危機的状況のあたしたち

つゆり

危機的状況のあたしたち

「あ、いいところにっ」


あたしが発したウェルカムオーラとは正反対の、ノーサンキューオーラをはりつけてひーちゃんが無表情にあたしを見下ろす。最近、彼がよくするようになったこの表情が、あたし以外にはそう向けられるものではないらしいと、うすうす気づきはじめている。クラスメイトにも担任の先生にも、うちの母親にとっても、彼は依然として成績優秀で品行方正な人当たりの良い少年のままだった。

 あたしなにか怒らせるようなことしたっけ、と考えてみても思い当たることはない。けれど、とりあえず謝る、なんていうのは最大の悪手だとよくわかっている。なにしろ彼とは生まれたときからのつきあい、いわゆる幼馴染なんだから。


「どうしてそんな状況になったんだよ」


 心底面倒くさそうに、それでもちょっと顔を出して二階へ上がるつもりだっただろう半身の体を向き直して、ひーちゃんがリビングに入ってくる。


「と……とりあえず、これ、なんとかしてもらえる?」


 あたしが必死に目線でしめすのは、頭上のテーブルから落ちかけ、かろうじてふるえる左手でおさえている裁縫箱だ。彼は無言でそれを安全な位置に戻すとあたしのそばにしゃがんで目線を合わせ、それで、といいたげな瞳でにらんだ。

 無理な体勢から開放されてようやく人心地がつき、あたしはゆっくりとはなしはじめた。もちろんここ、誰もいない彼の家のリビングで、あたしがダイニングテーブルの下から両膝をついたままのけぞったサッカーのゴールパフォーマンスじみた姿勢で落ちかけの裁縫箱を支えていたのには、ちゃんとした経緯というものがあるのだった。


 中学校へ進学し、はじめての家庭科の授業は「スモック作り」だった。袖のついたざっくりとした上着で、作業時に衣服の上に着るエプロンのようなもの。このスモックを次の調理実習の際に着用しなくてはならず、その期限が明日にせまっている。

 もちろん前回の家庭科の授業から一週間、のんびり放置していたわけではない。授業中に終えられなかった生徒は、放課後に家庭科室で作業をして良いことになっていた。ひとり、またひとりとクラスメイトが完成させてゆくなか、プレッシャーを感じつつも毎日あたしはがんばった。がんばった……のだけど、努力だけで時間の壁は越えられず、ごめんねこのあと職員会議だから、と無情にも家庭科室は閉ざされてしまったのだった。

 残すところは袖口の処理のみ。だけど家にはミシンがないので手縫いするほかに方法は残されていない。ミシンでもこんなに時間がかかっているのに手縫いなんて……今日は徹夜かもしれない。

 とぼとぼと帰宅したあたしを救ったのは、ぐうぜん玄関先で会ったおとなりのひーちゃんの母だった。


 あら、それならうちのミシン使ってちょうだい。袖口のギャザーくらいなら十分もあれば……あらあら、これ袖が表裏逆についちゃってるね。……いいわけないでしょ、ほらいったん外して……ううん、糸切りばさみじゃなくてリッパーを使うの。裁縫箱に入ってるでしょ? そうそれ……あらー、ずいぶん奔放にミシンかけたわねえ、これじゃあ糸を外すより、いっそのこと作り直したほうがはやいかも。……そんな弱音を吐いちゃだめ。よしっ、わたしがイチから叩き込んであげるわっ。


「というわけで、ひーちゃんママが持っていた布をもらって作り直すことになったの……」

「それは、寝た子を起こしたというか……。服を作るのは久しぶりだから、裁縫魂に火がついちゃったんだな……」


 そういえばこどもの頃、ひーちゃんの服はすべて手作りだと聞いたことがある。あたしとしてはミシンでとりあえず形にできればいいや、という軽いきもちだったのだけど、助けを求めたのが運悪くガチ勢だった。初歩の初歩、まち針の打ち方から懇切丁寧な指導を受け、ようやく型紙を布に転写し終えたところである。

 そして、できたっ、と体を起こした拍子に頭をいきおいよくぶつけ、手元に集中するあまりいつのまにかテーブルの下に潜り込んでいたことにやっと気づいた。それと同時にテーブルのぎりぎりの場所に置いてしまっていたらしい裁縫箱が派手な音をたててはずみ、反射的に腕を伸ばして下から支えた、というのがあらましだった。


