オカグラサマ 作:麦茶
濁った沼の中からオカグラサマどろどろと御出でなさる。御出でなさる。オカタサマの清浄なる腹から生れ落つる不浄なる神オカグラサマ御出でなさる。御出でなさる。御出でなされオカグラサマ。濁り酒を召され、穢れ娘を召され、世の不浄を清められよ。嗚呼オカグラサマの神輿が来やる。神輿が来やる。女子供は逃げ隠れよ。男共は心せよ。神輿が来やる。来やる。獣の臓物を投げ入れよ。罪びとのはらわたをその上で切り裂け。穢れ娘を舞い踊らせよ。濁り酒を打ち撒けよ。オカグラサマのお通りぞ。お通りぞ。
囃子歌が終わった。とうとう終わった。長い夜だ。私は正気を保っているだろうか? ここはどこか。私は誰か。オカグラサマの通った後には罪人と初潮を迎えた娘たちの残骸がそこここに落ちている。誰もそれを拾わない。じきに鴉が来るだろう。それが本当のオカグラサマの御来迎だ。その時には誰も彼も家の中に閉じこもって、酷い臭気と脳裡に焼き付いた凄惨な祭の記憶に苛まれながら、そして鴉の大群が屍体を食い尽くす音を聞きながら、朝を待つ。浮浪者も旅人も、この時ばかりは家に招き入れてよい。祭には目を背けて、いつぶりかの囲炉裏の音に喜ぶ者は多い。
しかし、どうしてこれほど多くの死体が一晩のうちに消えてしまうのか。鴉の鳴き交わす声が聞こえてくる。祭の夜は誰も眠ってはならぬ。オカグラサマは人間の寝息を好まないからだと聞いたが、おそらく眠ったふりをして外の様子を伺うような輩を出さないようにするためだ。私も厠を借りるついでにちょっと外を覗いてみようとしたが、家の主に止められた。いったい何が起こっているのか。
障子越しの光が白んできたのでもう外を見てもよいかと尋ねると、許された。荷物も持って行けと言う。祭の夜が終わって、すぐにも厄介払いしたいらしい。
外はずいぶん寒かった。濃い霧が出ている。腐った臭気が鼻をつく。畦道を見ると、昨晩あった屍体の数々がすっかり無くなっている。田んぼに張ってある水も透明なままだ。骨の一片も落ちていない。砂利道の上は血や酒の垂れた跡さえない。これが鴉に出来る所業だろうか。
地面に秘密があるのではないかと、手持ちの小さなスコップを取り出した。スコップの先を突き立てて掘ってみる。驚くほど固い。力を込めて掘っているつもりが、周囲の土を薄く剥ぎ取っていくばかりである。次第に空が赤く明るくなり、家々から人が出てきた。そのうちの一人が目ざとく私の行為を見つけて、大声で喚きながら駆け寄ってきた。年寄りだった。ここの土地をいじってはならんと言う。それもオカグラサマのお言いつけかと尋ねると、その通りだと頷いた。村はオカグラサマのお力でどうにかやっていけている。だから機嫌を損ねることはしてくれるなと釘を刺された。もう地面を調べることはできそうにない。
上空を鳶が飛んでいる。笛の音のような声をあげている。後方の物音に振り向くと、狸か何かが逃げていくところだった。鴉だけでなくあらゆる動物が、昨夜の屍体を食い尽くしたのだろうか。分からない。足元の地面を強く踏みつける。苛立ちを込めてじりじりと土を捻る。村人たちは田植えの準備で大忙しだ。透き通った水を惜しげなく踏み壊して、泥をかき混ぜている。子供らは手伝いながら畦道で追っかけっこをしていたり、赤子の面倒を見ていたりする。そうしていればどこの村とも変わらない。
いくらか気を落ち着けて辺りを見回すと、ちょっと奇妙な感じを抱く少女がいた。縁側に座って赤子をあやしている、その身体は他の子供らと比べてずっと大きい。年齢の点では、昨日の祭で死んだ娘たちの方に近いようだ。私はそっと近寄ってみた。子供は大人ほど旅人を嫌がらない。彼女らと同い年なら、まだ子供だ。
