第4話
「また遊びに行こう」という言葉を、2人は何度も重ねるようになった。最初のうちは瑞稀が楽しめそうな場所を涼真がピックアップするという形が多かったが、そのうち「原田くんが行きたいところにも行こう」という瑞稀の言葉で、出かける場所の選択肢が広がった。
それだけではなく、瑞稀は涼真のバイト先のコンビニにもちょくちょく買い物に来るようになった。買うものは特に決まっていないようだったが、煙草は必ず買って帰っていた。実はヘビースモーカーなのでは、と涼真は密かに思っていたが、瑞稀が涼真の前で煙草を吸うことはない。おそらく、気を遣っているのだろう。涼真はその気遣いが大人でカッコいいなと思う一方、遠慮されていることにどこか寂しさも感じていた。瑞稀は涼真の話を飽きずにいつまでも聞いてくれるし、何かを聞けば答えてくれる。だが、彼自身から自分の話をしてくれることはあまりない。涼真としては、それが何より寂しかった。瑞稀と会うたび、彼のことをもっと知りたいと思う気持ちが膨らんでいくのだ。
例えば何かを面白いと思った時。瑞稀はいつもよりも少し高めの声で笑う。
例えば心から楽しいと感じた時。瑞稀は眉を下げてふにゃりとした笑顔になる。
例えば可愛らしい鳥や動物を見た時。瑞稀の瞳は少年のように輝く。
彼と過ごす時間が増えていくごとに、彼の知らない表情に出会える。それが嬉しくて楽しくて、涼真は彼との約束を重ねていた。普段の瑞稀は落ち着いていて、まさに理想の大人といった感じなのに、ふとした瞬間にかわいらしい彼が顔をのぞかせる。いわゆるギャップ萌えというやつなんだろうか。「かわいい」だなんて、涼真から見て9つも年上の男性を形容するには甘すぎる言葉かもしれないが、かわいいと感じてしまうのだから仕方がない。
「・・・やっぱ竜田さんって、かわいいっすよね」
元々思いついたことはすぐに口に出てしまうタイプの涼真。一番初めは「かわいい」と言ってしまったことへの照れや申し訳なさを感じていたのに、今ではすっかり自然に言うようになってしまった。今日も今日とて、隣で膝に文鳥を乗せている瑞稀に、ぽんっと言葉を投げる。
「三十路の男に言う言葉じゃないと思うんだけどな」
現在「小鳥カフェ」なるものを訪れている2人。かわいいと言われた瑞稀は、少し拗ねたように呟く。最初は苦笑しながら否定していた彼も、言われ続けると段々と返しに素が出てくるようになった。
「だって、かわいいし」
「こらこら」
瑞稀が呆れたように笑う。涼真は心の中だけでガッツポーズを作った。今のも恐らく、瑞稀が周囲にあまり見せていない表情。彼がそうやって新しい一面を見せてくれるたび、涼真は何とも言えないような嬉しさを感じていた。
「えー、いいじゃないっすか。かわいいって思うのに性別とか歳とか関係ないっすよ」
「まあ、そういうのが原田くんの良いところだとは思うけどね。そういうことはあんまりいろんな人に言っちゃダメだよ」
「ええ?別に竜田さんにしか言ってないっすけど・・・。何かダメっすかね?」
きょとんとした顔で首をかしげる涼真。瑞稀はやれやれと苦笑いをした。
「そういうところが心配だなあ。悪い人に引っかからないように気を付けた方がいいよ」
「??」
「悪い人を引っかけないように、の方が正しいかな」
瑞稀は膝の上の文鳥を撫でながら、最後は涼真に聞こえないくらい小さな声で言った。
「あー今日も楽しかったっすね!」
「うん、今日もありがとうね」
「いやいやこちらこそ!竜田さん、相変わらず鳥に好かれてましたね~」
「あはは、たまたまだろうけど・・・。そうだったら嬉しいな」
「絶対好かれてますって!あの文鳥とか、ずっと竜田さんの膝にいましたもんね」
「ああ、あの子か。確かに、ずっといてくれたね」