「それで、お母さんは?」

「二階にいるはずだよ。襟ぐりのバイアスにぜひ使いたいかわいい布があるとかなんとか」

「バイアス?」

「バイアス……ふっ、バイアステープよ……。端っこをこう、ふちどるやつ。ていうかなんなのバイアスって。必要? ほんとに必要なの? あいつのおかげであたしは……」

「……まあ、だいたいはわかった」


 あたしが丸二日間、放課後を費やした最大の敵バイアステープへの愚痴をさらりとかわし、ひーちゃんが二階へと姿を消した。やがて彼は大きく重そうな箱を両手に下げて戻ってきた。


「これ、ミシン。ダイニングテーブルにセットしとけって」

「ひーちゃんママは?」

「電話してる。たぶんお前んとこのお母さんじゃない。あとで我が家のぶんも夕飯を持ってきてくれるみたいだぞ。こりゃ今日はたっぷりご指導いただけるな」


 あたしがぶるりと体を震わせる横で、ひーちゃんは淡々とミシンを箱から出してゆく。


「糸は白でいいの?」

「あ、うん。明るい黄色の布だから、白でも目立たないとおもう」


 そういって、手にした布地をかかげてみせる。もともと作っていたものは青色の布だったのでそれに合わせた色のミシン糸を用意していたのだが、黄色の糸は持っていなかった。

 彼はかるくうなずくと糸をミシンの上部にセットし、迷うことなく側面の突起に糸を通していった。


「え、ひーちゃんもミシンできるの?」

「できるというか……ミシンの使い方は小学校の家庭科で習っただろ」

「ああ……うん」


(そうだった、この男は教わったことを一度で理解し、覚えてしまうおそろしいヤツだった……)


 この一週間、毎日家庭科室に通っていたあたしが毎回「どうだっけ?」と首をかしげる下糸のセットまでを完璧にこなし、彼がこちらへ向き直った。


「まだ二階でしゃべってるな。それで、どこまでできてるの?」

「ええと……、型紙を写したから、つぎは断裁するところ」

「ふうん。じゃあやっちゃおうぜ」

「うん」


 どうやら彼はこの先も手伝ってくれるらしい。あたしは気が変わらないうちにといそいで床に布地を広げた。特に苦手とする工程は各パーツを縫い合わせるところで、断裁までは授業でもなんとかこなせた。それでも大判の布地は扱いづらく、補助がいてくれるのはうれしいかぎりだ。

 まち針で止めた二重の布と型紙がずれないようにひーちゃんが端を押さえてくれる。授業でひとり作業したときとは格段のスムーズさで、あたしは布を裁っていった。


「そもそもなんでスモックなのって思うわけ」


 作業に余裕が出たからか、つい文句が口をついてしまう。


「調理実習に使わせたいなら、エプロンでいいじゃない。いたっ。袖があることでどんなに……いたた……どんなに苦労しているか」

「お前って運動神経いいのに、手先は不器用なんだな。どうして裁ちながらまち針の先にわざわざ向かっていくんだ」

「ええ? 不器用……なのかなあ。でも使い方がどうとかより……なんだか足りないよね」

「なにが」

「腕が」

 

 はあ?、と彼がこちらを向くのがわかった。でもあたしは手元から視線をはずすだけの余裕はない。


「根本的に、裁縫をするにはひとは腕が足りないとおもう。いまだって、ひーちゃんに押さえてもらってるけど、ひとりで断裁してるときでも、あっ押さえなきゃズレちゃうって瞬間があるわけ。でもどうにもできない。そんなとき、もう一本腕があればなあっておもうよ」

「……そう」

「あれっ、これってけっこう良くない? 未来の人間は進化して腕が三本になるかもね。……いや、いっそのこと四本がいいかな。そしたらミシンなんていらなくなっちゃう。縫い針を二本持ったらスピードも二倍だもんね。二刀流ならぬ二針流。うん……これだ!」


 なかば本気で名案、と声を弾ませるあたしをひーちゃんは「いっとくけど」といつもどおりの冷ややかな瞳で一刀両断する。

「腕が四本あったら、縫いつける袖も四本だからな」

「……ひえっ」


 あたしはおもわず「すみませんでした」と謝罪し、さらにその後、ひーちゃんママの手でミシンの本当の力を見せつけられて二度目の謝罪を口にしたのだった。

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