「こんにちはお嬢さん。暇じゃないかい。ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」
「なあに。」
「昨日の祭で死んだ子たちを見たよね。きみとそう変わらない歳の子もいたはずだけど、きみは昨日の祭でどうして死ななかったの。不躾な質問じゃないかな。」
「ああ、あの子らは子供が出来んかったのよ。あたしらくらいの歳で子供が出来んと、血の呪いにかかる。血の呪いは一生治らん。オカグラサマに食って頂かんと。」
そう言うと、彼女は傍らで眠る赤子の寝巻を指先で直した。陽の光がちらちらと、赤子の頬を半透明にきらめかせた。
「この子はあたしの最初の子供よ。この子があたしをきれいにしてくれた。あたしはこの子のオカタサマよ。それで、この子はオカグラサマ。」
「この村では、最初に産んだ自分の子供をオカグラサマと呼ぶのかい。」
「そうよ。」
「子供が出来ずに初潮を迎えると、オカグラサマに食われるのかい。」
「ショチョウ、よく分からないけど、そう。食って頂く。隣のみっちゃんも昨日食って頂いた。きっときれいになったわね。」
そこで他の村人がやって来て、話はそれきりになった。
初潮を忌み嫌う慣習は今まで訪れた村にもしばしばあったが、これほど血を嫌う村は初めてだ。それでいてオカグラサマのためならば血飛沫も厭わない。どうして子供を産むことと神に食われることが同ように扱われているんだ。どちらでも身を清められるなら、初潮が過ぎた後でも子供を産めばいいじゃないか。初潮が来ただけで殺すことの意味は一体何だ。血か。血の呪いか。堂々巡りになってきた。
先ほどよりいや増した苛立ちを持て余して、ぐるりと首を回してみた。どうしたものだろう。各地の奇祭を調べるという半ば趣味のような仕事を続けて二、三年にしかならない若輩者に、この殺戮の真相を解き明かせるだろうか? そう考えて、あまりにも自分を名探偵化しすぎていることに苦笑する。
それから少女の言っていた、みっちゃんという子供の家を訪ねた。戸を叩くと、母親らしい女が出た。まだ若い。この村ではいくつで結婚するのだろう。
「どうも、お悔やみ申し上げます。昨日の祭のことで、お聞きしたいことがあるんですが。」
「ああ、昨日は、よい祭でしたねえ。みつこもきれいになりましたでしょう。」
そう言って微笑んだきり、女は戸を閉め切ってしまった。悲嘆の色もなければ、線香の匂いさえなかった。この様子では、仏壇に彼女の写真が立ててあるようなことはないだろう。木戸の木目が笑っている。気づいてみれば、昨日の祭を思い出すよすがなど、村の中に一つも無い。あまりにも普段通りの日々を過ごしている。背後から子供らの声が嘲るように流れてくる。
「おじさん。」
足元で声がした。見ると少年である。十になるかならぬかといったところだろう。
「なんだい。」
「あめ玉、持ってるかい。」
「持ってるとも。やろうか。」
私の手からラムネ味のあめ玉を受けとり、口の中で転がしながら、少年はぼそぼそと話し始めた。
「おじさん、昨日の祭について知りたいんだろ。教えてあげるよ。オカグラサマは山の中の、湖の底の、泥の奥で眠ってるよ。あのねえ、こういう話があるんだ。」
それから少年の語ったことをまとめると、以下のようになる。
竜は天に昇る前、山に肌をこすりつけて身を清める。その時剥がれた鱗が木々の間に落ちかかり、雨と太陽にゆるめられて次第に美しい湖になる。その水面は竜の心を映すのだ。竜が喜べばきらきらと豊かに輝き、竜が苦しめば濁り泡立つ。あらゆる湖の底には竜の鱗が沈んでいる。鱗は時おり水を透かして金貨のように輝き、疲れた旅人を呼び止める。呼ばれた旅人は抗いがたい力で水際に引き寄せられ、その水を口につけるや否や、たちまち蛇に変わってしまう。竜の鱗はそれを食って生きている。
