ほろ苦くて甘い

nobuo

◇◆◇◆◇

 昼下がりのとあるオフィスの一室、一つだけ島から外れたデスクでPC画面とずっと見つめ合っている男性にわたしは声を掛けた。


「部長、どうぞ」

「ん? ああ、ありがとう」


 コーヒーを淹れたカップをデスクの端に置くと、五十搦みの上司はうわの空で返事を寄越し、難しい顔で画面を見つめたままカップに手を伸ばした。

 特に頼まれたわけではないし、お茶くみは女性の仕事だと言われたわけではないが、三時になるとなんとなく物欲しくなり、給湯室へ向かう。

 昨年の春にわたしが移動してくる前は、各々がそれぞれのタイミングで喉を潤していたそうだが、自分だけお茶をするのを後ろめたく感じたわたしが勝手に全員分を用意したのが始まりで、今はそれが日常になった。

 お茶かコーヒーかはその時のわたしの気分次第なので、みんな文句を言わずに飲んでいる。本日はちょっと趣向を凝らして、丁寧に淹れたコーヒーにおまけ・・・を添えてみた。

 全員分を配り終えて席に戻り、早速カップを手に取る。馥郁たるコーヒーの香りを存分に堪能してから、ゆっくりと口に含んだ。


「…いな」


 ほぅっと息を吐いたわたしの耳に、部長の声が聞こえた。見れば指先に抓んだものを繁々を眺めながら、コーヒーを飲んでいる。


「部長、どうかしましたか?」

「いや、コレ・・が美味しかったから。つい、な」


 そう言ってひらひらと振ったのはチョコレートの包み紙。実はわたしが先月の国民的イベントバレンタインデーに際して、自分用に購入したちょっとお高めのトリュフチョコレート。大事に仕舞いこんでいたせいですっかり忘れていたソレ・・を、コーヒーのお供にと一つずつおすそ分けしたのだ。

 少しばかり悪戯気分で添えてみたのだが、酒は辛口コーヒーはブラック派の部長が食べるとは思っていなかった。


「部長って甘いものも召し上がるんですね」


 驚いてそう呟いたのが聞こえたらしく、彼は首を傾げて訊ねてきた。


「そんなに意外か?」

「ちょっとだけ。お菓子を食べてるのを見たことがなかったので」


 素直に頷くと、部長はコーヒーで口中に残ったチョコレートの余韻を流し込んでから、ほんの少し照れくさそうに苦笑した。


「妻の影響なんだよ」

「奥様の?」


 小耳に挟んだことはある。社内恋愛で結婚されたという部長の奥様は、あること・・・・で有名だったらしく、彼女を知る方から何度か逸話を聞いたことがある。

 物静かでおっとりとした控えめなタイプでありながら、仕事は正確で早く、とても頼りになる”お局様”だったそうだ。


「今の若い人にはわからないだろうが、昔は終業後に一杯引っかけてなんてことがしょっちゅうだったんだ。仲間同士ならまだいいが、先輩や上司に誘われたら新人は嫌でも断れなくてね。仕事で疲れ切っていても同行するしかなかった」


 今でこそ仕事に厳しい鬼部長と囁かれている彼だが、新人の頃は気が弱く、週の半分は二日酔いに悩まされていたと笑う。


「そんな俺の状況を変えてくれたのが妻だった。忘れもしないよ。その日はひどく忙しかったうえに、前日の酒が残っていて体調が悪かった。仕事上がりに通り飲みに誘われて、でも断れなくて。仕方なく先輩方について社を出ようとした時、彼女が声を掛けてきたんだ。『私もご一緒していいかしら?』と」


 頬に手を当てて小首を傾げ、おっとりと微笑む彼女。すると先輩方は突然慌てだし、急用を思い出したと言い訳してそそくさと帰ってしまったという。

 残された彼は訳が分からずポカンと佇んでいると、彼女は少し残念そうに笑って理由を教えてくれたそうだ。


「妻の実家は代々続く造り酒屋で、そのせいなのか驚くほど酒に強いんだ。新年会や忘年会など年中行事の際には、上司の酒の相手を任せられるからと重宝されるが、それ以外では強すぎて誘ってもらえないのだと寂しそうに教えてくれた」


 あまりにもしょんぼりしているので付き合ってあげた方が良いのかと寄り道に誘うと、嬉しそうな反面、首を横に振って断られてしまったらしい。

 彼女曰く、体調がすぐれない時に無理をする必要はない。私に付き合うのなら、万全の時にお願い。と。

 後日、助けてもらったお礼も兼ねて改めて誘ってみると、彼女は嬉しそうな笑顔で了承してくれた。そして事実を目の当たりにしたという。


「それを皮切りによく一緒に寄り道をするようになり、それに伴って上司からのお誘いはめっきり少なくなった。そしていつしかこの人と結婚したいという気持ちが芽生え、ある日酒が入ったほろ酔い状態でぽろっと言ってしまったんだ」

「なんて言ったんですか?」

「『あなたと毎晩一緒に晩酌すれば、定年の頃には俺も酒豪と呼ばれるくらい強くなれるかもしれないな』と」

「それってプロポーズじゃないですか!」


 つい興奮して大きな声になってしまったわたしに、部長は少し恥ずかしそうに笑った。けれど部長のプロポーズはすぐには受け入れてはもらえなかったという。

 なぜなら彼女の方が十歳も年上だったため、本気にしてもらえなかったらしい。そもそも言い出しが酒の席であったのも悪かった。

 だから素面の時に何度も何度も説得し、そしてやっと受け入れてもらえたという。


「きちんとプロポーズした日は奇しくもバレンタインデーでね。婚約指輪のお返しにチョコレートをもらったんだ。チョコをつまみに酒を飲んだのはその時が初めてで、結構合うもんだねと言ったら、自慢気に『そうでしょう?』って笑ったんだよ」

「まあ!」


 思い出に浸る部長は楽しそうな反面、どことなく寂しそうだ。なぜならその奥様は一昨年、ご病気に罹られて亡くなられてしまっているから。

 思わずしんみりとしてしまっていると、部長はくすりと笑った。


「オジサンの思い出話に付き合わせてしまって悪かったね」

「いいえ。良いお話を聞かせていただきました」


 互いに顔を見合わせてふふふと笑い合う。そしてわたしたちはそれぞれ仕事に戻った。

 来年のバレンタインデーには、またチョコレートを添えてみようと思いながら。





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