呪界曼荼羅
志村麦穂
1 呪海の楽土
呪われた樹海
1
真っ黒な眠りから、溺れるような吐き気で目を覚ました。意識がもうろうとしたまま繰り返しえずく。胃が震え、喉がひきつる。せりあがれども体内から吐き出されるものはなく、胃酸がひどい胸焼けとなって襲う。
意識を失くそうとする度に、頭痛がやってくる。脳が風船みたく膨張して、鼻や耳の穴から押し出されるようだ。顔じゅうの穴から粘液を垂れ流した。力の入らぬ体でもがき、掻き毟る。転々とのたうち、助けを求めて手を伸ばした。
数分にも数時間にも思える苦しみ。どのぐらいもがき続けていたのか。潮が引くように、徐々に吐き気と頭痛は収まっていった。
苦痛から解放され、虚脱した体でじっと這いつくばる。荒い呼吸を整え、垂れ流された体液の収まりを待つ。
平静さを取り戻して、ようやっと開きっぱなしの目に像が結ばれる。耳に音が帰ってくる。
はじめに目が認めたのは、天井を渡る梁と空に浮かぶ赤錆びた満月。朽ち堕ちた天井の穴から夜空が覗いていた。板葺きの屋根が年月で腐り、風雪に耐えかねて傾いだ柱。床の隅には鼠の糞が吹き溜まり、湿った床板には夜露に光る深緑の苔。
体が横たわっていたのは見知らぬ御堂のなかだった。
がらんとした堂内。一方にある扉は開け放たれ、外には黒々とした森が広がっている。目の届く場所には、この堂のほかに建物は見当たらない。もっとも木々に遮られて視界は狭い。
上体を引き上げて、堂内を見回す。
四本の柱が四面すべてに並ぶ、正方形の御堂。方三間といわれる形式で、平安後期に建立された阿弥陀堂によくみられるものだ。堂の中央には蓮の葉を模した高さ60糎ほどの台座――須弥壇がそなえつけられている。しかし、その場所に本来安置されるべき本尊の姿はなく、空の御堂と化している。
夜闇の陰影に加え、黴に腐敗と荒れ果てているせいで読み取りにくいが、扉のある面を除いた三方の壁面には壁画が描かれているらしい。かろうじて判別できる白い塗料が雲で、いくつかみられる染みのシルエットが人型を模していることがわかる。御堂という場所から考えて、仏を描いたものだろうか。
一通り観察が終わっても皆目見当がつかない。
この場所は一体どこなのか。
なぜ自分はここにいるのか。
そして、なにより重大な問題に思い至る。
ここにいる自分はだれなのか。
ずきり、と刺すように後頭部が痛んだ。触ってみると髪の隙間から指が濡れる。月明かりにかざすまでもなく血であるとわかった。こぶ状に丸く盛り上がり、皮膚が裂けている。頭痛と吐き気の原因は、後頭部を殴打されたことによる脳しんとうに違いない。
額に手を当て、落ち着けと自分に言い聞かせる。
幸い頭蓋骨が陥没しているということはなさそうだ。脳へのダメージは気になるが、次第に意識ははっきりしてきている。まだわずかに靄がかかっているけれど、思考することはできる。記憶の欠落も一過性のものかも知れない。時間が経てはきっと思い出せるはず。
恐慌に陥りそうな心を必死でなだめる。大丈夫だと、何度も何度も言い聞かせる。
そうだ、阿弥陀堂に関する知識は思い出せていた。記憶は失われたわけじゃない。今は現状を把握することが先決だ。
暗闇のなかでうずくまり、たっぷり数分かけて冷静さを呼び戻した。
鼻から深く息を吸い、十数秒かけて吐き出す。目を開ける。
飛び込んできた光景に、今さっきまで見逃していたものに、取り繕った平静は剥ぎ取られた。
雲が流れ、月明かりが堂内の暗がりを暴き出す。
おびただしい――床一面に広がり、壁面を濡らし、梁に飛沫をあげ、板目から床下に滴り落ちる――乾いていない黒い血だまり。一目でそれが血だとわかったのは、取り戻したはずの冷静さのせいだった。深呼吸で肺腑に送り込まれた空気。そこに混じる生の臭気に気が付いたのだ。河口の淀みに沈んでいるかのような、生臭さで堂内が満ち満ちている。二、三匹の鼠たちが、ひげをひくつかせ、床を舐める。丹念に、丹念に。
異様な、陰惨な場に呑まれたせいだろう。床に突き刺さったそれを、人間の前腕だと錯覚した。
尻もちをついたこちらに、鼠がしゅっ、と短く息を吐いて威嚇する。
それは道具だった。薪割用の手斧だ。ニスを塗られた白木作りの持ち手は、女性の肌のようにてらてらと月光になまめかしい。黒い刃先は血で濡れている。今しがた生き物に振り下ろされたばかりに思えた。
あたりにはそうした道具が、いくつも散らばっていた。
日曜大工で使うようなゴム製のハンマー。取り回しやすい充電式のコードレス電動のこぎり。金属も切断可能な万能ハサミ。そして、指先ほどの太さがある金属製の鎖。鎖は扉の柱に繋がっていて、もう一方の端には今はなにも繋がれていない。さきほどまで繋がれていたものは、どこにもいない。
