第6話 星のない夜に
一晩中、風の吹き止まない夜だった。それなのに、その時間だけは不思議と静まり返っていた。よくよく注意を向ければ確かに音はそこかしこに零れている。
木々は風に揺さぶられて枝の先をざわざわ振り乱して揺れているし、遠くでは
しかし、どうしてか新雪の奥深い内部にいるよりも、ずっと静かだ。確かにあるはずの音が、ぱったりと途切れるかのように姿を消していた。
ジオはこれまで感じたことのない奇妙な静けさの中で思った。
まるで、どんな音も少年の言葉に
そう納得してしまうまでに、少年の語りは荘厳にして雄大だった。
内容もさることながら、抑揚の付け方一つをとっても、聞く者の全神経を引っ掴んで彼に吸い寄せてしまう。
ひょっとすると聴覚以外を忘れてしまったのではないか疑ってしまうほどだ。耳から入る声は、言葉として認識されるより先に直接脳みそに叩き込まれ、彼の話を食い入るように聞く他なかった。
ようやく喉仏の現れ出した細い喉を通り、声変わりも迎えていない幼い声に、そんな異様で暴力的な魔力が宿っていた。そこには、アンシュリーを超越したなにかが、彼を借りて存在していた。
それは、アンシュリーの小さな体を千切るような勢いで夜を駆けた。時に軽やかに手を叩き、時に猛々しく
少年の全身が儀式であり、伝統であり、物語だった。何光年の永遠を誇り高く生き続ける一等星を、あるいは連なり続ける遥かな山脈を思わせた。獣のような力強さと、凛とした気品を併せ持ったそれを、小さな少年は見事に体現してみせたのだ。
少年の未発達の体は、溢れんばかりの物語を抱きかかえ、それをしかと
誇り高い瞳は応えるように力強く輝きを放っていた。
一通り語り終えると、少年はしばらく沈黙した。そして、突如、これでもかと両腕を大きく広げて細腕で空気を鋭く裂き切った。激しく動き回っていたのに息のひとつも乱さずに、少年はまっすぐに前を向いていた。
虹色の瞳には月のない夜を物ともしない光が宿り、夜を圧倒していた。年齢に不釣り合いなほど険しく清廉な表情は、この動作がどれだけ重大な意味を持つのかを物語っていた。
どうしてか、その意味だけは一瞬で理解することができた。
ジオはゆっくりと唾を飲み込んだ。
世界から完全に切り離したのだ。さっきまで少年を介してこの世にあった、そう思えていた物語は、元あった場所へと還った。
物語は決して誰の物にもならない。
気が付くとアンシュリーの背に広がる空は白んでいた。夜が少しずつ端へ追いやられ、朝を迎えようとしている。
影だけだった木々は輪郭を思い出し、その枝から小鳥が群れになって飛んでいく。
まだ眠ったままの町と目覚め始めた活動、その境目でアンシュリーとジオは立っていた。夜は夜であることを忘れたままに眠りにつこうとしている。
アンシュリーは何も言わない青年を見上げた。
いつだって彼が語り終える頃には拍手の雨が降り注いだのだ。賞賛の声を聞くたび、アンシュリーは自分の使命を誇り高く胸に刻み、息巻く興奮を胸に押し込めてきた。
しかし、青年からの反応はない。語りをこんなにも静かに終えたことはいまだかつてない。
無意識に眉が弱弱しいハの字に下がる。
そのまま朝焼けを背に、まだ夜の中にいる青年を見つめた。
もしかすると分からなかったのかもしれない。
彼は文字を知らないと言っていた。そもそも今まで語り聞かせてきた相手はほとんどが優秀な学者や高等教育を受けた名家の子息だ。
自分から数字や文字を教えてほしいと言うから気に入ったけれど、つい先日まで奴隷だった彼には難しかったんだろう———。
「分かりにくかったよな、もっと分かりやすい言葉で」
言いかけてジオの顔を見た瞬間、アンシュリーは思わず気圧された。肌がにわかに粟立ち、風が表面をさらうだけで冷気が全身を駆け巡る。全身の毛穴から汗が噴き出した。
続けようとしていた言葉は吸い込んだ空気と共に霧散し消え果てていた。
そこには、かつてアンシュリーが見たことのない表情を浮かべた青年が立ち尽くしていた。
賞賛でも、批判でも、驚きでもない。何も持ちえなかった青年が浮かべていたのは、持て余すほどの衝動だった。
ジオは一言も発することなく、ただ小刻みに呼吸を繰り返していた。そして、ぎらぎらと輝く薄青い瞳を見開き、アンシュリーから一瞬だって目を離さなかった。
暗い地下牢に灯された一本の蝋燭のように、明々と燃え揺れた。夕焼け色の髪は見てわかるほど逆立っている。
無知な青年は、自分よりもずっと小さな姿をした物語を見上げて立ち尽くしていた。