小鳥カフェから駅へと向かう道すがら、2人はゆったりと歩きながら話していた。車ではなく電車で出かけることも、2人にとっては日常になりつつある。たまに森が瑞稀を迎えに来てそれに涼真が便乗させてもらうこともあるが、基本的には電車やバス移動だ。瑞稀いわく、休みの日くらいゆっくり出かけたいのだとか。秘書である森が一緒にいると、気が休まらないのかもしれない。
「次はどこ行きましょうかね~。前言ってた猫カフェとか、全く違う感じなら何かのイベントとか・・・」
「あの、原田くん」
「ん?」
「前から聞きたかったんだけど・・・」
「お、何すか?」
瑞稀は少しためらったそぶりを見せた後、涼真を見上げて眉を下げた。
「休みのたびに僕と出かけてくれるのは嬉しいんだけど・・・無理させてない?大丈夫?」
「!」
「僕が年上だし、気を遣ってくれてるなら悪いかなって思ったんだ」
どうやら、瑞稀は最近ずっと涼真と一緒に過ごしていることに引っかかりを感じていたらしい。涼真は特に何も考えていなかったため、彼の問いに少々面食らった。
「え、気遣ってるとかじゃ全然ないっすよ!普通に大学の友達とも遊んでるし!オレ、3年だから授業少なめなんすよね。1,2年の時に頑張ったから補習とかもないし」
「本当?」
「マジっすよ、マジ。それにぶっちゃけた話、周りが就活してるからちょっと誘いづらいっていうのもあるんすよねー。オレは実家継ぐっていうか、実家の仕事するって決めてるから就活なくて」
「原田くんのご実家って確か、農業をやってるんだっけ?」
「そーっすね。親父は継がなくてもいいって言ってたんすけど、大学まで好きなことやらしてもらったから、あとは家のこと頑張ろうかなって。土いじるのは好きだし」
「・・・偉いね」
瑞稀の声音は、何だかとても重かった。何か思うところでもあるのだろうか。だが涼真が答える前に、瑞稀が言葉を重ねた。
「でも大学生活が残り少ないのに変わりはないし、心配だな。友達もそうだけど、恋人とも遊ばなきゃもったいないよ」
「え?あれ?オレ言ってなかったっすかね?オレ、いま彼女いないっすよ」
「・・・!」
涼真の言葉に、瑞稀は目をぱちくりとさせた。予想していなかった答えだったようだ。
「あれ、そんな話聞いてたかな?」
「あー、そういう話題になってなかったから言ってなかったかもっすね。今までにいなかったわけじゃないけど、なーんか長続きしなくて。1年の時にはいましたけど、それ以来さっぱりっすわ~」
「意外だね・・・。原田くん、モテそうなのに」
「え、全然っすよ!何だろ、告白されても結局フラれるんすよね~。何か、良い人すぎて裏がありそうとか、一緒にいると自信がなくなるとか、よく分かんない理由ばっか言われて・・・。オレのこと好きって言ってたじゃん!って思っちゃいますよね」
涼真が子供のように口をとがらせる。瑞稀は苦笑した。
「何となく理解はできるけど・・・でも、その女の子たちは見る目がないね。原田くんの恋人になれたら、すごく幸せにしてもらえそうなのに」
「えっ、ほんとっすか!?」
「うん。僕はそう思うな」
「すげー・・・!竜田さんに言われたらマジで自信つく気がする・・・」
「あはは、そうかな?確かに仕事柄いろんな人に会ってるから、人を見る目はあると思うよ」
「そうっすよね!よっしゃ~!」
涼真は先ほどの拗ねた顔から一転、空に向かってガッツポーズをした。元気が出たなら何よりだ。瑞稀は彼を微笑ましく見つめた。彼にかけた言葉に、一つも嘘はない。一緒に過ごすうちに涼真が老若男女から好かれる人間であることは十分理解できたし、相手に自信を無くさせてしまうほどの人の好さも目の当たりにしている。そして彼の人柄を知るたびに、彼の隣にいていいのか迷ってしまう気持ちも、瑞稀には理解できた。
「てか竜田さんは、」
「あ、」
涼真が何かを言いかけた時、瑞稀の腕時計が振動した。着信を知らせるバイブレーションだ。瑞稀は盤面を見て、一つため息を吐く。
「ごめん、仕事の電話だ」
「あ、どうぞどうぞ!じゃあ今日はここで解散しましょ」
「うん、ごめんね。また今度」
「うっす!また!」