「昨日も旅人が死んだんだって。」
話しているうちにあめ玉を舐め終わってしまったらしい。もの欲しげな顔をするので、もう一つやった。あめ玉に喜んでいるところはただの子供のようだが、先ほどの少女より知っていることは多そうだ。
「旅人が蛇になって、死んでしまうことと、オカグラサマに何の関係があるっていうんだい。」
「だから、オカグラサマは、鱗なんだよ。竜の。オカグラサマは、旅人を蛇に変えてしまって、それを食ってるんだ。オカグラサマは汚いものがお好きだから、汗と泥にまみれた旅人なんて、とても旨いんだろうね。」
「竜の鱗ね。昨日旅人が死んだのは、祭と関係ないのかい。」
「さあ。分からない。でも旅人が死んだ日に、祭をやるんだ。」
「よく毎回生贄が集まるね。ああ、その、生贄っていうのは。」
「分かるよ。オカグラサマに食って頂かないときれいになれない人たちのことだろ。罪人は引きも切らないし、子供を産んでも血の呪いにかかる女は大勢いるよ。こないだは僕のお母さんもきれいにして頂いたんだ。元気かなあ。」
思わず言葉に詰まったが、少年はにこにこと微笑んでいる。
「それじゃあ、僕がその湖に行って、オカグラサマに食って頂いたら、また祭をやるのかな。」
「どうかなあ。おじさん、きれいになりたいの。」
「そうだね。なれたらいいな。」
「なあんだ。そういう人時々いるよ。きれいになりにここに来る人。おじさん、あめ玉くれたから、連れてってあげる。」
「どこへ。」
「そういう人が集まるところ。」
連れて行かれた先は、山のふもとの小屋だった。死にに来る人間が集まるというから、さぞ陰惨なところを想像していたが、藁ぶき屋根も木戸の軋みも、普通の家屋と同じくらい手入れされている。外には犬小屋があったが、犬の姿は見えなかった。
「今は誰かいるの?」
少年に話しかけたつもりだったが、返事がない。振り返ると誰もいない。すっと背筋が冷えた。しかし思えば本当の人間だったか全く分からないのだ。幼い見た目だったが、しわがれた老人の声だったような、いやに大人びた口調だったような気もするし、舌ったらずな話し方は外見相応に聞こえた。
改めて家屋に足を踏み入れると、土間に転がった茶碗が目にとまった。端が欠けているのは投げ捨てた衝撃でのことだろうか。茶碗を手に取って部屋に上がると、ちゃぶ台がぽつんと置かれているだけで、押し入れの中にも次の部屋にも何もない。ただ、台所の奥の勝手口の先に、泥にまみれて着物が二着、無造作に捨ててあった。くっきりと足跡がついているところを見ると、以前住んでいた誰かの服と思われた。その誰かももう死んでいるのだろう。昨夜の祭で、重そうな丸太づくりの神輿を取り囲んでいた男たちと別に、若い娘と剃髪の罪人とに紛れてうなだれていた男を思い出した。彼はどうやって死んだろう? 腹を裂いたか、首を絞めたか、何か、ひどく苦しんでいたはずだ。苦悶の表情で、しかしどこかに希望を持って、曇った夜空を晴れやかに見上げていた。そして誰かの血にまみれて死んだ。死のうと思って来たのだろう。しかし彼も生きてはいたのだ。昨日の夕方まで、この家で火をおこし、飯を食い、何日ほどいたのかは分からないが、死のうと思った自分を悔いた夜もあったろうか。朝が来れば今日こそ死のうと決意し、夜が来れば死にたくないと嘆き、そうしていつ来るとも知れぬ祭の夜が来て、とうとう心を固めるために着物を投げだし、踏みしだいて、唾を吐いてこの家を後にしたのだろうか。彼の持ち物は茶碗と着物と、他には何も見つからない。
