊れた家電でも直すようだった。

 エイルが最近習得したスキル。仲間への伝達にあれは便利と言われれば当たっている。


 それが論外だった。


 この危険は今、エイルだけのものだ。今後もそうあるべきである。二人を巻き込んで事態が安定するか、より悪くなるかの二択だ。そんな賭けに二人を巻き込もうとするなんて、どうかしていた。


「出口、なんでもいいから、見つけなくちゃ。二人が来る前に」

「――ここから出たいの?」

「したいかどうか、じゃなくて。私はそうしなくちゃ、今はいけないの」

「へえ、そうなんだ。知ってるよ、出口。おしえてあげようか?」

「そうしてくれると……って」


 あまりにも自然に受け取ってしまっていたエイル。今さらながら振り返ったところで、すでに言葉を交わした後という事実は覆らない。


「だれ――あいたッ!?」


 背中から体勢を崩された。振り向いたタイミングに合わせてエイルに衝撃が突き返してきた。


 引き下がろうとした時こそ、これは攻撃を受けた結果だとエイルは顎の力が抜けそうになる。


 悲鳴を上げれば、ヨトゥン=ハイ達に居場所を悟られてしまうかもしれない。二人のどちらでもない声。声がして、初めて伏せられていた気配を覚った。


 暗闇で聞かされると、人の声でも余計怖かった。


 たかだか悲鳴一つで永遠と悩んでいられるエイルをよそに、最初の攻撃、それ以降はなにもしてこなかった。


 エイルに感じさせた気配、それ自体が薄くなっていた。


「これは。木?」


 朧を掴むつもりで伸ばした方、頬に引き寄せた方。片方ずつの手で覚えた手先は二つとも同じ感触でエイルに一致。


 エイルは後ろに生えていた木にぶつかっただけだ。そして本来木は物言わず、ましてや敵意なぞ抱かないはずなのだから、そんな相手にむきになって敵意を向けたのはエイルの方、ただ一人だけ。


 恥ずかしさが絞られた身体から溢れていた。


「じゃあ。声は確かにした!」


 いやそうでないと、むしろ不自然ではないか。


 声は今も。息遣いがしていた。


 喋るというのも異世界だと別段珍しい現象でもないようだが、エイルが叩いても、それに懲りずしきりに触っても嫌がる事を含めたそれ以外の反応がない。


 少なくともこの種類は会話できる木ではない。


「横だよ、もう少し横。そうそう。ここにいる」


 ぺたりと手の甲で触られたのがよほど気に召したらしく、無邪気に笑ってエイルを驚かせた。


「ぷっ!」

「ごめんなさい――叩くつもりは」

「謝らないで。わかる……優しい手をしたおねえちゃんだ」


 下がろうとしたのを捕まえて、エイルの手の甲に頬を擦り当ててきた。


 エイルが触っておいた木の地面から最も近い枝。高さを計算して、エイルの頭と水平に位置した二本の腕。


 蝙蝠のように、枝に両足を掛けた声の主にエイルは訊かれた。


「手を触るとわかるんだ、すごいでしょ? おねえちゃん、街の冒険者だよね」

「そ、そう。うん。君は――あ、きみでいいのかな」


『おねえちゃん』と呼ばれ勝手に自分を年上だと解釈していたエイルに確認を取られた方は、いいよと了承をあげ、実は、と会話に入りやすそうに計らってきた。


「ボクが原因なんだ。おねえちゃんがここに来てしまったの」

「え、原因って」

「街の外れで攫われたんだ。あの猪に。その後、ぼくも落とされて、この木に引っかかっちゃった」


 少年――と仮に呼んでおこうか。その話をエイルは上手く要領を得られずに聴いていた。


「おねえちゃん、ボクをたすけに、きて……くれたんじゃなかったの?」


 それは萎れていく花のようでエイルは聞いていられなかった。少年の声がエイルにはどう聞こえ、答えようがあるいはその否でも、事実を正直に告げる事に結局はなる。


 今回の依頼に遭難者の話題は、余談でも触れられていない。


 沈黙とは最悪な返答。挫けそうになるエイルに、少年はこんな提案をした。


「じゃあボクを木から下ろして」


 相応しい答えを持って来なかった。もちろん罪悪感を覚えたエイルの心は多少弱っていて、それでも無邪気に笑いながら促してきた少年の口車に乗るかどうか、警戒の紐は緩めない。