トレンチコートの裾を翻して駅の方へ向かっていく瑞稀の背を見送ってから、涼真は彼と反対方向に歩き出した。彼と一緒に電車に乗るつもりだったが、駅前で解散したからついでに買い物をして帰ろうと思いついたのだ。涼真は軽快な足取りで駅前の商業施設に入る。平日といえど天気がいいからか、施設の中は賑わっていた。カップルもちらほらと見受けられる。
「・・・そういえば、」
涼真は前を通り過ぎていく恋人たちを流し見ながら、先ほど瑞稀に問おうとしていたことを思い出す。
『てか竜田さんは、恋人とかいないんすか?』
今まで特に気にしたことはなかったけれど、彼ならいてもおかしくはないだろう。話題に上がることがなかっただけで。そもそも彼は、自分の話をあまりしない。一緒に過ごしていて、例えば彼の義理堅さだったり優しさだったり、可愛らしい一面だったり、そういうものはずいぶん見ているけれど。鳥が好きだとは聞いたが、それ以外の彼の好みも、趣味も、誕生日も知らないわけだ。恋人の存在だって、知らなくて当たり前かもしれない。
「・・・・・」
何だか、急にとても寂しい気分になる。自分は瑞稀のことを何も知らないのだと、気づいてしまった。そして、彼に恋人がいたとして、それを聞いた時に「やっぱり!」と素直に反応できる自分が想像できないことにも、気づいてしまった。
出会って数か月。いつの間にか、涼真の中で彼の存在は大きくなっていたのだ。今まで意識したことはなかった。けれど、出会ってから一緒に出掛けるようになって、涼真が瑞稀のことを考えない日はない。次はどこに行こうか、どんな話をしようか、どこなら喜んでくれるか。そんな事ばかりを考えている。彼が眉を下げて笑うたび嬉しくなるし、彼との約束の日が近づいてくると浮足立ってドキドキするのだ。この感覚の名前を、涼真は知っていた。
これは、おそらく―――「恋」というのだ。
「・・・っ!」
気づいた瞬間、涼真の顔に熱がぐわっと集まった。心臓がバカみたいに早く脈打って、頭の中にぐるぐると血が巡り始める。買い物に来たはずなのに、目の前に並んでいる商品の情報がまったく目に入らない。一度意識してしまえば、もう忘れることはできなかった。
「(オレ、竜田さんが好きなんだ・・・)」
同性同士だとか年上だとか、そんなことはもはや涼真の頭の中からは消え去っていた。まるで長年悩んでいたパズルが出来上がったような、そんな心地になる。信じられないというよりは、腑に落ちた感覚というのが当てはまっていた。もっと会いたいと思うのも、もっと知りたいと思うのも、もっと笑顔を見たいと思うのも、彼が好きだからなのだ。
「次会うとき普通の顔できっかな、オレ・・・」
誰に言うでもない独り言が、落ちて消えていく。未だにバクバクと早鐘を打つ心臓と、顔中に集まった熱。涼真はしばらくその場から動けなかった。
―――・・・・・。
「原田くん、どうしたの?」
「えっ、」
前回から約2週間後。2人は今日、大きな屋内施設で行われているご当地グルメのイベントにやってきていた。今回は涼真のリクエストだ。前回の鳥カフェから数日後に涼真から「これに行きたい」と連絡を入れ、瑞稀の休みが偶然にもそのイベント期間の中にあったので、それならとやってきた次第である。しかし待ち合わせしてから1時間ほど、涼真はずっとどこか上の空だった。彼のリクエストでイベントに来たはずなのに、彼は何を買うでもなくご当地グルメの各ブースをボーっと見つめるだけ。いつもなら飛び上がる勢いで喜ぶだろうに、と瑞稀は心配そうに彼の顔を見る。
「何だか今日、心ここにあらずって感じじゃない?」
「そ、そうっすかね?」
「調子が悪いんじゃないの?無理は・・・」
「違う違う!違うっす!全然元気っすよ!」
「本当に?」
瑞稀の目が細くなる。涼真の言葉を疑っているようだ。怪しまれる要素しかないことは分かっているため、涼真はぐっと言葉に詰まった。だが言えない。言えるわけがない。
瑞稀への恋心を自覚した途端、今までのように話せなくなっているだなんて。