死んだ男のことを考えると、自分がここに留まるのは場違いな気持ちになってきた。彼の魂はまだ完全には成仏できていないはずだ。もしかしたらまだ己の死の良し悪しを悩んでいるかもしれない。早く少年の言った湖を探さなくてはならない。
茶碗をちゃぶ台の上に置いて出て行こうと土間に降り、玄関の木枠に手をかけると、指先にざらついた感触があった。よくよく見ると地面とほとんど平行になるように、いくつもひっかき傷がついている。向かい側の柱にもついている。嫌な想像が浮かび、息を殺して足早に玄関をまたぐと、すぐ目の前が森だった。
入って来た時には少しひらけた地面の上に空の犬小屋がぽつんとあったきりだが、これはどうだ、ところ狭しと木々が押し並び、どうやってここへ来たのか、またこれからどうやって通って行ったものか分からない。犬小屋のあったあたりには、雑草に紛れて盛り土がしてあり、小さい花瓶が破片を散らして倒れている。家の中の調度は何も変わっていない。ただ下草の蒸れた匂いが充満して、いかにも遠い昔からここに建っていたかのような顔をしている。狸に化かされたか。反射的に思った。あの少年、おれを騙してオカグラサマに食わせるつもりだ。昨日旅人が死んだというのも偶然ではない。あの少年が村を調べに来た人間を残らず始末しているのだ。そうして神様の機嫌をとるためと言って村の人々に祭をやらせて、自分が一番楽しんでいるのに違いない。罪人だ、血の呪いだと言って、無理に生贄を出させているのかもしれない。それではおれはどうすべきだ? あの少年が遠くから見ているかもしれない。湖で神に食われるか、逃げようとして山中で道に迷って野垂れ死ぬか、この家に立てこもって飢え死ぬか、いずれにしても彼は人の死を望んでいる。私が長く生きればそれだけ祭をしなくていいし、いつか彼の興味も無くなって、冬までに上手く逃げおおせるかもしれない。よし生きてやろう。風一つ吹かないこの無気味な山で、鬼の類がいないとも限らないが、今はあの少年と湖の神というのが何より危険だ。
しかし、彼が祭をやらせているとすると、湖の神は全く関係ないのだろうか? いやいや、用心するに越したことはない。神にとって必要なのは人間の信仰だ。少年が村の害になるような啓蒙主義の厄介者を排除して、一層信仰を深めさせるために祭をやらせているのかもしれない。彼は祭司の役回りなのだ。神のために人を殺す祭司か。歴史的に見れば少なくないが、実際考えてみると人がいなくなれば神もいなくなるのだから、矛盾している。
食料を探そう。見たところ木々には一つも実がなっていない。川の音も鳥の声も聞こえない。日差しがほとんど遮られているから、湿った場所があれば蛙か何かいるだろうが、不用意に歩き回ると戻ってこられなくなる可能性もある。何も食料がなければ手持ちのあめ玉だけが頼りだ。あんな狸にあめ玉を二個もやらなけりゃよかった。
下草に足を踏み入れ、木々に手をつきながら歩く。数歩進んでは振り向いて家があるのを確認する。と言っても木の葉と枝に隠れて、二十歩を数えぬうちに見えなくなった。聞こえるのは自分の足音と、背後で立ち上がる雑草の囁きだけだ。どこへ行けば何があるのか、見当もつかない。食料より先に、竜の湖を探すべきか。たとえ少年の言う通りでなくとも、湖自体はあるだろう。
乾いた音がした。兎か何か、小さい動物がうろついているような物音だ。時折音がやむ。何かを探している? あるいは狙っているのか。物音は徐々に大きく、迷いなく、私の方へ向かってくる。ただの動物なら人間には近づかないはずだ。獲物を探している蛇だとしたら、すぐに逃げなければならない。しかしこんな妙な林の中をうろついているのは何者か、確認したい好奇心に足がためらう。その間に、当の何者かが現れた。
