第2224話 挿話: 金愚

 わしの名前は金愚(キング)だ。

 土佐犬の7歳オス。

 体重90キロの、闘犬の横綱だった。

 この世に怖いものなどない。

 でかい土佐犬も、人間も、わしの前ではただの獲物。

 どこへ行っても、わしの顔を見ればみんな避けておった。


 最初の時から負けを知らず、ついに誰もわしに勝てなくなったので、殿堂入りとして引退した。

 しばらくは種犬として過ごしていたが、あまりわしの子は出来なかった。

 だから別な飼い主に引き取られ、東京に出てきた。


 新しい飼い主は西条正美。

 偉い人間だということは、雰囲気で分かる。

 闘犬としてわしが活躍していた時の飼い主もそうだった。

 臭いが似ているので、親戚なのかもしれない。

 わしにはどうでもいいことなのだが。


 とにかく優しい飼い主で、広い庭に快適な住処を作ってくれた。

 エサも美味いもので、分厚い肉をよく食わせてくれる。

 散歩もよう連れ出してくれる。

 よく庭で身体を撫でてくれ、温水で洗ってくれたりもする。


 しかし、先日見知らぬ人間がわしを連れ出した。






 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■






 5月の中旬の木曜日。

 早乙女から病院に連絡があり、相談したいことがあると言われた。

 問題が起きたわけではなく、俺に頼みごとがあるらしい。

 夜に家に来るように言った。


 6時半ごろに夕飯を食べていると、早乙女が来た。

 気安い奴なので、食事をしたまま話を聞く。


 「実は上司の西条さんが入院することになってな」

 「あの西条さんが! おい、どこが悪いんだ?」


 以前に子どもたちと一緒に釣りに連れて行ってくれた。

 非常に真面目で温厚な方で、しかも俺の親父との縁もあった方だ。

 あれからお会いしてはいないが、尊敬する方だった。


 「椎間板ヘルニアなんだよ。ちょっと重い症状で、今度手術をすることになったんだ」

 「そうなのか。うちの病院に来るか?」

 「いや、警察病院に行くつもりなんだ」

 「そうか、じゃあ、俺も時間を見て見舞いに行くよ」

 「ああ、ありがとう! 西条さんも喜ぶよ」


 西条さんの病気の相談ではないようだ。


 「それでな、一つ問題があって」

 「どうしたんだ?」

 「西城さんが大型犬を飼っているんだ」

 「大型犬?」

 「そう、土佐犬のオスなんだよ。何度か見ているんだが、体重は90キロあるらしい」

 「でかいな!」


 俺はすぐに、闘犬だった犬だと思った。

 そこまで育てるには、明白な目的があるだろう。

 早乙女も、闘犬だったと言った。


 「高知でもう敵なしの凄い犬だったらしいよ。お兄さんの犬だったそうだ。あまりにも強くて引退して、種犬になるはずだったんだけどね」

 「そうなのか」

 「でも、あまりそっちは駄目だったらしい。殺処分されるところを、話を聞いた西城さんが引き取ったんだ」

 「そうだったか」


 土佐犬のそれほどの犬を飼うのは相当な覚悟が必要だ。

 性質上、育て方は荒い。

 目の前の相手を敵として見るように育てられるので、飼い主以外には慣れない。

 新たな飼い主になるということは、最初は敵として見られてもおかしくない。

 西条さんはきっと、あの優しさで犬を引き受けたのに違いない。

 そして相当可愛がって面倒を見て、信頼関係を築いたのだろう。

 やはり立派な人だ。


 早乙女と共に、綺羅々の専横と戦おうとしていた人だ。

 それは、早乙女の父親と姉の死を、西条さんが哀れに思ったからに他ならない。

 自分の地位や職ばかりか命さえも危うくなることを知りながら、早乙女に味方し、一緒に綺羅々と戦おうとしていた。


 今更土佐犬ごとき、なんでもなかったのかもしれない。

 本当に優しい人なのだ。


 「それでな。西条さんが入院中に、うちでその犬を預かってもらえないかと言うんだ」

 「お前の家で?」

 「うん。やはり獰猛な犬だからね。西条さんの家族では無理だということなんだよ」

 「お前も無理だろう」

 「いや、俺は結構大丈夫なんだよ。その犬、ああ、金愚って言うんだけど、西条さんと一緒にエサをやったり撫でたりもしてる。雪野さんも怜花も久留守も会ってるし問題ない」

 「へぇー」


 まあ、早乙女も優しいからな。

 そういうのが分かる犬なのかも知れん。


 「お前は良くても、雪野さんも怜花や久留守は一緒に暮らすと分からんだろう」

 「うん、そうなんだけどね」

 「どうすんだよ?」

 「まあ、駄目なようなら、どこかに閉じこもってもらうよ。俺が何にしても必ず面倒を看る」

 「うーん」


 犬に与える部屋や場所は幾らでもある。

 だが、恐らく西条さんの入院は一ヶ月を超えるだろう。

 リハビリなどもあるものだ。

 でも、早乙女の優しい決意を尊重した。

 俺も出来るだけ協力しよう。


 「まあ、お前がそう言うんならな。ああ、狂犬病とかのワクチンは打ってるんだろうな?」

 「うん、西条さんが一通りね」


 状況の話は分かった。


 「それで俺に頼みたいことってなんだ?」

 「申し訳ないんだけど、移動を手伝ってもらいたいんだ」 

 「ああ、なるほど」

 「レンタカーでもいいんだけど、石神にも金愚を見てもらいたくてさ」

 「俺なんかが見てもしょうがねぇけどな。でもハマーを出そうか」

 「ほんとか!」

 「ああ、いつがいいんだ?」


 週末の土曜日と言われた。

 翌週から西条さんが入院する予定らしい。


 「良かった! これで石神がうちに来てくれても大丈夫だ」

 「なんだ?」

 「金愚は石神を見れば一遍で気に入るだろう?」

 「そんなこと分かるかよ!」

 「うちに来て石神を吠えるのはちょっとな。だから最初に会わせておきたかったんだ」

 「お前なぁ」 


 俺は笑って引き受けた。

 ヘンなことを考えてはいるが、早乙女は俺のためにと思ってくれている。

 それに、犬を連れて行って、早乙女の家族とのことも気になる。

 だから同行することにした。

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