涼真は必死に手をバタバタと動かしながら弁明をした。
「ほんとっす!すんません、ボーっとしてただけで・・・!」
「それならいいけど・・・。無理はしちゃダメだよ。体調が悪いって感じたらすぐに言うこと。いい?」
「はい!あざっす!」
涼真が赤べこのようにブンブン首を縦に振って頷くと、瑞稀もようやく納得したらしい。視線を前に戻して、目の前に並んでいるブースを指さした。
「ほら、原田くんはどれを食べたい?せっかくだし、いっぱい食べようよ」
「そうっすね!めっちゃいい匂いするし・・・。迷うっすね~」
瑞稀の視線が自分から外れたことで、涼真はほっと一息を吐く。これまでどうやって平気でいたのか分からないほど、瑞稀の顔を見ているとドキドキが止まらないのだ。今までよくしゃべってたな、と自分自身で感心してしまうほど。瑞稀には非常に申し訳ないが、今日は挙動不審なままで過ごすことになってしまいそうだ。
「あ、これオレの地元の焼きそばっすよ!麵太くてうまいんすよね」
「そうなんだ。じゃあ僕はこれにしようかな」
「え、いいんすか?」
「?だって、原田くんの地元の味でしょ?食べて知ってみたいよ」
「・・・!」
涼真の胸からキューンと音が聞こえてくる。実際はそんな音なんて鳴っていないが、瑞稀の言動がすべてクリティカルヒットになる今の涼真の胸は高鳴りっぱなしだ。瑞稀の言葉に深い意味があるわけなどないが、だからこそ他意なく言われたものには余計にときめいてしまうというものだ。
「原田くんは?どうする?」
「えっ、あー、そうっすね・・・!ん~、全部うまそうだけど・・・やっぱ肉系かな!探してきてもいいっすか?」
「ああ、いいよ。じゃあこの辺の席で待ってるね」
「あざっす!」
自分の身の安全のために、そして平穏な心で食べ物を選ぶために、涼真はいったん瑞稀の傍を離れた。ガッツリと肉が乗ったメニューを食べたかったのも本当だ。だが何よりも、動揺したままでは何も選べない気がした。もう成人しているというのに、何だか思春期の少年のようなリアクションを連発している気がする。涼真はため息を吐いた。
「肉、肉食って落ち着こう、よし。うん。そうしよう」
ブツブツと自分に言い聞かせながら、涼真はブースを見て回った。ご当地グルメが数十種類集まっているイベントだけあって、肉を使ったメニューも豊富だ。匂いにつられて立ち寄ったブースで、ご当地牛を使ったステーキ丼が目に入る。これならシンプルだし、今の自分でもしっかりと味わえるだろう。涼真は大盛を頼んで、瑞稀の待つテーブルへと戻った。ちょうど彼も焼きそばを受け取っている。タイミングはぴったりだったようだ。
「あ、おかえり。原田くん」
「っす!」
「おお、また大きいのにしたんだね。ステーキ?」
「ご当地牛を使ったステーキ丼って書いてました。めっちゃ旨そうじゃないっすか?」
「うん、おいしそう。僕の焼きそばも、けっこうボリュームありそうだな」
「あー、そうっすね。その焼きそば、麺が太いんで段々顎が疲れてくるんすよ。腹いっぱいになるからいいんすけどね」
「そうなんだ・・・。食べきれるかな」
「もし残りそうならオレ食うっすよ!」
「ええ、本当?そっちもだいぶ大きいけど・・・」
「いけますいけます!オレの腹底なしなんで!」
「ふふ、それは知ってるけど。じゃあ、もしもの時はお願いしようかな」
2人はテーブルに向かい合って座った。そしていただきます、と手を合わせてからさっそく食べ始める。大きくカットされたステーキを頬張る涼真を見て、瑞稀は微笑んだ。
「よかった」
「ん?なんふか?」
「原田くんがそうやって美味しそうに食べてるのを見ると、安心するよ。今日会った時からちょっと気になってたから。よかったよかった」
「んぐっ、」
