ミサキさん狂乱す
♠
魔素の白煙を巻き上げながら疾走して来る虎柄模様の巨体は、まぎれもなくヌエだ。
パイクリートを破壊した⁉
まさか魔法でも使えるのか⁉
だとしたら予想以上に厄介なヤツだぞ。
オレは最大加速の印を刻んだ。
これを使うと二日はまともに歩けなくなるが、そんなこと構ってられるか。
「ちょっと恐い、恐いッ」
肩の上でミサキさんが悲鳴を上げた。
そりゃ、その体勢で時速100キロを超す急加速を体験すりゃ、悲鳴のひとつも上げたくなるよな。
「
お願いだから暴れないでくれ。
オレはミサキさんを振り落とさないように、両脚をガッシリと掴んで坂道を駆け上がった。
本当ならミサキさんにも、オレの身体のどこかを掴んでいて欲しい。
その方が安定するし安全だ。
それなのに、この人と来たら、両手でガッシリとオモチを抱えて放しゃしない。
スライムを手放すように声を掛けたいとこだが、大量の酸素と魔素を両脚に送り込む為に、オレの肺はフル稼働してる。
口を開く余裕がない。
それにだ。
背後から吹き上げてくる風に、濃い獣の臭いが混ざってる。
ヌエは、もうそこまで迫ってる。
ここで脚を緩める訳には⋯⋯。
「イヤっ、オモチーっ」
悲鳴のような金切り声を上げて、ミサキさんがオレの髪の毛を鷲掴みにした。
「痛いって、なんだよ」
ミサキさんを
この隙に、
「行くぞ」
「やだ‼ アァッ‼」
ミサキさんの悲痛な叫び声が、大森林を震わせた。
ヌエの巨大な両手が、顔に張り付いたオモチを
「オモチーッ‼」
駆け出したミサキさんを眼の端に捉えた瞬間、鋭い呼気を発して右手が閃き、彼女に迫ったヌエの鉤爪を斬り払っていたのだ。
オレの握ったナイフの切っ先からヌエの血が滴っている。
しまった。
考えるよりも先に身体が動いた。
〈マズいぞ。マズい。落ち着け、落ち着けよカズマ、落ち着け〉
高鳴る心臓の鼓動を
鏡を見なくても分かる。
自分がヒドく恐い顔をしている事が。
眉間に深い縦皺が刻まれ、両眼は血走り、牙をむいた野犬のような顔に違いない。
人には決して見せられない、醜い顔だ。
〈落ち着け。ダメだ、いまはその時じゃない。落ち着くんだカズマ‼〉
ヌエとは、
一番最後の書き方が、最も正確にヌエという生き物の本質を顕してようにオレは思う。
ヌエの血には毒がある。
それは人の精神に作用する毒で、ある感情を沸き立たせて、人の心をかき乱そうとするのだ。
その感情とは、
怒り。
人間は、様々な
怒穢。
まさしく人の心を怒りで
〈本当に嫌なヤツだ、醜いバケモノめ。クソっ、何でオレがこんな苦労を── よせ、ダメだ。術中にハマるな〉
ヌエの赤ら顔がせせら笑ってるように見える。
いや実際に笑ってるのか?
テメエ‼
そのニヤケ面に鋼鉄を叩き込んでやろうか‼
「よくも⋯⋯、よくもオモチを‼」
一気に距離を詰めたミサキさんの平手が、ヌエのニヤケた横っ面をしたたかに引っ
パァァァァァァァァンッ
と、いう弾けるような響きと共に、3メートルはあるヌエの巨体が斜めに傾いだ。
利いてる⁉
利いてるのか⁉
「いい加減にしてよね、いっつも、いっつもセクハラ紛いの嫌がらせして、今度はオモチまで‼」
ヌエの襟首を掴んで、もう一発。
今度はグーだ。
女のグーパンチだ‼
スゲエ、初めて見た。
って、感心してる場合か。
「さがって‼」
「邪魔しないで」
振り向いたミサキさんの瞳の色が変わってた。
ヌエの血の魔力せいで我を忘れてるんだ。
雄叫びを上げるや、唸りを上げた左右の拳が、火を噴く勢いでヌエの顔面を打ち抜いた。
目にも留まらぬメチャクチャな連打だ。
瞬く間にヌエの顔が腫れ上がり、皮膚が裂け、血飛沫が舞い散った。
〈マズいぞ。マズい。このままだと益々⋯⋯〉
「あっ‼」
一瞬の事だ。
ヌエがブルリと身体を震わせた瞬間、その大きな鉤爪が彼女を引き裂いたのだ。
「⋯⋯」
死んだ。
オレの目の前で彼女が死んだ。
わずかな迷いが
一瞬で目の前が真っ赤に染まった。
メキメキメキと音を立てて背骨が
オレの手の
頭に血が昇ってるぞ。
構うもんか。
逆上してるぞ。
構うもんか。
ここでお前が暴走すると、お前も死ぬ事になるぞ。
構うもんか‼‼
この醜いバケモノを、この場で八つ裂きにしてやる。
「ウラァァァァァァァァ」
オレが雄叫びを上げた瞬間。
ボロ布をまとったミサキさんが、矢の勢いで跳ね起きるなり、間合いを詰めた。
頭上高く振り上げた
なんで生きてんだ⁉
いや生きてて良いんだけど、なんで、あれで死なない⁉
はぁ⁉
訳が分からん。
ヒグマのそれのように長く鋭いヌエの鉤爪は、ミサキさんの身体を頭から股間まで引き裂いた筈だ。
それがなんで⁉
オレの
もはや人間の動きじゃない。
長い髪を振り乱し、両の拳をヌエの血で真っ赤に染め、濃い魔素の霧の中で哀れな獲物を
牙をむいたヌエの顎に、真下から跳ね上がったミサキさんの踵が深々と突き刺さると、オレの耳にも届く歪な音を立てて、太くて長い四本の牙が飛び散った。
ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁ⋯⋯。
悲鳴のような声を発し真後ろに跳んだヌエが、そのまま背中を向け走り去った。
勝った‼
助かったのか⁉
「待て、待て、コイツめ‼」
尚も追いすがろうとするミサキさんを、オレは羽交い締めにして引き留めた。
「もういい、もういいから」
「だってアイツが、アイツがあたしのオモチを、オモチを⋯⋯」
一気に声が潤んだミサキさんが、オレの胸に顔をうずめてしゃくりあげた。
さっきまで怒鳴り散らしてたかと思うと、今度はさめざめと泣き崩れてる。
胸の奥で渦巻く怒りに
速く全身に浴びた返り血を洗い流してやらないと──
と、思ってんだけど、この状況がなぁ。
スーツがズタボロに裂けた彼女が、インナーに着てるピンク色のボディスーツ姿でオレにすがりついているのだ。
正直、目のやり場に困る。
どこにやったら良いものかと、宙ぶらりんになってた両手を、そっと彼女の背中に回し⋯⋯。
「オモチ‼」
ドン
と、胸を突かれたオレは、たたらを踏んで尻餅をついた。
「あんた大丈夫だったの⁉」
ひざまずいたミサキさんの脚にすり寄る薄緑色のスライスが、オレに向かってニヤリと笑ってるような気がした。
オマエ、本当にスライムなのか?
♠
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