第19話

居間に戻ると、二人分の夕飯が食卓に並んでいた。まーくんは、俺を待っててくれてたんだ。

「あー、明太子! 美味しそう。俺も食べよっかな」

友達と夕飯をすませていたはずのヨシくんが、言いだした。

「博人が貰って来たやつだよ。おまえ、食べてきたんだろ」

「大丈夫、まだ入るよ!」

今日は唐揚げと小鉢とサラダと明太子、そしてお味噌汁。ヨシくんはご飯茶わんだけ持って戻ってくる。

「いただきまーす」

食べ慣れたまーくんの味は、いつも安心する。

「弁当箱、後で出しておけよ」

「うん。洗い物手伝う」

助かるわ、と、まーくんが笑った。その時、玄関からガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえてきた。

「ただいまー」

「あれ? 博人くん帰ってきた」

意外と早かったね、と3人で顔を見合わせたところに博人くんが入ってきた。

「今、夕飯? 遅かったんだね。あ、明太子、それ美味しいんだよね」

俺も、食べようかな、でも9時過ぎて食べると太るしな、とためらっていると、ヨシくんが、

「9時まで、あと15分あるよ」

と、唆した。

「じゃ、いっか」

と、いともあっさり陥落した。

上着と鞄を放り投げてキッチンからお茶碗を持って戻ってきた。

「―――おまえも食べてきたんじゃねぇのかよ」

「明太子は別腹でしょ」

聞いたことねぇよ、と呆れるまーくんをよそに、

「いただきます」

と明太子を引き寄せた。

「潤ちゃん、から揚げ一個ちょうだい」

「ええよ」

「潤から取るな。俺のやるから」

まーくんのお皿に、ヨシくんと博人くんの箸がのびて、から揚げが見る見る減っていく。それでも、怒らないんだよな、まーくんは。

「あれ? お兄ちゃん、今日はビールじゃないんだ」

「明太子には白米だろ」

いつもは、ご飯を食べずにビールとおかずで晩酌するのに珍しい。

「そろそろ、庭の梅、収穫したほうがよさそうだね」

博人くんが網戸越しに庭に視線を投げる。まーくん達が生まれる前からあるという梅の木は、今年はたわわに実がなっている。

「今年はいろいろ作れそうだな」

まーくんと博人くんが、いろいろ計画を練り始めた。

4人の食卓はいつもこんな感じだ。



「おい、ちゃんとクリーム塗れよ」

洗い物が終わり、濡れた手をぞんざいにタオルで拭いて行こうとすると、引き止められた。

「べたべたするの、嫌やもん」

「荒れたら、どうすんだ」

そう言って、クリームを取り出すと俺の手の甲に塗りつけ、そのまま両手で撫でるように指先まで丁寧に塗り込んでくれる。

まーくんは、口調は厳しいけど、こんなふうに甘やかしてくることがよくある。

俺のこと、まだ小学生だとでも思ってんのかな。

「これ、さらっとしてるんやね」

「ああ、博人がこの間、買ってきてくれたやつだ。これなら、おまえも平気だろ」

相変わらず、博人くんは痒いところに手が届く。

ついでに軽く指先をマッサージしてくれた。気持ちいい。

じっと、器用に動く指先を見つめた。

しっかりした大人の指だけど、博人くんに触れるときは優しく繊細に動くのを知っている。

まーくんが大学に受かって家を出る少し前、台所に立つ二人の後ろ姿を見ていた時だ。

俺が居間にいることに気付いてない様子の二人は、何か話しながら洗い物をしていた。

まーくんが、博人くんの伸びた前髪をかきあげた。その仕種がまるで壊れ物に触れるような繊細な指使いで、思わず見入っていると、博人くんが笑って、まーくんにキスをしたんだ。

驚いて動けないでいると、博人くんが俺に気付き、視線だけ向けて笑いかけてきた。まーくんはキスに夢中で気付いてないみたいだったけど。

慌てて、足音をたてないように二階に上がると、胸がどきどきしていた。

博人くんの整った横顔と、うっとりとしたまーくんの顔がまるで映画のワンシーンみたいだった。

また、見たいなと思ったけど、さすがにそのチャンスは今のところない。


まーくんの指先を見るたびに、それを思い出す。

「どうした? 顔、赤いぞ」

熱でもあんのか、と眉を寄せるまーくんに慌ててしまって、うっかりまーくんの指を握ってしまった。

「ん?」

「あ、いや、まーくんの指、長くてキレイだなって…。ピアノやればいいのに」

指先をにぎにぎすると、くすぐったいと言って手を引いてしまった。

「おまえの指と比べたら、なんてことない普通の指だろ」

手伝ってくれてありがとな、と笑った。

そんなことないのに。いつも美味しいものを作り出してくれる魔法の指だよ。

うまく言葉が出てこないのがもどかしい。

感謝の気持ちを言葉にするのって、難しいな。


部屋に戻ると、電気をつけずに奥に置いてあるピアノの前に座った。

俺に与えられた部屋は、元々は納戸として使っていた洋室で、高校に入学するとき、部屋に電子ピアノを入れてくれた。夜も練習できるように。

そして客間には、元々あった古いアップライトピアノがある。

長い間、ほこりをかぶっていたものをメンテナンスをして使えるようにしてくれたんだ。

このピアノは、『瞳子』さんが弾いていたのだという。

博人くんのお母さんだ。

暗闇の中、ヘッドホンをしてピアノを弾き始めると、音だけに集中することができる。

課題の曲を弾いていると、背後に気配を感じた。

ああ、また来てくれた。


白いワンピースを着た、髪の長い女性。


初めて気付いたのは、客間でピアノを弾いたとき。誰かが背後にいる気がして、振り返って見ても誰もいない。

そんなことが何度かあって、部屋に電子ピアノが届き、夜、暗くして弾いていたとき、はっきりとした形が見えたんだ。

まーくんと博人くんを足して二で割ったみたいな感じっていうのかな。

顔形や立ち姿はまーくんによく似た華奢でほっそりとした美人だ。まわりの雰囲気をふんわりとさせる感じは、博人くんに似ている。

彼女からは怖さも不気味さも、まるで感じない。むしろ、とても優しくて儚くて暖かい波動を感じる。

3人には見えてないみたいだし、まーくんは怖がりなので、一切話していないけど。


子供の頃から、人ではないものをよく見た。

それは、怖いものが多くて、俺はいつも泣いてはオカンに怒られた。

そんなものはいない、と言われても、自分には見えているのだから、怖くてしょうがない。

言い募ると余計、オカンに怒鳴られるので、そのうち、口に出さなくなった。

喋れなくなる前から、そんな感じだったので、どうしても言葉足らずのまま、過ごしてきてしまった。

でも、ピアノを弾いていると変なものは寄ってこないし、感情を表現できるような気がして楽しかったんだ。

……そう、普通は寄ってこないんだ。

なのに、彼女はピアノを弾いているときだけ現れる不思議な人。

1曲弾き終わって、肩の力を抜いたとき、背後から肩を叩かれて驚いて振り返った。

「潤一、風呂、入りなよ」

博人くんだった。

びっくりした、一瞬、彼女が触れてきたのかと思った。

「暗い中で、よく弾けるね」

「…この方が、集中できるから」

そっと、博人くんの背後を見たけど、彼女の気配は、すっかり消えていた。

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