その微笑みに、涼真はステーキをのどに詰まらせそうになった。傍らに置いていた水を一気に飲んで、何とか事なきを得る。恋をしたら相手が輝いて見えるというが、本当のことだったのかと涼真は実感しまくっていた。今日一番の輝きだ。元々瑞稀は綺麗な顔立ちをしているが、その綺麗さに磨きがかかっている気がする。もちろんそれは涼真の幻覚なのだが。
「えっ、大丈夫?」
「だ、だいじょーぶっす・・・!ちょっと肉がデカかったんで・・・」
「慌てて食べなくても大丈夫だよ。詰まらせたら大変だ」
「そうっすね、ゆっくり食います・・・」
純粋に心配してくれている瑞稀に申し訳なさを感じつつも、涼真はそれとなく目の前の彼から目をそらす。直視していると、そのうちステーキを丸呑みしてしまいそうだ。恋愛経験がないわけではないが、豊富というわけでもない涼真。しかし、それでも今まではこんな風に相手を前にするだけで動揺したことはない。これまでは相手から好意を伝えられて関係が始まるということばかりだったからかもしれないが、それにしても情けない話だ。これではまるで、初めて恋を知った中学生のようである。
「・・・・・」
瑞稀は何か言いたそうに涼真を見つめていたが、ご飯を頬張っている涼真はそれに気づかなかった。
「あれ?雨・・・」
「えっ、マジっすか?」
イベントをたっぷり楽しんだ2人は、「この後どこに行こうか」という話をしながら出入口に向かった。そして外に出ようとして、空が暗いことに気づく。瑞稀が呟いた通り、外ではザーザーと音を立てて雨が降っていた。
「うわ、マジか~・・・!天気予報では曇りだって言ってたのに」
「これは・・・駅まで行くにしても、ちょっと無理そうだね。ずぶ濡れになっちゃいそうだ」
「ですよね~・・・。うーん、どっか傘売ってるとこないかな」
涼真は出入り口から顔だけ出して、辺りをきょろきょろと見回した。すると、コンビニが目に入る。距離としても、走って行けば何とかたどり着けそうだ。
「ちょっと待っててください!」
「え、原田くん!?」
言うや否や涼真は走り出して、コンビニへ一直線に向かった。そして店内に飛び込んで、レジの近くを見る。こういう急な雨の日には傘がよく売れるから、分かりやすい位置に陳列されていることが多いのだ。コンビニバイト歴3年の経験則である。彼の予測通り、傘が吊られている什器はレジの近くにあった。しかし、この店に立ち寄った人が考えていることは同じだったようだ。もうすでに傘はほとんど残っておらず、ビニール傘が1本ぷらーんとぶらさがっているだけ。店員に在庫を聞いても、先ほど追加したもので最後だったと言われてしまった。
「(1本ってコレ、相合傘ってことかよ・・・!)」
涼真は自ら気づいてしまった可能性に頭を抱えた。傘を1本しか使えないということは、必然的に2人で傘に入るしかない。つまりそれは、世間でいう相合傘だ。恋心に気づいたばかりでハードルが高いことこの上ないが、彼を待たせている以上悩む時間はない。
「しょうがないか・・・」
雨がいつ止むのかもわからないし、ボーっと待っている訳にはいかないだろう。せめて駅まで行けたら、他にも傘を売っているかもしれない。そう、駅まで行けば大丈夫だ。駅まで行けば。涼真は自分に言い聞かせてから、残り1本の傘を手にとってレジに並んだ。そして買ったばかりの傘を差して、瑞稀のところへと戻る。
「お待たせしました!!」
「えっ、傘?買ってきてくれたの?」
傘を手にして帰ってきた涼真に、瑞稀は驚いた顔を見せる。
「みんな買っちまったみたいで、1本しか残ってなかったんすけどね。駅とかどっかに行けたら、もう1本あると思うんで・・・。とりあえず出ません?」
「そうだね。でも、僕が傘に入れてもらう感じになっちゃうけど・・・」
「竜田さんさえよければ、いいっすよ!オレのがデカいんで、オレが傘持ちますね」
「ああ、ごめんね。じゃあ入らせてもらおうか。ありがとう」
