おばさんとめがね

押田桧凪

第1話

 生まれてこのかた両親の顔を知らない私は、施設に行く代わりに叔母の家で暮らしていた。悲しくは無かった。叔母が優しかったから。

 叔母は未亡人で、若作りで、年齢の割に随分とハイカラな人だった。女手一つで私を育ててくれた、私にとって大切な人だ。

 小学校四年生のとき。親御さんの職業についてインタビューをしましょう、という課題が総合学習の時間に出された。今でいう、キャリア教育というやつだ。

 親御さん。私のことを気遣ってなのか、ただ私が過剰に反応しただけで、そういう意図はないのかもしれないが、先生はそういう言い方をした。勿論私のことだけでなく、両親が離婚している家庭を含めて、一番オブラートに包んだ言い方なのかもしれない。


「おばさんは、お仕事何してるの。あ、えっと。じえいぎょう、っていうんだっけ。学校でね、調べて発表する活動があるんだけどね」


 私がそう言った時のうっすらと、憂いを帯びた叔母さんの顔は、今でも鮮明に思い出せる。マスカラが綺麗に塗られた目を見開いて、肩が小さく揺れていた。けれど銀縁眼鏡の奥には、まっすぐな眼差しがあった。はあ、と吐息を落とすように短く、息を吸い込む。


「いい、えいか。私のことは、言ったらだめ。おじさんたちにお酒を出すようなお店のことなんて、人前で言うもんじゃないわ。ああ、もうまったく」


 上擦ったような声で、誤魔化すようにそう言って、私は「美容師」についてクラスの前で発表することになった。学生時代、叔母さんは美容学校に通っていたことをその時、初めて知った。

 初めてお店に立ったのは、中学三年の時。通信制がいいな、と高校に進学することをぼんやりと考え始めていた、春の終わり頃のことだった。

「えいか、そろそろ店の手伝いしてみない。もう、顔立ちもすっかり大人だし。気晴らしにどう」

 夜のお店。あの時は世間体だとか私の風評被害だとかを心配して、お店のことを話さなかったのにね、と毒づきながらも内心、もう大人なのか、と自らの成長を感じてなんだか変な気分だった。


 シャッター街ともいえる、さびれた商店街の裏道にひっそりと構える店。淡いオレンジ色の泡ガラスの円形窓のついた、小さな扉。レンガの壁。店名を示すネオンサインが、静かに灯る。ハイカラ趣味の叔母さんらしさが凝縮されたような、丁寧に作りこまれたこの外観を私は気に入っていた。今の私の、原点ともいえる場所だ。


 しかし、いざ接客をするとなると、相手を立てて、話を盛り上げたりするのが、私はとても下手だった。それどころか、えいかちゃんの話なんかしてよ、なんて言われると、とめどなく溢れてくるのは自分の境遇に対する愚痴だらけ。 あれ、私ってこんな性根が腐った子だったかしら、なんて自分で思ってしまうくらいに僻んだことしか言えなくて、わるいわるい私ったら。きっと不味いお酒を飲ませてしまったに違いない。

 叔母さんから、はっきりと言われた。向いてないのかもねって。

 角型ボックス席について、相手の顔をうかがいながら、話を聞く。そして、適度に相槌を打ちながら話をする。簡単なことのように思えたけど、案外私には難しい仕事だった。

 向いてない、か……。

 正論に人は弱いから。それが正しいと自分が認識できるほど、醜さや弱さを突きつきられた気がして、自然と怒りが湧いてくる。でもそれは、自分に対する怒りの裏返しであることを、私は知っている。

 あんただってかわいそうだねっていう、無防備なまでに深い同情七割、血縁としての義理三割ぐらいの気持ちで私のことを引き取ったくせに。

 衝動的に苛立った反動で、可愛げもなく、心の中で叔母に対してそんな風に思った。逃げるように。自分を庇うように。これを臆病な自尊心というのだろう。


 でもね、今の私があるのは、あの時の叔母さんの言葉があるから。そう思い、改めて感謝する。


 あ、好きだな、って思わせるの。俺にはこの人しかいないって。そうしたら、向こうは心をひらいて、好みの女性のタイプやら、休日の予定やら、何から何までは話してくれるのよ。いちばんは、むやみに好かれようとしないこと。じっと、話を聞いてあげるだけでも、その人にとっては癒しなの。

 うんとか、へぇとか。意味のない同意や頷きは不必要に相手と距離を取ることもあるけど、それ以上に、傷ついた誰かに寄り添う時だとか、それによってしか補えない時があるのよ。


 だから、私はこの店に立つ。


 ゆっくりと話す叔母の顔はいつになく、清々しい笑顔を見せる。そこだけを照らすように、銀縁眼鏡がきらきらと光って見えた。

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