第9話・優しさに応えるために


 ロザリンドの館から三十分ほど馬に揺られると、空の青を映した美しい湖と、その周りを彩る色とりどりの花が目の前に広がった。

 湖には水鳥が羽根を休め、湖を囲む草花や木々には小動物や小鳥の姿があった。

 しかも、人間が近づいても恐れずに、むしろ逆に近寄って来て、アリアが手を伸ばしても優しく体に触れさせてくれた。

 フレルデントの美しい景色に、生き物の多さに、アリアは感動した。


「喜んでもらえて良かったよ」


 そう言ったリカルドは、優しい笑みを浮かべ、アリアを見つめていた。

 アリアは筆談用のノートを取り出すと、ゆっくりと想いを綴る。


『リカルド王子、今日はロザリンド様の元へ連れて行って治療を受けさせてくださり、そしてこんなに素敵な場所に連れてきていただき、ありがとうございます』


「どういたしまして。君が気に入ってくれたのなら、嬉しい。喉の治療の事は……僕に出来る事なら、何だってしてあげたいんだ。でも、それに対して、君は何も気にしなくてもいいんだよ」


 なんて優しい人なのだろう、とアリアは目を潤ませながらリカルドを見上げた。

 同じ一国の王子としても、婚約者だったディスタルとは優しさの器が大違いだった。

 それともあの冷たいだけでしかなかった元婚約者は、自分以外の人間には優しかったのだろうか。


「アリア? どうかした?」


 アリアはノートに、続きを綴った。


『優しいお言葉、ありがとうございます。だけど私は、あなたに謝らなければならない事があるのです……』


「謝る事? 何か……あったかな?」


『あのパーティーでの事です……。ウクブレスト王国にリカルド王子をお迎えし、歓迎するはずだったパーティーで、私は歌う事ができませんでした。私が至らぬばかりに、申し訳ありませんでした……』


 謝罪を綴ったノートをリカルドに見せ、彼がそれを読み終わったのを確認すると、アリアは彼に深々と頭を下げた。

 はぁ、とリカルドが息をつく。

 謝罪が遅かった事に呆れられているのかもしれないと思いながら黙って頭を下げ続けていると、


「君は何も悪くないだろう」


 という言葉が耳に届いた。

 ゆっくりと体を起こすと、リカルドは困った顔で、無理矢理笑おうとしているようだった。


「君が謝るのなら……僕も謝らなくてはいけない……。あの日、君の様子がおかしいと一目見てわかったのに、あいつを……ディスタルを止める事ができなかった……。あの時、僕が何か口を出せば、ディスタルがもっと君に辛く当たるのではないかと思い、足踏みしてしまったんだ。だけど、何を言われようと、何が起ころうが、僕は君を庇うべきだったんだ……本当にすまない。どうか僕を、許してほしい」


 アリアはリカルドのその気持ちだけで充分だと思った。


『あなたは何も悪くありません。だから、謝らないでください』


 ノートにそう書き込んで見せると、彼は緑の目を少し潤ませながら、アリアに礼を言った。


「ねえ、アリア……。お願いがあるんだ」


『何ですか? 私にできる事でしたら、なんでもおっしゃってください』


「君の喉が治って、声が出せるようになったら……。僕に君の歌を聴かせてくれないだろうか?」


 驚くアリアに、リカルドは笑みを浮かべ、続ける。


「僕はね、アリア……。実は、君の歌のファンなんだ。だから……君の喉が治って声が出るようになったら……」


 リカルドにファンだと言われアリアは驚いたが、もちろんですと、笑顔で頷いた。






「じゃあね、アリア。ゆっくり体を休めるんだよ」


 リカルドはアリアをダーフィル公爵家まで送ってくれた。

 丁寧にブライトから降ろされたアリアは、リカルドに深く頭を下げた。

 ありがとうございました、とたった一言のお礼さえ言えないのがじれったかった。


「アリア、大ばば様からの薬が届いたら、僕の大ばば様を信じて、それを飲み続けてほしい。きっと、良くなるから」


 こくりと頷き、アリアはノートにペンを走らせた。


『ありがとうございます。ロザリンド様に、よろしくお伝えください』


「あぁ、わかった。必ず伝えておくよ。では、お大事に。サリーナ、アリアをよろしく頼むよ」


「もちろんですわ、リカルド王子」


 リカルドはサリーナに頷くと、最後にアリアに優しく笑いかけて、ステファンと共に走り去った。

 二人の姿を見送るアリアに、


「二人とも、王宮に戻ったのだと思うわ」


 と、サリーナが言う。

 多分、まだ仕事が残っているらしかった。


「あぁ見えて、リカルド王子は、とても忙しい方なのよ。一緒にいる、ステファンもね」


 リカルドもステファンも、その忙しい中、自分のために時間を割いてくれたのだ。

 なんてありがたい事なのだろうとアリアは思う。

 この恩は、どうすれば返す事ができるだろう。


「もちろん、あなたが元気になる事が、一番のご恩返しよ」


 そう言ったサリーナに、アリアは頷いた。


『そうね。そうかもしれない』


 リカルドもステファンも、アリアのために動いてくれているのだ。

 それなら、二人への一番の恩返しは、アリア自身が元気になる事なのだろう。


『私、早く、元気になりたい』


 ノートにそう書いてサリーナに見せると、サリーナは嬉しそうに笑った。


「えぇ、そうね。それが一番だわ。アリアが前向きになってくれて、お姉ちゃんはとても嬉しい」


 サリーナにそう言われて、アリアは自分が久しぶりに前向きになっている事に気が付いた。

 あのパーティーの後から……正確にはそれよりもかなり前から、アリアは自分に自信を無くし、後ろ向きな考え方ばかりするようになっていた。


 ディスタルの婚約者でありながら、彼に相手にされないのは、きっと自分が至らないせいなのだろう。

 喉を潰されてしまったとはいえ、あのパーティーでの失態も、自分が至らないせいなのだ。

 自分の存在のせいで、両親や姉弟に迷惑がかかっているのではないだろうか……。

 アリアはそんな事ばかりを考えていた。


 だけど、アリアの事を気にかけてくれる人が、たくさん居た。

 アリアが元気になる事を望んで、優しく寄り添ってくれている人が、たくさん居たのだ。

 その人たちの優しい気持ちに応えるためにも、早く元気になりたいとアリアは心から思った。






 アリアたちがダーフィル公爵家に戻って一時間ほどした頃、ロザリンドの薬が届けられた。


『このお薬、とても甘い……』


「あら、そうなの? 良かったわね」


 ロザリンドが作ってくれた薬は、蜂蜜のように甘く、とても飲みやすいものだった。

 とろりとした蜜のような液体は、優しくアリアの痛む喉を包みこみ、痛みを和らげていく。

 まさしくアリアのためだけに作られたその薬に、彼女は感動し目を潤ませた。


 改めて、早く元気になりたい、と強く思った。


 そして、この喉が本当に良くなってまた歌を歌えるようになったら、リカルドの望み通りに歌いたいと、アリアは思った。


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