いたって平静を装っていた涼真だったが、外に出て傘を差した瞬間後悔に襲われた。瑞稀との身長差は15cmほど。涼真の口元の当たりに、ちょうど瑞稀の頭がかかるくらいだ。傘の中でこの身長差だと、彼の香りがダイレクトに伝わってきてしまう。控えめにつけられた香水に、ほんの少しだけ煙草の香りが混ざっている。今まで隣で歩いていても、ここまで彼の香りを感じたことはなかった。それだけ体が密着しているということだ。涼真はその事実に耐えられず、傘だけを瑞稀の頭上に残して体を少し離す。すると彼の動きにすぐ気づいた瑞稀が、パッと彼の方を見た。
「原田くん?」
「えっ、な、何すか?」
「肩濡れてるよ!もっとこっち入って」
「あ、や、大丈夫っすよ!竜田さんこそ濡れたら大変だし・・・」
「僕は全然大丈夫だから、ほら」
瑞稀は涼真の腕を掴んで、自分の方にぐっと引っ張る。不意なボディタッチに、涼真はますます心臓をバクバクさせた。本当に、思春期真っ盛りの中学生に戻ってしまった気分だ。
「や、ほんと大丈夫っすよ!オレ肩幅広いからどうしても濡れちまうだけだし、竜田さんが狭くなっちま、」
「僕・・・もしかして、原田くんに何かした?」
涼真の言葉を遮って、瑞稀が問うた。その声音はどこか悲しそうで、表情も不安そうで。思ってもみなかった彼の問いに、涼真は面食らう。そんなことを聞かれるとは露ほども思っていなかった。どうしてそんなことを聞くのか、という気持ちが涼真の顔に出ていたのだろう。瑞稀は涼真の返事を聞かないまま、静かに続けた。
「今日、ずっと様子が変だし・・・。僕と話すとき、ぎこちない気がして。僕が原田くんの気に障ることをしたんだったら・・・」
「違いますよ!」
自分が思っていたよりも、大きな声が出た。周りを歩いていた人々が何人か振り返って涼真を見たが、彼にそれを気にする余裕はない。瑞稀が悪いわけはないのだ。そんな悲しい顔をさせたいわけではなかった。涼真は必死に言葉を探す。
「竜田さんは何も悪くないってか、オレが勝手にその、色々考えちゃってるだけで、」
「考えるって、何を?」
「それは・・・っ、」
「ごめん、僕は聞かない方が良いかな」
ふっと瑞稀の視線が地面に落ちる。どこか自嘲じみたその笑みは、涼真が好きだと思うあの笑顔ではなかった。自分が彼にこんな表情をさせているのかと思うと、情けなくなって思わず唇を噛む。自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、瑞稀がどう思うのかなんて頭にもなかったのだ。何て子供っぽい事をしたんだろう。涼真は頭が冷える思いで、先ほどとは打って変わって静かに話し出した。
「えっと・・・こないだ、オレの彼女がどうのって話したじゃないっすか」
「え?う、うん。そうだね」
「あの帰りに、そういや竜田さんは恋人とかいるのかなって考えて。あの時は聞きそびれちゃったんですけど」
「うん」
涼真の様子が変わったことに気づいて、瑞稀は目線を彼の顔に戻す。話して、と促されるような眼差しに涼真は言葉を続けた。
「恋人とかそういう前に、オレ竜田さんのこと何も知らねえなって気づいたんすよ。誕生日も知らねえし、鳥以外の好きなものとか、好きな食べ物とか・・・。そういうの、やだなあって」
「やだ、っていうのは・・・?」
「寂しいなって思ったんです。そんで、もし色々知ったとして、竜田さんに恋人がいたら・・・嫌だなって」
「!」
「そういうの考えてたら自分の中でぐるぐるしちゃって、竜田さんと今までどうやって話してたのかなって訳分かんなくなって・・・」
「・・・・・」
「オレ・・・」
涼真の足が止まる。それにつられて、瑞稀も止まった。
「竜田さんが、好きなんです」
雨の音が消える。雑踏が消える。
傘の中、2人の瞳には互いしか映っていなくて。
まるで世界から切り取られたようだった。
「っ・・・・・」
瑞稀は、思わず息を飲み込んだ。目の前の青年が、あまりにも真剣な顔で自分を見つめているから。どういう意味なの、と問うことなど無意味だというのは、彼の眼差しを見れば分かった。彼が伝えてきた言葉は、友人や先輩に対するそれとは明らかに違っている。涼真の「好き」はどこまでも真っすぐで、そして親愛だけではない何かを纏っていた。
