部長、なにしてるんですか⁉
♠
オレは思わず息を飲んだ。
ヌエだ。
「あれなに⁉」
大声を出しそうになったミサキさんの口を塞いで、ゆっくりと後退りしながら、その場を離れた。
〈振り向くなよ、頼むぞ。振り向くなよ⋯⋯〉
ゆっくりと、足音を立てずに、一歩、一歩、着実に距離を取ってようやくミサキさんの口から手を離した。
「なにするのよ」
「しっ‼」
指を立ててミサキさんを黙らせると、姿勢を低くして元の位置に戻った。
いる。
小高い丘の上に立ち、辺りを警戒するように見回してる。
「あれなに?」
小声でオレに問いかけて来たミサキさんに、
「ヌエです」
と、囁くように答えながら、オレの頭はブンブンと音を立てて回転していた。
オレ1人ならやり過ごすのは簡単だ。
でも、素人のミサキさんを連れてヌエをやり過ごせるのか⁉
この1ヶ月、一度も姿を見せなかったのに、なんだってこんなタイミングで⋯⋯。
いや、そんなもんだよな。
最悪の事態は、最悪のタイミングでやって来るもんだ。
「ヌエってなに?」
「ニッポン固有の魔物です。海外じゃドリンカーマンティコアなんて名前で呼ばれてる。人気の魔物なんですが」
「人気なの?」
「凄く」
このダンジョンは閉鎖かな。
少なくとも中層十階以降は、立ち入り制限を厳しくしないと人死にが出る事になる。
素人がヌエに出くわして助かる確率は極めて低い。
「行きましょう。ゆっくりと音を立てずに、足速に」
「倒さないの⁉」
いきなり何を言い出すんだ、この人は‼
「
「ええ、とても危険なね」
「だったら、ここでやっつけちゃえばいいじゃない」
「無理ですよ」
「無理って、長谷川くんでも?」
「オレでもです」
そもそもオレは戦闘向きの冒険者じゃない。
もし襲われても、オレ1人なら何とかなるが。
ミサキさんを守りながらヌエと戦うなんて無理に決まってる。
「さあ、行きますよ」
「なんか憎たらしい顔してるわアイツ」
ヌエのつるりとハゲ上がった赤ら顔を見ながらミサキさんが毒づいた。
「そうだ部長よ、部長に似てるのよ、アイツ」
「はいはい分かりましたから行きますよ」
「部長よ、部長。アイツ部長だわ」
「はいはい、あの個体はブチョーって名前にしますから、大声を出さないで」
ミサキさんの後ろ襟を掴んで、ズルズルと引きずるように、その場を離れたオレは、表情を改めてミサキさんを見た。
「ヌエは危険なんです」
「⋯⋯」
「ダンジョンの中でも、特に注意すべき魔物なんです。頭が良くて、身体は頑丈。見ても分かるように手足は──」
「トラね」
「え⁉ はい」
「身体はタヌキで、尻尾がヘビ」
「ええ、そうですね」
「で、頭がサル。っていうか部長」
「いや、そこはサルでしょう」
「だって、あのいっつも酔っ払ってるような赤ら顔は、部長そのものよ」
いや、オレ、ミサキさんとこの部長さんの顔知らねえし。
つーか、何でヌエの事を知ってんだ。
「弓矢で勝てるんだから、油断してる今なら
「いやいや、そーもいかないですよ」
平家物語に登場したヌエは、ダンジョンから抜け出し、魔素の無い地上をさまよい歩いて弱り切っていた。
それに対して、いま目の前にいるヌエは、ダンジョンで生活し、魔素の濃い空間で穫れた食料をタップリと食って元気一杯だ。
とてもじゃないが楽に倒せる相手じゃない。
ちなみに言えばダンジョンってのは、大昔からある。
恐らくは先史時代から存在し、当時の人間は、そのダンジョンから抜け出した魔物を見て、ドラゴンやミノタウロスのようなモンスターを想像したのだろう。
ダンジョンが正式に人類史に記されたのは19世紀のこと。
ドイツ人探検家のシュルツが、ユカタン半島のマヤ文明の遺跡で、最初のダンジョンの扉を開い事に始まる。
この時シュルツが『まるで
ドイツ人のシュルツが、本当にダンジョンなんて言葉を使ったかどうかは不明だが。
ダンジョン用語にドイツ語が多いのは、ダンジョンの発見者がドイツ人であり。
20世紀の中頃まで、ダンジョン探索といえばドイツが中心だったからた。
ダンジョン探索に国費の半分を費やす程だから、その勢いの凄まじさが分かると思う。
毎日のように新たな発見があり、一秒毎に先進技術が開発されてた感じだ。
いまはドイツに取って代わって、世界最大の市場規模を誇るアメリカが、ダンジョン探索を牽引してる。
その関係でダンジョン用語も、ドイツ語から、英語に置き換わりつつあった。
で、我が国ニッポンはどーかというと、ドイツ語と英語をごっちゃにして使ってる。
やっぱり字面かな。
カタカナで書いたドイツ語って、な~んか中二心を揺さぶるんだよな。
「憎たらしい顔してるわね、ホントにもう」
「行きますよミサキさん。終電を逃してもいいんですか?」
「仕方ないわね~、長谷川くんがそこまで言うなら、今回は見逃したげる」
「はいはい、ありがとうございます」
オレからオモチを受け取ったミサキさんが、ヌエに向かってあっかんべえしてる。
この
♠
「さっきから何を書いてるの?」
オレの横を歩いてるミサキさんが、オモチを抱えたままオレの手元を覗き込んだ。
「このダンジョンについての危険度とか、いろいろとね」
ダンジョンの危険度というのは、それぞれのダンジョンによって違う。
いまいるダンジョンは表層部の一階から五階まではAマイナスから、Aプラスに区分される。
危険度の低い、ハイキングコースのようなダンジョンだ。
中層部以降は一気に危険度が増してCクラスに分類されている。
ダンジョンのクラス分けは、Aマイナスを最低基準とし、A、Aプラスといった具合に危険度が増していく。
Aクラスのダンジョン探索が町中の散策なら、Bクラスのダンジョン探索は、登山、もしくはダイビングだ。
ダンジョンに行ったけど、道に迷って出られなくなった、なんてニュースを年に何度か眼にするだろう。
クラスがAらBに変わるだけで、ダンジョンの難易度が一気に跳ね上がるからだ。
一般人か普段着でやって来て、安全に快適に異世界気分を味わえるのは、Aマイナスのダンジョンぐらいだ。
Bクラスのダンジョンで、そんな真似をすれば、まず無事には済まない。
魔物にでも遭遇すれば、ほぼ確実に命を失う。
ちなみにBマイナスのダンジョンから、なかに入る為にライセンスの取得が必須となっている。
で、現状で最も危険ダンジョンはというと、Gプラスのダンジョンって事になる。
どのくらい危険かというと、銃弾が飛び交う地上で最も危険な戦場に、スッポンポンで放り出されるようなモノだ。
まず命がない。
そういったダンジョンには厳しく入場規制が掛けられており、国際A級ライセンスの取得者の中でも、特にスーパーライセンスを持つ、ダンジョンマスターと呼ばれる一握りの人間だけが入る事を許されていた。
オレ?
オレは行かないよ、あんなヤバい
絶対にヤダね。
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