マリの憂鬱

鏡りへい

追われるものと追うもの

 ドアのノックで目を覚まし、慌てて枕元のスマホで時刻を確認すると午後四時半だった。

 通販を頼むとだいたいいつもこの時刻に宅配業者が来る。それより早い時刻だと住人が寝ているということを、何回かの経験で学んだのだろう。早朝の品出しバイトの後、夜の本業に取りかかるまでが彼女の休息時間だった。

 マリは反射的に「はい、ちょっと待って」と寝起きの声を張り上げた。

 言うのと同時に後悔した。相手が宅配業者だなんて保証はない。なんで声を出してしまったのか。

 聞こえたのだろう、ノックの音は止んだ。マリはほんの少し「お届け物です」という声がかかるのを期待した。

 何も言わない。

 諦めて溜め息を一つ吐き、寝巻きを着替えて髪を梳かした。少しくらい待たせたってかまわない。それで帰るような輩ではないから。

 チッと一つ舌打ちをして、胸中で苦々しく吐き捨てる。

 ――この間より速えじゃねえか。

 逃げても逃げても追ってくる。大したものだ――と感心さえしてしまう。マリだって細心の注意を払って引っ越しをしているのに、一体どんな情報網を持っているのか。

 それほど執念深い奴なのだ。居留守に意味がないことは過去の経験でわかっている。

 ときどき催促するようにノックが続いた。

「はいはい、行くよ」

 投げ遣りに返す。

 相手はわかっている。マリが勝手にブルドッグと名付けている男だ。簡単に言うと借金取り――。

 ブルドッグとの付き合いは長い。中学を卒業してじきに家出したマリが繁華街をさまよっているときに向こうから声を掛けてきたのが出会いだ。当時はブルドッグも若かったはずだが、暴力団が糸を引いている詐欺グループの番頭なんてものをすでにやっていた。

 声を掛けてきたのはナンパではない。美人局として働かないかという勧誘だ。

 帰る場所も行く場所もないマリは誘いに乗った。そしてどうにか生き延びた。

 二〇歳を過ぎた頃、実家との関係が変わった。唯一連絡を取り合っていた姉から祖父が他界したことを伝えられた。姉はマリに家業を継ぐ気はないかと尋いた。

 マリは実家に戻った。

 家出するほど家業が嫌いだったのは、要は儲からないからだ。いくら働いたって会社員の親を持った同級生ほど恵まれた生活ができない。高校に進学できなかったのも経済的な理由だ。子どもに「普通の生活」も与えられないのに、それでも家業を捨てようとしない愚かな親を憎んだ。

 一方で心のどこかでは家業にプライドを持っていた。時代遅れでも流行らなくても、なくしてはいけない仕事だろう。そう思っていた。

 きっかけは祖父だ――と気づいたのは、皮肉にも祖父が死んだと聞かされたときだった。

 祖父は厳格で、幼い孫を甘やかしてくれる人ではなかった。見るたびいつも職人の顔つきで何か作業をしている。それが家業で使う道具の整備や開発だと知ったのはだいぶ大きくなってからだ。

 貧しくても一生懸命仕事に邁進した祖父じいちゃん――。

 尊敬の念が湧いた。

 マリは家業を継ぎ、祖父が遺した道具の開発も引き継ぎ、一生懸命に働いた。

 そして――どんどん貧しくなった。

 生活に困ってブルドッグに金を借りたのはもう一〇年ほど前だ。いわゆるヤミ金なので、一旦借りたら利息を返すのが精一杯でいつまでも縁が切れない。もう元金の一〇倍は優に払っているのではないか。

 お互い若かった頃は、男女の付き合いをすることで返済をごまかしてもらえる場合もあった。風呂屋で働くようしつこく促されたこともある。最近ではそういう話もしてこない。ひたすら「金返せ」だ。

 ――三〇過ぎて何やってるんだろう。

 ブルドッグに会うたび、そう悲観せずにいられない。この先いくら仕事を頑張ったって、借金漬けで、子ども時代に夢見た同級生の家庭のような「普通の生活」は手に入れられないんだろう。

 なけなしの紙幣をわざと握りつぶしながら、玄関の鍵を開けるマリの目に恨みが籠もる。

 ――追われる身は嫌だ。


「追われる身は辛いよなあ」

 山中の廃屋に逃げ込んだターゲットを追い詰めながら、マリはぞんざいな口調で告げる。

「だからよ、ギブアップしたほうが楽だぜ。逃げ回るだけ恐怖が長引くだけだからよ」

 時刻は午前五時。白々と夜が明け始めるこの時間帯が家業のラストスパートだ。完全に夜が明けるのを待ったほうが無難ではあるが、それでは品出しのバイトに遅れる。

「い、いやだ……」

 満身創痍の相手は、それでも抵抗を諦めない。当然だろう。誰だって死ぬのは嫌だ。――どんな生き物でも。

 今回はいくらか失敗した。いつも通り念入りに準備は整えたものの、初手を誤ったせいで、いたずらに相手が苦しむのを眺める羽目になった。

 ――可哀想に。

 至って常識的な想いとは裏腹の行動を取る。わずかな同情も感じさせない素振りでロングコートの内側から取り出したのはライフルだ。祖父が考案しマリが完成させた「装填式陽光銃」である。

 より影の深いところに逃げ込もうとするも、体力が尽きかけているらしいターゲットが精一杯の非難を口にする。

「なんで殺されなきゃなんないんだよ。おまえに何かしたか?」

 返事の代わりにマリは引き金を引いた。瞬間、廃屋の内側が真昼のように明るくなる。

 悲鳴はなかった。マリがサングラス兼用の暗視ゴーグルを額に上げたとき、ターゲットがいた場所にあったのは山になった灰だけだった。

「いいや。――恨んでくれてかまわない。こっちはこれが仕事なんでね」

 三十代の女性ヴァンパイアハンターは、自分を追ってくる高利貸しに文句を言うたび返されるセリフを呟いた後、チッと一つ舌打ちをした。

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