不都合のないあたしたち

つゆり

不都合のないあたしたち

「今、どこにいる?」


 照明の壁スイッチに手を添えたまま振りかえり、こわばった声で問う彼にあたしは、ここ、と弱々しくこたえた。ローテーブルの上にまっすぐ伸ばした両腕の先へと目線で誘導する。彼はあたしの顔をいぶかしげに一瞥してから視線をおとし、両手で押さえつけているのが伏せたマグカップだと気づくと、信じられないというように目を見開いて、メガネを中指で押しあげた。


「動くなっていったのに」

「もちろんそのつもりだったよ! でも目の前をあれが横切った瞬間、勝手に体が動いちゃったんだもん」

「それで見事に空中キャッチか。その身体能力が、すこしでも脳までおよべばなあ……」


 心底残念そうな声で哀れみの目を向けられ、あたしは言葉につまってしまう。くやしいけど彼がいうように、あたしの頭は体ほどすばやく活動してくれない。


 中間テスト目前の日曜日。高校二年生の秋をむかえても成績が落ちる一方の娘に業を煮やし、ついに母が動いた。そうして朝もはやくから差し向けられたのがこの男、『成績優秀なおとなりのひーちゃん』である。


「あーあ、せっかく空気をいれかえてこれから、ってところだったのに」

「おれはてっきり、窓から逃げだすのかとおもったぞ」


 正真正銘の素直なきもちをそっけなくあしらって、彼はとなりに座った。腕組みをし、じっとマグカップを見つめている。つくづく自分とは正反対だよなあ、と感心してあたしはそれをながめた。


 頭よりも体が先に動いてしまうタイプだという自覚はある。先ほど窓を開けたのも、気合をいれようとおもったからだ。あたしの場合、おもっただけではなく、実際になんらかの行動を起こさないと気が済まない。なぜ網戸もろとも全開にしてしまったのか、と今では後悔しているけれど、そのときは深く考えていなかった。より開放感を味わいたかった……とか? とにかくそんな気分だっただけ。そしてその一瞬をついて、一匹の蜂が部屋へ飛びこんできた。


 すぐさまあたしはパニックに陥った。もともと虫は苦手だし、黄と黒の縞模様が本能にうったえてくる警告、あの小さな体から発しているとはとうてい信じられない大きな羽音に恐怖心は急上昇。


 蜂、と叫んだとおもう。ローテーブルに向かいノートを開こうとしていた彼は即座に「動くな」と命じ、さっと立ちあがって照明のスイッチを消した。あたしは無意識に身を守る術を探して、さっき最後のひとくちを飲み終えたばかりのマグカップを手にしていると気づき――。


「ねえ、どうして照明を消したの?」

「虫は明るいほうへと飛ぶ。まわりを暗くしてじっとしていれば、入ってきた窓から出ていくだろうとおもった」

「なるほどそっか……、これからどうしよう?」

「ちょっと待て。シミュレーション中」


 あたしは素直にうなずいた。どう考えても、彼のとろうとした行動のほうが適切だ。もしかしたら母が先生としての彼に期待したのは、学力向上だけではないのかもしれない。「おとなりのしーちゃんを見習って」は母の常套句だ。


(あのままずっと一緒に育っていたら、あたしもいくらかは落ち着きのある人間になってたかなあ)


 ハピネスソラタウン、と名付けられた六世帯の建売住宅地に暮らす隣人のあたしたちは、しぜんと家族ぐるみのつきあいをするようになった。

 毎日、陽が落ちるまで玄関先の道路で一緒に走り回っていたのは覚えている。お互いの家へは自由に行き来していたし、時にはお風呂だって一緒に入った。中学校へ進学してからしばらくはふたりで登校していたはずだ。しかしそれ以降、彼との記憶がぷっつりと途絶える。

 特に理由はなかったのだろう。お互いに新しい友だちができたとか、部活をはじめたとか、そんなささいな変化が重なって、しぜんと距離ができたのだとおもう。さらに二年生からはクラスがわかれ、高校が別になって……。


(まともに話すのは、五年ぶり?)


