あの人
虫十無
一、二
誰も私の言うことを信じてくれない。だから伝えるのを諦めてしまった。
あれは覚えていないくらい昔から家の隅にいる。壁に食い込んだ状態であそこにいる。ずっといる。
昔は怖いとは思っていなかったということをぼんやりと覚えている。けれどあれが誰にも見えていないことがわかるとなんとなく距離を置くようになって、それから怖いという感情を覚えた。
ずっと見ているとみんなに不審がられるから、できるだけ見ないようにしているけれど、それでも視界に入るところにいるからついそちらを見てしまう。息をするようにゆっくりと小さく揺れているその身体はしっかりした鎧をまとい、二本の刀を持っている。ほとんどの時間は腰にさしたままの刀を、たまに両手に持って敵と相対しているような動きもする。
そういえば、ここはマンションの三階で、それなのにどうしてあそこにいるのだろう。あの古めかしい格好は、きっと戦国時代とかそういうときのものだろう。そのときに死んだ人だとして、その頃ここは空中だろうに。いや、このあたりは埋め立てでできた土地とも聞いたことがある。その埋め立てがいつ頃のことか知らないけれど、きっとこの人の生きた時代より後のことだろう。それならその頃ここは空中というだけでなく海の上でもあったことになる。それなら、もしかしたら大きな船の上だったのかもしれない。
あれが見えたまま大きくなった私は剣道を始めた。
どうして私は剣道を始めたのだろう、とふと考える。やっぱりあの人の影響だろうか。確かに始めようと思ったときは二刀流を習いたいと思った。けれどそれを簡単に習える場所はなくて、そうしてなんとなく剣道を始めて今に至る。
そうしたらあの人の存在は私にとって結構大きいのだろうか。いや、きっとそうだろう。だってあの人を見ない日はほとんどなくて、せいぜい旅行に行ったときくらい。それだけ毎日見て、目を逸らして、それでも意識のどこかにはあるという状態でずっと。そのままずっと生きてきている。
そういえば、あの人と話すことはできるのだろうか。怖いという感情を覚えてからは話そうなどとは思わなかった。きっとその前には拙い言葉で話しかけようとしたこともあっただろう。けれどそのときの記憶はもうほとんどない。
今の私は怖いという感情を覚えてから一番というくらいにあの人に興味を持っている。剣道を始めたことがあの人に影響されたからだと認識してから、ずっとあの人のことが気になっている。怖いという気持ちはある。それでも今は気になるが勝っている。
二刀流を習ってみたいと思った私は今、あの人でもいいから習えないのだろうかと思うようなところまできているみたいだった。
「あの……」
話しかける。動く。こちらを認識している。
ああ、二刀流ってのはあんな風に動くんだ。それ以外のことは考えられないまま意識が刈り取られた。
あの人 虫十無 @musitomu
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