勝利の代償⁉


 ♠



 階層と階層の狭間はざまを渡る瞬間ってのは、何度経験しても慣れないものだ。

 距離としては薄紙一枚程度の短い距離を、たった一歩またぐだけで、それまで眼にしていた光景と、全く異なる世界が広がっているからだ。

 映画やマンガ、ゲームなんかじゃ良く見かける瞬間移動の映像トリックを、実際に自分の肉体で体験するのだ。

 この感動を忘れられない人間だけが、何度もダンジョンに足を運ぶのだと誰かが言ってた。


 オレたち2人と1匹は先を急いだ。

 一度逃げたとはいえ、あのヌエが追って来ないとは限らないからだ。

 ヤツは魔物だ。

 地上の野生動物とは違う。

 魔物というものは、異常なほど執着心が強く、執拗しつようで、ねちっこい。

 どんな手段を講じて報復して来るか分かったもんじゃない。

 それにヌエの血の効果は乾いたからといって消えはしない。

 一応、ミサキさんが浴びた返り血は、オレが出した水で洗い流したが、本格的にシャワーを浴びて石鹸で全身をくまなく洗わなければ、ヌエの毒は消えはしないのだ。

 その為にもダンジョンを速く抜けて、一階のロビーにたどり着かねばならない。


 ミサキさんが表層一階から深層二十階に飛ばされたポータルがどこにあるのか分からない以上、オレがここまで来たルートを逆に辿ってロビーまで戻らなければならなかった。

 オレは表層一階から三階にジャンプし、そこから六階へと下って、中層十五階まで一気に飛んだ。

 そこから深層二十階を目指して一階、一階渡って来たのだ。


〈それにしても良かった〉


 と、オレは心の底から安堵の息を漏らした。

 あの瞬間。

 ミサキさんのスーツが引き裂かれた、あの瞬間。

 ヌエの爪は確実にミサキさんの肉体を裂いたとオレは思った。

 ほぼ即死だと。

 だが違っていた。

 ヌエの長い鉤爪は、彼女の着ていた服は裂いたが、肌には触れていなかったのだ。

 念のために身体を見させて貰ったが、手の甲が若干腫れてるだけで、どこにも怪我らしい怪我は負っていない。

 まったく、なんて強運の持ち主なんだ。


 ヌエに襲われて命が助かっただけでも僥倖ぎょうこうなのに、そのうえ無傷だなんて。

 いや、そもそもダンジョンの深層二十階の大森林に飛ばされておいて、そこでオレに巡り会えた事が、まず最大の奇跡だ。

 宝くじの一等を、二回連続で当選するようなもんだ。

〈このひと、一生分の幸運を、このダンジョンで使い尽くしたんじゃないだろうか?〉




長谷川はせがわくん⋯⋯」




 前を先導するオレの背中にミサキさんが声を掛けた。

「痛い」

「え?」

「なんか身体が痛い」

 オレはドキッとした。

「やっぱり、どっか怪我を‼」

 恥ずかしがらずに全身を見せてくれてれば。




「そ、そうじゃなくて」




 オレのジャケットに袖を通した彼女が、いかにも疲れたようにうなだれながら、



「なんか、全身筋肉痛みたいで⋯⋯」



 と、青い息を吐いた。

 あぁ~、そういう事か。

 普段、運動らしい運動をしてない人が、いきなりあんな風に暴れまわりゃ、そりゃ筋肉痛にもなるよ。

「それに特に両手が、なんか電気が走るみたいにビリビリ痺れてて」

「ヌエを力いっぱい殴りましたからね」

 骨というヤツは一般に考えられてるより、遙かに固くてつよいものだ。

 一説によると健康な人間の骨は、同じ重量のコンクリートの三倍の強度を誇るんだとか。

 魔物の骨となれば、その比ではないだろう。

 しかも、相手は体重が400キロ近くあるデカブツだ。

 それを力いっぱい殴りつけたのだ。

 ミサキさんの両手が腫れ上がるのは、ある意味当然の成り行きだった。


 オレはミサキさんの手を取ると呪文を唱えた。

「それは?」

「魔法ですよ」

「魔法⁉」

 一般に、回復魔法とか治癒魔法と呼ばれてるヤツだ。

 オレは専業の回復屋ヒーラーじゃないが、自分の怪我やミサキさんの手の腫れを和らげる程度には、治癒魔法を使える。


「あ、なんか少し楽になった」


 ミサキさんの眼がキラキラと輝いて見える。

 よっぽど辛かったんだな、速く言ってくれりゃいいのに。

「ズルいな~、長谷川くんばかり」

「うん?」

「幾つも、幾つも魔法を持ってて。あたしなんて1つも持ってない」

「そりゃだって素人さんだから」