「・・・・・」
「・・・・・」
互いの息だけが聞こえてくるような沈黙が、2人の間に落ちる。涼真は自分の心臓の音で、耳が潰れてしまいそうだった。
言うつもりはなかった。けれど、気づけば口から転がり落ちていた言葉。自覚してすぐに言ってしまうなんて自分でもどうかと思うが、溢れて止まらなかったのだ。彼を悲しい顔にさせるくらいなら、と。だがあの言葉の続きに何を言えばいいのか分からなくて、涼真はまとまらない頭の中を混ぜ回していた。そんな彼の耳に、静かな声が聞こえてきた。
「・・・僕で、いいの」
「え?」
「君の好きな人が、僕でいいの?」
瑞稀の表情は、幼い迷子のようだった。まるで泣き出しそうに睫毛を震わせて、眉を寄せて。どうしてそんな顔をするんだろう。涼真は考えるよりも先に、手を伸ばしていた。傘を放り出して、瑞稀を力いっぱい抱きしめる。空から雨が降り注いで2人を濡らすが、そんなことはもうどうでもよかった。
「竜田さんがいい」
「っ・・・・・」
「何でも知りたいって思うのも、笑った顔が見たいって思うのも、全部竜田さんがいい」
涼真の両腕に力がこもる。いつでも落ち着いていて、余裕があって、そんな瑞稀の肩は細かった。こんなに華奢だったのか、と驚いてしまうほど。
「ごめんね、」
「っ、」
「僕も・・・・・僕も、君が好きなんだ、」
「!」
瑞稀の声は、震えていた。抱きしめているから彼の顔は見えないけれど、何かに苦しんでいる表情をしている気がした。涼真は一層力を強めて、瑞稀を離すまいと抱きしめる。
「今、好きって言いましたよね。何で謝るの」
「ごめん、」
「だから、何で謝るんすか」
「僕、男だし」
「オレも男っすよ」
「原田くんより9つも年上だし」
「そうっすね」
「女の子みたいにかわいくないよ」
「竜田さんかわいいよ、いろんな意味で」
「訳分からないこと言わないで、」
「オレが分かってるからいいじゃないっすか」
「ふふ、何それ」
涼真の耳元で、瑞稀が笑う。ようやく笑ってくれた、と涼真は心が満たされるのを感じた。
「オレが竜田さんが良いって思ってて、竜田さんもオレが良いって思ってるなら、それでいいじゃないっすか」
「そう・・・なのかな。それでいいのかな」
「それでいいっす」
「・・・うん」
涼真の背に、瑞稀の手がおずおずと回る。そして彼の細い指が、涼真の服を掴んだ。ぎゅう、と縋りつかれるように抱きしめ返され、涼真はひたすらに嬉しくなる。瑞稀が言うように、同性同士だとか歳の差だとか、たくさんの壁はあるだろう。けれど今抱きしめているこの温もりが、間違いだとは思わなかった。
「あ、てかすんません、傘・・・!」
しばらく無言で抱きしめ合っていた2人だったが、ふと雑踏が耳に戻ってきて我に返る。涼真は瑞稀からパッと手を離して、急いで傘を拾い上げた。だが時すでに遅し。2人は頭からつま先まで、ぐっしょりと濡れてしまっていた。瑞稀は前髪を掻き上げながら苦笑する。
「あはは、いいよ。たまにはこういうのも悪くないね」
「すんません、必死すぎて恥ずいっすわ・・・」
「ううん、嬉しかった。・・・ありがとう」
「・・・!」
瑞稀の眉が下がる。彼が嬉しい時に見せる表情だ。涼真は堪らなくなってまた彼を抱きしめそうになるが、すんでのところで耐えた。人通りがまばらとはいえ、街中だし雨の中だ。そろそろ本気で頭がおかしいと思われかねない。
「てか時間差でじわじわビックリしてるんすけど、竜田さんオレのこと好きって言ってくれたんすよね・・・!」
「え、う、うん・・・」
「ってことは、オレと竜田さんは恋人ってことでいいんですかね・・・!?」
「そう、かな。僕でよければ、よろしくね」
「・・・!はい!こちらこそ!!」
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