 エイルは、まだひとりでいる。


 一度触れておいて今さら遅いとエイル自身でも思う部分はある。しかし不可抗力に触って無事でも、今の少年はエイルを言葉で従わせようともしているような節もある。


「どうしたの。おねえちゃんはボクのこと、助けたくないの?」

「……助けたい、たすけたい! でも私、目が……」


 その声が、人か、人以外のモノか。暗闇の中で聞こえてくると区別するのはむずかしい。


「おねえちゃん。おねえちゃんにはちゃんと視えているよ。ボクのことが」


 少年は俯くエイルの事を、エイル以上に理解しているとでも言い換え、次にこう続けてきた。


「いじわるばかり言ってごめんね、いちばんこわいのはおねえちゃんなのに。それでも、やっぱりボクは、おねえちゃんにたすけてほしいの!」

「――私に掴まって」


 エイルの手に少年の細い頸が載った感触。もう片方を足のあるであろう方に伸ばし、回転の要領で地面に下ろした。


 木から少年を下ろしたエイルに、起こった事。それは一つだけ。


「おねえちゃん、ボクをたすけてくれてありがとう!」


 それは抱き着くというより、のしかかってきたみたいだった。


「うきゃ!?」


 エイルの筋力で抱えられたはずだった少年は、反対にひっついてくると重さが変わった。


「次はボクがおねえちゃんをたすける番!」

「私を」

「ボクが、おねえちゃんの目になってあげる!」


 出口まで案内するという、そういう意味か。


「おねえちゃん、ボクの胸に触ってみて」

「胸? ――胸って」

「くすぐったい。そこは頭だよぅ」

「ごめんなさい!」


 方向感覚の掴みづらいエイルの手を、自分の手で補助した少年。


「……あ、これってまさか」


 この不快な感触。

 鍵穴を指で穿ほじくる――。


「痛くしないようにするから」


 指の先を紙で切ったような痛み。血液一滴分の体温がエイルから抜け、少年は舐めていた指を解放した。


「奴隷、だったの?」


 指を舐めていられると、少年の口の中に契約の術式をエイルは感じた。シノに刻まれている呪いとどこも違わない。


「カモフラージュさ。子どもは自由でいるより、誰かの所有物モノでいた方があの街では安全なんだよね」


 少年に生きる上での知恵を教えてもらったエイル。考えに納得はできた。


 奴隷契約があるからこそシノに手を出そうとする人間は近寄ってこない。奪い合いが秩序である街でエイルから奪う事は造作もないが、ヨトゥン=ハイが側にいる。


「魔獣には通用しなかったけど。賢いのはどっちなのやら」


 少年の言葉にはエイルには二つの意味に聞こえた。


 自分で刻んだ魔力を辿って、魔獣は少年を巣穴まで攫って落としたのではないだろうか。


 シノでもヨトゥン=ハイでもない、肉付きの悪いエイルが率先して狙われたのは、特異なスキルに誘われて。


「私達は……“保存食”って、こと?」

「その呼び方も悪くないと思うけど。ボクはおねえちゃんを、おねえちゃんの本当の名前で呼んでみたい!」


 エイルの閉ざされた視界に、戸惑う自分の姿が開いた。シノに比べて少し高い。

 エイルを背景に世界は拡がり始める。


 苔の土台に生えた花、木。三日三晩歩き続けても往復なんてとてもできそうにない苔に侵蝕された壁。ところどころの侵蝕は酷くても、苔から染み出してくる水滴に錆びていても、本来であるだろう銀は活きていた。

 

 太陽の光が零れてくる。

 崩れ落ちた天井、湾曲した柱から突拍子のない錯覚を授かる。

 

 巨大な生き物の遺骸のなかにいるような。


「エイル……フライデイ、です」


 シノと契約した時と同様、エイルの頭で女神が囁く。

 太陽、水滴に振り注がれる少年は、エイルの名前に満足したように笑っていた。


 目の端にエイルに視えた長い髪。エイルには太陽よりも眩しかった。




『契約者のステータスが一定に達していないため、

       隷属対象のステータスの開放に失敗しました』




 シノの時は、こんな事をフレイヤは言わなかった。


 ―-ステータスが足りないとは、どういう意味なのか。

 

 エイルと繋がっている、この少年は。


「君は……」

「ボク? ボクの名前は」


 少年の足許には都合よく水溜まりがあった。


 そこに映ろうとした彼、薄着の襟を片肩に掛け、翠の瞳を微笑ませた。


「スレイ。スレイはスレイってなまえなの。これでやっとおはなしができるね、エイルおねえちゃん!」


 スレイと自分について何度も名乗った少年。


 彼の顔を見たエイルは、どこか不思議でならなかった。


 初めて逢った。なのにどこかで見憶えがある顔。


「スレイ、くん……?」


 確認のため、エイルはスレイの名前を呼んでみた。可笑しなところは一つとてない。


 ならこれも、間違ってない感覚なのか。


「なぁに、エイルおねえちゃん?」


 ただ名前を呟いただけのエイルにも、スレイは敏感に反応する。


 それも。エイルの名前を呼んだ時もそうだった。


 まるで練習しておいたかのように。何度も繰り返し。


 慣れているように感じたのは、そんなことないと思うエイルの間違いだったのだろうか。

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