「いいな、いいな、あたしもそれが欲しい」

「欲しいって言われてもねえ」

「だって素敵じゃない、ダンジョンで怪我して困ってる人を、魔法を使って無限に助けられるんだよ」

「いや、無限って訳じゃ」

「違うの⁉ ツゥ⋯⋯」

 そう言った彼女が顔をしかめて片手で胸を押さえた。


「どうしました?」

「なんか、ちょっと胸が痛くなって」

「大丈夫⁉」

「ダイジョブ、ダイジョブ、平気、平気」

 そう言ってはいるけど、全身に凄い汗をかいてる。

 ここの気温もあるのだろうが、全身で痛みに耐えてるみたいだ。

「みせて」

「え⁉」

「みせて、胸を」

「いやよ‼ いきなり何を言い出すの長谷川くん」

 両手で胸を庇ったミサキさんが一歩後ずさった。

 なんか勘違いしてる~。


「そうじゃなくて患部を診せてって言ってるの」

「え、あ、そっち⁉」

「そっちです」

「でも、ほら知り合ったばかりの男女が、いきなり、そんな真似。ねえ」

「治療ですよ。触らないし、見もしません」

「触らないし、見もしない⁉ ホントに」

「ええ」

「ふ~ん、そうなんだ、それならいいや」

 あれ⁉

 なんか、ちょっと怒ってない。

 女心って分かんねえな~。

 オレはミサキさんの胸の前に右手を翳した。

 患部に傷があったり、病巣があったりすると、オレの手は自然とその箇所に吸い寄せられ、密着して魔力を注ぎ込むんだが⋯⋯。



「触ってるじゃない‼」



「仕方ないんですよ、そーゆー魔法なんですから」



「ウソをついたのね長谷川くん」



「嘘じゃありませんってば‼」



 あ~、これ胸骨に亀裂が入ってないか⁉

「痛い、痛いってば、そんなに押さないで⋯⋯」

「少し触れてるだけですって」

「ウソだ、力いっぱい押してるし、揉んでる」

「揉んでねえよ」

「親指と人差し指に力が入ってるじゃない」




 あ~、もう、このひとは。



 オレはミサキさんの額に左手を押し当てた。

「なに⁉」

「いいから黙って」

 出来たらコイツは使いたくないんだが。

「あれ、なんか痛みが⋯⋯」

 そう呟いたミサキさんの眼がトロンととろけた。

 オレは治癒魔法の応用で、エンドルフィンやドーパミンといった脳内麻薬を分泌ぶんぴつさせる事ができる。

 鎮痛作用がモルヒネの数倍とされるエンドルフィンを大量に分泌させる事で、ミサキさんの痛みを緩和かんわさせたのだ。

 ただね。

 これにも問題があって、やり過ぎると癖になっちゃうのよ。

 だからあまり使いたくなかったんだよな。


「なにこりぇ、しゅゴい気持ちがいい」

 ミサキさんは半分ラリったような声を出してうなだれてる。

 疲れもあるし、痛みもある。

 今日中にダンジョンを出たいが、こりゃ無理かな。

 それにオレ自身もかなりマズい状況だ。

 治癒魔法は体力を使う。

 患者の壊れた細胞に活力を与える為に、魔素に乗せて自分の生体エネルギーを大量に注ぎ込む為だ。

 冒険者チームにいる専門の回復屋がみんな太ってるのは、彼らの仕事が楽だからじゃない。

 そうしないと身体が保たないからだ。

 マズいな~。

 このままだとオレが先にダウンしちまう。

 どうすりゃいい。

 どうすりゃ。

 と、周りを見た時に、それに気づいた。

 ミサキさんの保冷バッグ。

 これの中にはエナジードリンクが入ってた筈だ。

「ミサキさん」

「にゃに~」

「エナジードリンク貰っていいですか?」

「ろうぞ~」

 彼女の保冷バッグを引き寄せると、中身を取り出して一気に飲み干した。




 お~、コイツは利く感じがするぞ。




 パッケージも何も印刷されてない銀無垢のアルミ缶に、効能が書かれてた。

 コイツ1本で1万キロカロリーもあるのかよ。

 こりゃ確かに冒険者用だ。

 地上じゃ絶対に売れない。

 だが、お陰でハンガーノックにならないで済む。

 それにミサキさん自身が、これを大量に飲んでる。

 体細胞に活力を与えるエネルギー源を、ミサキさん自身が大量に保有してる状態だ。

 これは大きい。

 彼女の全身の痛みは、これで何とかなる。

 だから問題は、もう1つの方だった。



 ♠



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る