 五年、という言葉に我ながらぎょっとする。本人とは顔を合わせていなくても、食卓でよく母から彼の近況を伝え聞いていた。そのせいか、今まで疎遠を意識したことはなかった。だからさっき玄関で彼をむかえたとき、なんの気兼ねもなく「ひーちゃん、ひさしぶり」と笑顔で話せたのだ。彼が眉をひそめて沈黙したことと、「……ひさしぶり」とこたえた声が記憶よりもだいぶ低かったことで、ようやく自分の微妙な立場に気づいたのだった。


(ひーちゃん、なんて呼ばれて、馴れ馴れしいっておもったのかな。少なくとも今の彼には似つかわしくない、子どもっぽいあだ名ではあるよね。かといって今さら『君』づけもよそよそしいような……)


 そもそも、あたしにとって分別なく一緒に過ごした幼い時代は、秘密にしておきたい隠れ家のような、かけがえのない思い出だけれど、彼にとってどうなのかはわからない。再会して嫌な相手ではないはずとおもうけど……でもあたし、二か月誕生日がはやいのをいいことに、お姉さん気取りでいばってたような……。


「よし」


 彼の考えがまとまったらしい。あたしは悪い予感しかしない過去の詮索をさっさと打ち切り、顔をあげておとなしく指示を待った。


「そのままカップの口を密着させた状態で水平移動して、テーブルの端でこれにのせかえよう。そして窓から放つ」


 そういって、ノートにはさんでいた透明な下敷きを取りだす。


「動かして平気かな? このカップの中って、どうなってるんだろう。まさか飛び続けてるわけじゃないよね。飛んでたらこう、ぶつかる音とか、振動とか、あるよね」

「なにか感じるか?」

「なにも……」

「……いちおう確認するけど、ほんとうに蜂を閉じこめたんだよな?」


 念押しされてあたしは首を縦に振り……かけて、そのまま横へかたむけた。たぶん入ったとおもう。入ったんじゃないかな。なにかいいたげな彼の瞳には、あいまいな笑みを返すしかない。


「……まあいいや、のせれば下からのぞけるから。とにかくやってみよう」

「うん……」

「ちょっと待ってて。そっちでおれが受け止める」


 そういってあたしの左側を示し、移動をはじめた。

 テーブルの端まではおよそ三十センチ。たいした距離ではないし、一気にすばやく済ませたほうが良いんだろうか。それともゆっくり少しずつ?

 決めかねて、ここは彼を見習おう、と頭の中でシミュレーションを試みる。けれども具体的に思い描けばやっぱり、あたしの体は素直に反応してしまうのだった。

 想像の中のカップを動かす動作につられて腕の筋肉がわずかにこわばる。それに気づきあわててストップをかけたものの、ちょっとだけ遅かった。かすかな摩擦音とともに、カップが五センチほどいきおいよくスライドする。そして引きずった跡が、あざやかな緑色で描かれた。


「……やっ」

「え、ちょ……っ」


 予想外の光景に動揺して離しかけた両手を、彼の右手がおさえる。


「落ち着け、どうした」

「み……緑の……体液っ」

「……いや、これは」

「あたし、つぶしちゃった? どうしよう。ごめんね、ごめんなさい……」


 カップの中の惨劇を想像して、あたしは震えた。きっと蜂はテーブルの上におりていたんだ。そこをとつぜん動き出した壁に押され、わずかな隙間に巻き込まれてそのまますりつぶされるように……。

 向こう見ずに行動するクセが、とうとうひとつの命を奪ってしまった。責められるのを覚悟して、おそるおそる振りかえる。彼はあたしの背後でわずかにうつむき、メガネを指で抑えつつ顔を手でおおって――必死に笑いをこらえていた。


「なっ……。わ、笑わないでよっ」

「ごめ……、あはは、だってあんな泣きそうな声で……」

「それは……っ、まさか殺すつもりじゃなかったしっ」

「いやだから……」


 彼は上目遣いに視線を合わせ、それでもまだ笑いをおさめきれない様子で、息もたえだえにようやくいった。


「思い出してよ。さっきまでさあ、そのカップでなに飲んでたの」

「ええ? なにって……抹茶……オレ、」


 いいながらばかな勘違いに気づき、とたんに恥ずかしさで頬がかっと熱くなった。


「あーおかしい、平気な顔でとんぼの羽をむしってた人間が……」

「やだなにそれ、嘘っ」

「そもそも蜂の体液が緑色だと、どうしておもうんだよ」

「え? だって……あれ?」


 蜂の体液は何色だっけ? ていうかとんぼの羽って? 彼にもあたしとの思い出が残ってたんだ。またこんなふうに笑顔をみせてくれてよかった。ていうかとんぼの羽って? その記憶ほんとうにあたしなの?