その遥かな道行に、彼は何度も息を吸い込んでは耐えきれずに吐き出した。それに合わせて分厚い胸板が上下する。
両手を握りこぶしにし、アンシュリーはそんなジオを真正面から見つめ返した。向かい合わなければならないと思った。
心臓から熱い血液が力強く送り出されているのが分かる。指先まで鼓動が駆けている。
ジオの中では言葉が渦巻いていた。ジオが生涯で浴びてきた言葉のどれも、この感動を発露するには適当ではない。
しかし、とうとう抑え込めなくなって、生身の感情のままジオは叫んだ。
「俺は何も知らなかった!けれど知らなったことがうれしい!」
雑念のない清らかな声は夜を裂き、大きく響いた。そのあたたかな響きは、どんな賞賛よりも、どんな質問よりもアンシュリーの心臓を満たした。
「世界がそんなふうに始まったなんて知らなかった!神様がいたこと、島の外の人たちが一緒に暮らしていたこと、いや、アンシュリーさんが何者なのか!」
ジオは興奮して一息に叫んだ。
頬は血色で火照り、大きな目は輝いている。巨体に似合わない幼い顔立ちと相まって、彼は初めて走り出した小さな子どものようだった。
ジオは国民になってからの数週間、心が躍ることが何度もあった。市場に行ったこと、花を買ったこと、靴をはいたこと、夜更かしをしたこと、鎖を付けずに街を歩いたこと。
自分で選ぶ食事はおいしかったし、字は読めないけれど絵本をめくるのは楽しかった。
幸福と憧れを指折り数える日々だった。
それなのに、決定的に満たされないのだ。
わびしさは心に絶えず沈殿している。
自由を手に入れたことで、自分が何者でもなく、何も持ちえず、そして、自由を知らないことを突き付けられた。
いつか市場で出会った囚われの少年、あの言葉が、あの行動が、彼をそうたらしめた心こそ自由と呼ぶのではないか。
すとんと落ちて、ジオの心臓ははじけ飛びそうなほど高鳴った。
不安も何もかもを消し飛ばし、ただただ純粋な感動だけが心を満たし、他に何も入り込む余地はない。
身体が熱をもち、抱きしめなければ叫び出しそうだ。
それからはっと我に返り、何度も言葉を詰めながら罰が悪そうにうつむいた。
「それは俺が聴いてもいい話だったのかな。俺はきっと半分も理解できてないし、それに元奴隷だ」
「僕らは誰に何の物語を話すのかリリアナの名の元に決めている。僕は君に聴かせたいと思ったんだ」
アンシュリーは事も無げに言った。
「君が聞いちゃいけないなんて考えてるなら、僕の判断、引いてはリリアナを否定することになるんだからな」
それからいたずらっぽく笑って口元に人差し指を押し当てた。急カーブを描いて上がった口角は、アンシュリーを年相応に小生意気に見せた。
「ちなみにガリオネには語ってないから内緒だぞ」
「なんで」
「僕らは僕ら自身の純粋な意志やリリーに背いてはいけない。話すべきでない人に話してはならないんだ。さもないと」
「さもないと?」
アンシュリーは冷水を浴びせられたかのようにハッとして、なんでもない、と言った。
さっきまで機嫌良さそうに話していたのに、突然しぼむ様に温度が消えてしまった。
不安そうに揺れた瞳のゆらめきに、ジオは敏感に気が付いたが、あえて何も言わなかった。
「アンシュリーさん、ありがとう。掃除しとくから休みなよ」
ジオはアンシュリーの返事を待たずに竹箒と雑巾を拾い上げると、慣れた手つきで掃除を始めた。石板の中心からせわしなく箒で掃き、あるかないか分からないような細かいゴミを掻き出すと、四つん這いになって特に汚れた場所をこすりだした。
アンシュリーが掃除しても大して変わらなかった盤が、みるみる綺麗になっていく。
大きな体を折り曲げて無心に這いつくばる姿は、自分よりも小さな子どものように見えた。彼が幼かった頃、ひょっとすると僕よりも小さい頃から、何度もこうしてきたのだろうか。
アンシュリーは手際よく掃除をするジオを見ながらすごすごと小石を拾い出した。
「明日も罰掃除だから来なよ。数字教えるから」
ジオは肩越しに彼を振り向いた。
その時、朝を迎えようと移ろい始めた東の空に、一筋の眩い影が飛び込むのが見えた。
朝に向かって真っ直ぐに抜けていった一点。
「流れ星」
ジオが零したのを聞き、アンシュリーは地面から顔を上げた。
そこには、ただ、清々しい早天の空が広がっているだけだった。
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