犬くらいの大きさだった。四つ足で歩き、私の方に鼻づらを向けた。頭部は女だった。髪を束ね、鼻筋はつんとして、唇は潰れていたが、若さの残る顔立ちだ。両目は固く閉じられているから、臭いだけでここまで追ってきたものだろうか。犬と変わらない。身体は上半身に手足のついたような様子で、服まで着せられていた。世話人がいると見える。その犬っぽい女、いや女っぽい犬は、二、三度鼻を左右に振ると、また私の方をちょっと向いて、左手の方に歩き始めた。紺がすりの後ろ姿を見ていると、振り返ってまた鼻を左右に振った。ついて行けばいいらしい。自然足取りが軽く、速くなる。これほど気楽なものはない。
ずいぶん歩いた。山に風は吹かず、疲れた私の湿った息が、あたりに充満している。内側から全貌を把握することはできないが、広い森だ。下草は踏んだそばから立ち直り、帰る道を覆い隠していく。ちゃぶ台に置いた茶碗が懐かしく思い出された。
木々の間からちらちらと見え隠れしつつ、次第に姿を現したのは、巨大な湖だった。おそらく竜の湖だろう。水面はさざなみを立て、湖の中心に吸い寄せられていくように渦巻いている。中心に何かあるのだろうか? 犬は湖のほとりに私を連れていくと、到底追えない速度で再び木々に隠れてしまった。いま少し湖面に身を乗り出し、波の行方を確かめようとすると、足を引かれた。見ると湖の波間から、細い手と手首が現れていて、私の足首をとらえているのだった。驚いて後ずさると、手首もついてきて、とうとう全体が湖から上がってきた。
腕は肘の途中で終わり、その先には腹部がついていた。わき腹から腕が出ているような様子で、腹部もへそがついているのでそれと分かる程度だ。他には何もない。どうやって動いているのだろう。手首はなおも私の足をつかもうと左右に揺れる。
「あ、また出てきてる。」
声がして、手首から逃げつつそちらを見ると、件の少年が立っていた。先ほどの犬を従えている。こちらにすたすたと近づいてくる。
「これは君の仕業なのか。」
「違うよ。僕は管理しているだけ。」
そう言いながら異形を容易く手に取ると、「せっかくだから見せたいものがあるんだ。」と私を木々の奥に連れていった。少年が出てきた方角だ。
着いた先には象牙のように白い壁の、建物があった。窓はない。ドアが浮き出たように開いていて、中に通された。入ってすぐの部屋には本棚と机と椅子があるだけで、どれも埃が積もっている。冷えた空気が鼻をつく。
「研究所なんだ。ずっと前に閉鎖して、その後を僕が使ってる。」
「こんなところで何をしているんだい。」
「そりゃ、研究だよ。」
少年は先ほどの異形を持ったまま奥に向かった。ついて行くと、土間があり、ぽっかりと穴が開いている。滑車などは付いていないが、井戸のようだ。少年はそこへ手首を落とした。音もなく手首は消えた。
「出来損ないはいらないんだ。」
「研究なのに。」
「そういう研究もあるんだよ。完成品を待ちほうけるような研究が。ねえ、あめ玉ほしいな。」
「嫌だよ。狸に大事な食料はやれないね。」
「アハ! 僕が狸だって? おかしなこと言うや。僕はれっきとした人間だよ。」
「信じられるかい、そんなの。見せたいものっていうのを見せてもらったら、僕はすぐに森を出るからね。はやく見せてくれよ。」
「うん。でもその前に、僕の身の上話を聞いておくれよ。それで見せたいものを見てもらって、この話はおしまい。永遠にさよなら。それでいいだろ。」
入り口の部屋に戻り、椅子をすすめられ、埃を払って座った。少年は私の向かいの椅子に座り、前後にゆらゆら揺れながら、話し始めた。
「むかし、むかし――」