 さまざまなことが思い浮かんで、情報の洪水にふたたび頭がパニックになる。よくわからない汗がふきだして、暑い、と認識したせいだろうか。ふと自分以外の熱源に気づいてしまった。つまり、まだあたしのうしろを移動中だった彼があわててカップに手を伸ばしたせいで、すっかり背中を抱え込まれるように密着した体勢になっているってことを。


 玄関先での、なんだか大きくなったなあ、なんてあいまいな印象が、はっきりした質感と体熱をまとって鮮明に塗りかえられる。身長、肩幅、骨ばった手、そして筋肉。どれも記憶とはかけ離れてたくましい。あたしのほうがお姉さんだといい張れた二か月の差なんて、とっくに追い越されていたんだ。

 その事実に圧倒され、押し寄せる情報を処理しきれずに、とうとうあたしはフリーズした。すぐに彼も状況を察したのは気配でわかった。背後で居心地悪そうに身じろぎし、ぎこちない咳払いをするのが聞こえる。


「……あのさ」


 まだ耳慣れない低い声が、彼に密着した背中からの振動とともに届いた。


「よく考えたら、そんなに力いっぱい押しつけなくても……なんなら手を離しても問題ないとおもう。カップの重量もあるし」


 返事をできないでいると、あたしの手に乗せられていた彼の手がそっと離れていった。それにならってあたしもカップを手放す。もちろん、だからといってカップがひとりでに暴れだすなんてことはなかった。

 彼は、うん、と独り言のようにつぶやいて立ち上がると、当初予定していた位置へと移動し、ひといきにカップをスライドさせて下敷きにすばやくのせた。下から中をのぞきこむ彼に、あたしはまだぼうっとした頭で「いる?」と聞いた。彼はまた、うん、とつぶやく。


(ほんとうに中にいたんだ。しかも、無傷なままで。よかったあ)


 かくしてあっけなく蜂を外へ逃し、網戸を閉めることができた。いつものあたしならこの喜びを全身で表現するところだけど、頭と体の回路はまだ切断されたままのようで、なんとなくぼんやりとだまっていた。


 彼はやれやれ、というふうにローテーブルの向かい側に座る。そのまま下を向いていたけれど、やがて意を決したのか姿勢を正してまっすぐに顔をあげた。あたしたちは無言で見つめあう。


 しっかりと正面から顔を見たのは今日初めてかもしれない。以前は不相応に大きくて重そうだった黒縁のメガネがしっかりと体の一部として収まっている。薄いくちびると、当時ひそかにうらやましかった長いまつげはあのときのままだ。

 証明写真の更新みたいに、あたしは五年前の彼の記憶を新しい顔に書き換える。しぜんと、今の彼にふさわしい呼び名が思い浮かんだ。


柊良ひいら


 そう呼んでもいいかな、とおもった瞬間には口から出ていた。つくづく頭よりも反応のはやい体だ。


 柊良は驚いたように息を吸い、しばしぽかんと口を開けて――やがて目をそらすと咳払いをひとつ。ああ、しかめっ面をするのは迷ったときのクセだったっけ。


「……志央しお


 長いまつげを伏せたまま、それでも一音ずつ丁寧に発音されたあたしの名前は、やっぱり昔の「しーちゃん」よりはるかに彼が呼ぶにふさわしい。

 あたしはたまらず笑顔になって、それを見て柊良も満足げにほほえんだ。


 話したいことも、聞きたいこともたくさんあった。それこそ五年分。

 あたしたちは同時にくちを開き、さらにお互い遠慮してしまって笑い合い、なお譲ったあたしに、柊良はすっきりとしたわだかまりのない声色でいった。


「じゃあ、数学から始めるぞ」


 すっかり忘れていた本来の目的に、あたしのおだやかに凪いだ感情は反転、一気に爆発したのはいうまでもない。

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