道具たちはひとつ残らず血に濡れていた。柄は黒く染まり、チェーンには毛と肉片が絡んでいる。
犬小屋作りなんかに使われたのでないことだけははっきりしていた。
後頭部を打ち倒れていた自分と、血染めの道具たちを結びつけるのに、そう長い時間はかからなかった。
殺される。ここにいたら間違いなく死ぬ。
仏のいない伽藍洞で行われた、惨劇の痕跡。それを目の当たりにして冷静ぶっていられるほど、自分の心身は頑丈ではなかった。まして、自身すら喪失した状態なのだ。唯一できたことといえば、半狂乱で叫び回るのを抑えることぐらい。
口を塞ぎ、自ら喉を締め上げて、恐怖の絶叫に抵抗した。
ここでなにかを行った、だれかに聞かれてはいけない。道具は置きっぱなしだ、戻ってくるに違いない。今は片付けにいっているだけ。次はだれの番なのか。
体が鎖に繋がれていないのは、昏倒していたからだろう。既に仕留めた、起きるはずがないと油断したのか。なんにせよ、逃げる機会は今しかない。
生きる。死にたくない。
記憶がわからずとも、生物としての本能が体を突き動かした。
血だまりを踏まぬように回り込み、手斧を床から素早く引き抜く。床鳴りにすら怯えながら扉の隙間から外を伺う。虫と鼠のほかは静かなもので、風の無い森は光すら呑み込む底なしの淵にみえた。しかし、臆してはいられない。ここに留まれば死を待つばかり。
辺りに気配がないことを何度も確認してから御堂を飛び出した。
樹木の陰に入り込み、藪を掻き分けてひた進む。どちらに向かえばいいのか、どこに行けば助かるのか。何ひとつわからぬまま、めちゃくちゃに逃げ惑った。
持ち出した手斧で蔦を払い、羊歯を手折る。なにひとつわからぬ体ではあるけれど、きちんと靴は履いていた。ジーンズに薄手のマウンテンパーカーという格好。体中を草木で引っ掻かれるという事態は避けられた。木々の天蓋は月を覆い隠して、森を暗闇に沈める。なんども節くれた木の根につまずき、転倒を繰り返した。
体を突き動かした恐怖と生存欲求の本能は、振り返ることを許さなかった。前へ前へと生存圏を求め、どこかもわからぬ森を抜けようとした。何時間も彷徨っていたような気がする。何十キロも歩いた気がする。方々を迷わせ、からめとろうとするこの樹海こそが、自己を喪失する原因なのではないだろうかとすら考えた。
時間、方向の感覚がないまま、手探りで進んだ時間は、体感よりずっと短いのだろう。進んだ距離も蛇行して大して進んでいないかもしれない。
数時間にも、数日にも感じられた逃亡は、ふと視界の端に明りが現れたことで終わる。
遠くの方で微かに、橙色の明かりが揺れている。木々の隙間から光は点滅する。光源はどうやら近づいてきているらしい。とっさに樹木の陰に身を隠す。
狐狸の妖が見せる幻でなければ、ひとが辺りを照らす人工のものに違いない。
頭をよぎったのはふたつの可能性だった。
ひとつは助けがやってきた可能性。こんな山奥にひとりで来るとは考えにくい。姿が見えないことを心配した同行人が探しにやってきたのかもしれない。
もうひとつはあの御堂を血まみれにした犯人。捕まえていたはずの獲物がいなくなっていることに気付き、探しにきた可能性だってありうる。御堂から遠ざかっていたつもりで、円を描いて戻っていたのかもしれない。
木陰に潜んで手斧の存在を確かめた。小さな凶器だけが、自分で身を助けられる唯一の命綱だった。あまりにも心細く、体は自然と震えはじめる。手先が藪に触れ、葉擦れの音が辺りに広がった。
しまった、と思ったがすでに遅い。
光源の持ち主はこちらに気が付いた様子で、藪を掻き分ける音が近づいてくる。
どうする? どうすればいい?
いっそのこと、走って逃げるか。いや、暗いなか全力で逃げるなど自殺行為だ。この悪路だ、最悪の場合負傷して動くことすらできなくなる。
この手斧で不意をついて明かりを奪うか。逆光で相手の様子がうかがいしれない。体格や装備を把握していないのに接近するのは危険すぎる。そもそも敵と決まったわけでは……。
考えを巡らしている間に、何者かは数メートルの距離にまで接近している。飛び出せば斧をあてられる間合いだ。先手でやってしまうか、声を掛けるか、身を潜めて見つからないことを祈るか。
焦りと恐怖が思考を凍えさせていく。
息が切れる、心臓が喉をせり上がる。
もう近い。もう触れる距離だ。
どうする、やるのか、やるのか?
死にたくない。なにもわからぬまま死にたくない。
明かりの方向が、身を隠す樹木の陰から反対方向に向けられた刹那。右手に握り締めた斧を振り被った。
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