この森には一人の木こりが暮らしていて、自分で建てた家に住んでいた。木守を兼ねた暮らしだったから、毎日森の端から端へと歩き回って目を光らせていた。話相手のいない生活で、思索は孤独に煮詰まっていく。木こりは神をつくろうとした。森に神がいれば、毎日こんな苦労をしなくても、罪人や何かが入ってくることはないだろうと思ったのだ。木こりはさっそく妻を迎えた。神をつくるには人間が必要だ。交わって、子供を産ませ、子供が乳離れしたころに妻を殺した。斧で一度打っただけで死んだ。あまりにあっけないので失笑したくらいだ。木こりは女を、森の中の湖に投げ込んだ。湖は波紋を起こしたが、死体をすんなり受け入れた。また妻をめとり、子供を産ませた。また女を殺して湖に捨てた。それからしばらくは二人の子供を育てるのにかかりきりだった。二人とも女の子だった。三人目もつくりたかったが、二人で手いっぱいになってしまったんだね。あんまり手間がかかるので、妻を殺したのを少し後悔したほどだ。
二人が十四くらいになると、木こりは順番に彼女らを犯して、子供ができるのを待った。そしてとうとう子供が産まれた。片方は女の子で、もう片方は男の子だった。木こりはこれが最後と思い、二人の妻をいっぺんに湖に捨てて、残った二人を育てた。二人の間には木こりの期待通り、男の子が産まれた。木こりは大喜びで、その赤子を抱いて森を出て、村の広場でこう叫んだ。
「ここに神が現れた! 竜の湖からお告げがあったのだ。皆よく聞けよ、この男児は湖から生じ、以後村のために竜に仕える役目を負った。名はオカグラサマという。この児の働き次第で、罪人も穢れた女も神が清めてくださるとのことだ。崇め奉れ。村はオカグラサマの下に繫栄するのだ!」
生まれた赤子は神と同じように大事にされて、木こりの家で暮らすようになった。竜の使いが住んでいるというので、森全体も神聖なものと見なされて、木こりの仕事も楽になった。赤子の父と母はとっくに木こりに殺されて、湖の底に沈んでいた。赤子は父母の顔を知らずに育ったんだ。神に狂った祖父と二人暮らしだった。いや、その頃にはもう、血に狂っていたのかもしれない。
「随分長い話だね。まだあるの。」
少年の着物の襟からのぞく首元は、少年というより老人のそれだ。皴が深く刻まれて、喉とともに痙攣しながら、向かいに座った私を睨みつけて離さない。
「まだある。」
赤子は育って少年になった。その頃には毎年オカグラサマに奉納する祭が開かれていて、おじさんも知っているように、きれいになるべき人たちと、なりたい人たちが、神輿に乗って森にやって来た。皆殺されたよ。彼ら自身それを望んでいたのかどうか、僕は知らない。どんなに年を食っても、木こりの手早い動作は衰えなかった。全部湖に捨てた。湖は徐々に、消えない波紋を描き始めた。それで怪しんだ人たちがこの研究所を建てたんだ。調査と監視のためにね。一日で研究所は閉鎖した。皆死んだから。湖の波紋は大きくなり、水流を生んだ。
「それで異形が生まれるようになったんだよ。」
少年の目は細く開かれて、時おり部屋の端々に注意を向けながら、何かを待ち受けるような、怯えているような揺らぎを見せていた。右の指先は頬を支え、左の指先は机の木目を撫でている。爪が鱗のように光った。
「あれはもともと死体なんだ。」
たくさんの死体が水流に乗って、ばらばらになったりくっついたりして、最終的に打ち上げられたのが、あの異形たちだ。おじさんを案内してきた犬がいたけど、あれも前は僕の飼い犬と、知らない女の人だった。犬としてよく働いてくれるし、もし母親だったらと思うと忍びなくて、今もああやって飼っている。異形は一日に三度は現れる。
