第9話 腹式呼吸は声が通ります

 地面のそこかしこから耐え難い異臭がする。

 瘴気のような、腐臭のような。

 地面の下から硫黄の煙が吹き上がっている。

 魔物の絶え間ない攻撃に、五百名の兵士はすこしずつ人数を失っている。

 前回、到達した地点より魔王城に近いのか遠いのか、距離感はわからないが同じ程度の場所にいる。


 ―――――来る。

 人間の三倍ぐらいのサイズのカマキリの魔物が頭上から降ってきた。

 ほぼ隊列の中央に着地するや、腕に抱えていた何かを地面に振り落とし、両腕の鎌で空気を薙ぎ払った。

 鎌の威圧が空気を割り、無数の真空の刃が兵士を切り裂く。

 ぎゃあという獣のような悲鳴が森に木霊し、吹き飛ばされた兵士の手足がそれに遅れていくつも地上に落ちた音がした。

 その魔物はカマキリによく似た姿をしているが。前足についた鎌は普通のカマキリの鎌の比率よりずっと大きい。背中の羽は威嚇と防御のためクジャクの尾羽のように広げられている。金属の矢じりも通すことできないようだった。

 兵士たちも反撃を試みるが、カマキリの放つ風圧の攻撃に弓矢が利かない。

 兵士たちは弓を槍に持ち替え、じりじりと間合いを詰め始めた。

 カマキリは時折、その長い鎌を振り回して弓矢を躱す以外は次の攻撃に移らない。

 勝てると判断した隊はぐるりと何重にもカマキリを囲う。


 あたしを監視していた兵士は、カマキリの魔物の方に気を取られている。当たり前だ、真空の刃の行き先を見ておかなければ自分の首が落ちるかもしれないのだから。


 振り落とされ、地面にたたきつけられているのはメイド長だった。

 彼女は白目をむいて気を失っていると、思った。

 二目と見れない鬼気迫る白目ぶりだったから。

 兵士たちは誰も彼女を助けようとしない、地面に転がった不出来な丸太のように、足でよけながら、カマキリに近づいていく。

 だが、あたしは彼女が口の中で複雑な詠唱を組んでいることに気が付いた。


 鳥の鳴き声のような高い音が響き、それを合図のように地面から耐え難い異臭が一層強く噴き出した。



 あんた、無効魔法使えるわね。



 メイド長がまっすぐ見据えて確認してきた顔が脳裏に浮かび、本能的に無効魔法を唱えた。

 あたしの無効魔法構築の完成と、彼女が呪文を発動した瞬間は絶対に同時だった。


『―――――即死』


 半径二百メートル、彼女の声が届く範囲の兵士のおおよそ三分の一。

 自己申告していた通り、彼女の使った魔法に指向性はなかった。放射線状に、無差別に暗黒魔法が拡散する。

 兵士は糸を斬られたマリオネットのように地面に落ちた。

「瘴気、瘴気だ。息を止めろ。やられるぞ」

 誰かが明後日な指示を出した。

 まわりは舞台装置のような霧に包まれている。

 凄いニオイがするが、致死に至る毒ガスではない。

 だが、兵士たちは薬物にも魔法にも詳しくない。

 兵士たちが呼吸を止めることで身動きが取れなくなった。その頭上にメイド長は更に即死魔法を重ね掛けする。何度も何度も。

 何百人という兵士が、術が完成するたびにまとまってばさっと地面に落ちる。

 悲鳴を上げ、恐怖に駆られて走って逃げた奴は助かるだろう。

 だが、命令に従い息を止めてその場に残った者はほとんど崩れ落ちた。


 即死魔法の五回重ね掛け。

 生きていて、まだ戦意を失わない者は、次々に集まってくる魔物が、一人ずつ丁寧に始末した。


 メイド長は地面に打ち伏したまま、しばらく起き上がろうとしなかった。

 即死魔法は高度な術だ。

 あんなに連続で掛けられる術師に会ったことがないが、五回も重ねて掛けすれば、どんな魔術師も魔力が枯渇するはずだ。


 空気が張り詰めている。


 メイド長が起き上がれないその間、カマキリも蜂もセミもムカデもダンゴムシも蟻も名前もわからないどの魔物も、あたしと倒れたメイド長に攻撃をしようとしなかった。少し離れて見守っているように感じた。


 カマキリの魔物はいつの間にか広げていた羽を閉じ、前足の鎌を畳んで、身に近づけている。

 あたしはこの魔物のことを識っている。

「―――――マンティス」

 魔物は何か致命的な呪文を受けたように一瞬のけぞる。

 そしてその輪郭が崩れ、小さく縮んだ。

 元の姿に、あるいは元の姿でないのかもしれないが、いつもあたしがよく見知った、美しくしなやかな剣士の姿になった。

 彼はとても悲しい目をして、うなだれ、その場に立ち尽くした。



 メイド長はうめきながら漸く、体をおこした。

 あたしはメイド長に駆け寄って、体を支える。

 触れたことのなかったその体には確かに強力な魔力の波動があって、先ほどの即死魔法を放ったのは、やはり彼女なのだと確信した。

「メイド長、あたしの無効魔法が完成したかどうか確認しませんでしたね」

 あたしは結構本気で睨んだが、意に介した様子もなく、にやりと笑った。

「私の魔法が一回で効くほど、弱い精神力ではないはずだろう」

 あたしは魔術師だから、一歩兵に効くような確率では即死魔法が効くことはない。

 でも、あれは運に作用される。即死魔法は呪いに近く、回復魔法が効く類の術式ではないのだから、あと一秒、術の完成ぐらい待ってから掛けてほしかった。


「コクゾ、私を城に連れて帰っておくれ。数年ぶりに術を使ったからもう一歩もあるけやしないよ。他の者は後始末をおし」

 彼女は、黒い甲虫の魔物に、手を差し伸べた。

 黒い甲虫の魔物にその手が触れると、いつものコクゾの姿に戻った。

 人の姿の彼はずんぐりとした力持ちのおじさんの風体だ。もともと無口で動きがゆっくりな彼は、メイド長を軽々と背中に背負い、立ち上がった。


「マンティス、なに落ち込んでるんだい。メグを城に連れておゆき。あの方が待っているのだろう」

 彼女の口調はいつもよりも優しい。

 マンティスはコクゾの背中の上の彼女を見上げ、そして、あたしの顔を見た。

 彼女が言う「城」が、彼女が戻ろうとしている城ではないことが私にもわかった。


 コクゾとともに彼女は森の奥へと姿を消し、あたしは促されて、マンティスの指し示した方向を目指して、彼の背中の後ろをついていくことになった。


 子供ぐらいの大きさの蜂が兵士の死体に集り、器用に装備を外して金属と布と道具と死体に分別していく。金属と布は蜂の魔物がそのまま持ち去り、イノシシサイズの蟻の魔物が兵士の死体をどこかに運び去る。考えたくはないが、食料なのかもしれない。



 森はあっという間に元の静寂を取り戻す。


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