そうやって湖が渦巻き始めた時には、木こりはもう死にかけだったけど、これを本当の神の降臨と見たんだ。竜なんて神の切れっぱしですらなかったと、床につくたびに言っていた。それで、オカグラサマに――僕に――あの湖から次に生まれるのが、本当のオカグラサマだと言った。見逃すな、必ず大切に受け取って、育てて、おれの代わりに神をつくれと言うだけ言って、死んだ。その木こりも今は湖に沈んでいる。
「でも木こりのじいさんが言っていた次というのが、一体いつだか分からないんだ。だから僕は今も、祭のたびに死体を手に入れて、湖に投げ込んでは、いつ神が降りてくるかとやきもきしてる。それが研究なんだ。」
「祭の真意は死体を用立てて、湖に投げ込むためということか。竜がそれを神にしてくれるというんだね。本当のオカグラサマは不在ということだ。しかしオカグラサマの御来迎は、神輿が通り過ぎた後の鴉の群れだと村人が言っていたし、オカグラサマは不浄の神だと聞いているんだが。君の話はどうもはっきりしない。」
「現状と食い違うのは当然だよ。僕は神話の初めを話しただけだ。神話から生まれた、最初の子供はきれいだった。今じゃひどく醜い。僕さえ神話に縛られてしまった。何がこうまで複雑にしたんだろう。」
少年の手は少しずつ、老人のそれに変わっていった。その身体からは水のにおいが立ちのぼっている。冷えた空気に湿りが加わりつつあった。
「不要な枝を取り除けて、立派な大樹とするのが僕の仕事だ。この神話が終わるまで、僕は何があっても生きていなけりゃならないんだ。神が生まれて、本当の神話が始まるまで……再び美しい物語になるまで……。それには養分が必要だ。」
「何が言いたい。姿と一緒に頭も老けてしまったのかい。」
少年は指を組んで、そこに目を落とした。爪の輝きはすっかり薄れていた。
「ああ、僕が最初に生まれてから、もう二百年は経ったろうね……。この身体は放っておくとすぐに、溜め込んだ老いとともに僕を死なせてしまうんだ。湖の水を飲み、異形を食うことでしか、僕は仕事を続けられない。こんなの人間じゃないよ。神様でもない。僕はこんな風に生きたかったんじゃない。」
目からは涙が、口元からは黒い血が流れていた。
「見せたかったのは僕自身なんだ。おじさんには、僕の身を食って、次の僕になってほしい。僕を食うことで僕の仕事は受け継がれる。僕、このまま竜の身体のひとかけらになってしまうから、すぐに食ってしまってよ。頼むよ。」
しなびた身体は見る間に椅子の上で小さくなり、水のにおいが立ち込める中、手のひらに乗るほどの小さな肉塊になってしまった。少年の着物の上で、申し訳なさそうに縮こまっている。つまみ上げた。骨も何らの器官もなく、ただの肉だ。確かに、ひと口に食ってしまえそうだ。食うのか? 埃っぽい部屋にはもはや私以外におらず、このまま放って逃げだしても、誰も気づかない。オカグラサマ信仰は変わらず続けられ、いずれ私が告発した時、断ち切られるだろう。本当の神を迎えることなく終わるのだ。
しかし、もしここで食ってしまえば、私は祭司として、宗教が芽生え、確立する様を間近に見ていられる。好奇心がくすぐられる。捧げられた人々は最後には神と一体になるのかもしれない。本当にきれいになって、村は繁栄するかもしれない。その頃の信仰心はどうなっているだろう? そうだ、神が生まれるまで見守ろう。無駄死になら、その時は罪を受け入れよう。肉を口に含んだ。喉を落ちて、腹におさまった。
意識が地の底に下りた。
また浮上した。
手足を動かしてみる。異常はない。落とした着物を着直す。様子を察した犬が近寄ってきた。その背を撫でる。指先の感覚も正常だ。
「さあ、見回りに行こうか。変なやつほど頻繁に来るからね。」
紺がすりの犬を連れて、上機嫌の少年が森の中に消えた。
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