第50話 疵

 「花岡、まいりました」

 入れという声に従い、花岡栞は院長室へ入った。

 「おう、座れ」

 ソファを進められ、そこへ腰掛ける。


 「どうだった、一週間の停職は?」

 「その節は、大変ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません」

 花岡は立ち上がり、深々と頭を下げた。


 「もう、戻ってはだめだぞ」

 蓼科はニヤニヤして言った。

 「そんな、人を刑務所を出た犯罪者のように言わないでください」

 花岡が蓼科の冗談に対して軽く返す。


 「え、だってお前は本当に犯罪者だろう?」

 「院長、お願いです。それ、本当に辛いので」

 器物破損に暴行傷害未遂、公務執行妨害。

 蓼科らの力で、器物損害だけの書類送検になり、示談成立ということでそれも無くなった。

 幸いにして、蓼科により徹底した緘口令が敷かれ、病院内で知るものはほとんどいない。


 「まあ、いい勉強だったな」

 「その一言で片付きますか」

 「あ? じゃあ、詳細に話し合うか?」

 「勘弁してください。私が間違ってました」


 「ああ、コーヒーでも飲むか。石神を呼んで、エスプレッソを煎れさせよう」

 花岡の身体が固まる。

 「なんだ、飲みたくないか。じゃあ普通のお茶を」

 「院長、まだ私は責められなければならないでしょうか」

 花岡の抗議に、蓼科は反応しない。

 辞職を考えるほどに悩んだことは知っている。

 実際、辞表が提出されたが、それを蓼科は受理しなかった。

 花岡栞も、蓼科文学院長という人間が、見た目に反して非常に優しい人物だと知っていた。



 「お前、石神のことが好きなんだろう」

 突然の蓼科の言葉に、花岡は絶句する。

 「院長、なにを……」

 搾り出すように言葉を紡ごうとする花岡を、蓼科はまたしても無視した。


 「何も隠さなくてもいい。誰が見たって、お前が惚れてるのは見え見えだ」

 花岡は何も言わない。

 「お前もなぁ、難儀な奴に惚れ込んだなぁ。あいつのことはよく分かっていると思うが、尋常な相手じゃねぇぞ」

 分かっている。だけど理屈で動ければどんなに楽か。


 「院長命令だ! 花岡栞、お前は石神と結婚しろ!」

 「ひゃい?」

 花岡は驚いて、思わずまた立ち上がってしまう。

 「安心しろ、石神の方は俺がなんとかするから」

 そう言われ、花岡は泣きそうな顔になった。

 「院長、そこまでにしてもらえませんか」

 搾り出すように言う花岡に、蓼科は笑い出した。


 「ああ、そうか、お前がそう言うのなら、ちょっと待つか」

 人の気持ちを、と思う花岡だったが、院長の真意は何となく分かった。


 「はい、院長がおっしゃるとおり、私は石神先生をお慕いしています」

 そう言い切った花岡の表情は明るかった。




 「やっと二日酔いから醒めたかよ。お前もいい加減面倒くさい女だったんだな」

 「はい、その通りだったようです」

 「正気に戻ったお前に、今度は本当に命令する! 紺野奈津江という女について、洗いざらい説明しろ!」

 恐ろしいほどの威圧を込めて、蓼科は迫った。

 「やはり、そのお話ですか」

 花岡は、覚悟を決めて、奈津江のことを蓼科に話し出した。




 「そうか、分かった。俺があの日観たものがすべて分かった」

 蓼科が何を分かったのか、花岡は知るすべもない。


 「ところで花岡、石神と寝たことはあるか?」

 「そ、そんなことは、一切ありません!!!」

 「ああ、言い方を間違えた」

 花岡は呆れ、院長を睨んだ。


 「お前は石神の裸を見たことがあるか?」

 言い直した蓼科の言葉は、先ほどと何も変わらないように思えた。

 花岡は混乱の極みにいた。


 「俺はあるんだよ」

 「エェー!」

 思わず叫ぶ花岡を、蓼科は手で制する。


 「お前、何か誤解してないか?」

 「だって院長が爆弾発言……」

 「お前なぁ、別に俺が石神と寝たわけじゃねぇぞ。ふざけんな」

 花岡は何とか落ち着こうとし、話の流れを理解した。

 

 「俺は若いからそんなことなねぇんだが、理事たちっていうのはジジィ共ばかりだからなぁ。いろいろと考えることが旧いんだよ」

 蓼科は理事会のことを掻い摘んで花岡に話す。

 「理事は外部の人間が多い。むしろ俺や石神のように、病院内で就任することが稀だ。理事の仕事は、政治だからな。実際に政治家相手や、傘下の病院またうちは上は東大病院だよな。そういう相手とのスムーズな遣り取りをするための理事が多い」


 「はぁ」

 「旧い、と言ったのは、何かと昭和的だということだ。料亭での会食や旅行に行くこともある。俺も石神もそういうのは嫌いなんだが、仕方なく付き合ってはいる」


 「話が逸れたが、一緒に熱海の温泉へ出掛けたことがある、という話だ。そこで一緒に風呂に入り、俺は石神の裸を見た」

 花岡は、まだ蓼科が何を話そうとしているのか分からない。

 「いや、別にあいつのサイズが尋常じゃない、という話じゃねぇから」

 「そんなこと、聞いてません!」

 花岡は赤くなって、少し微笑んでいた。

 何となく、ズボンの膨らみで分かってはいた。

 「あいつの身体は傷だらけだ」


 「……」


 「お前も多少は知っているようだな」

 学生時代、夏場などの薄着のときに、シャツがまくれたりして少しばかり見たことはある。

 腹部に大きな傷跡があった。心配になるほど深い傷だったと思う。

 「喧嘩三昧の奴だから、傷はあってもおかしくはねぇ。またガキの頃は病弱でしょっちゅう入院してたそうだしな」

 「聞いたことはあります」



 「あいつの身体には、三箇所の銃創があった」



 蓼科が何を言っているのか、咄嗟に理解できなかった。

 「銃で撃たれた経験がある、ということだよ」

 「!」

 「石神は俺たちと一緒に風呂に入るのを嫌がった。だから俺が見たのは偶然だ。朝方に酔い覚ましに行ったら、そこに石神がいた、というな。俺が入ると、観念したように一緒に話もした」

 「何の傷だったかお聞きになったんですか?」

 「いや、聞けなかった。石神が話したがらない話題だったのは当然分かったからな。裸を恥ずかしがるような奴じゃない。あの傷のことに触れて欲しくなかったんだろうよ」

 花岡は、その通りだと思った。見るも無残なあの腹部の傷だけでも、普通の人間はショックを受けるかもしれない。


 「紺野奈津江は見ていたのだろうか」

 「いいえ、そういう関係になる前に亡くなったと思います。奈津江は何でも私に話してくれましたから。もしも石神くんとそういうことになったのなら、きっと話してくれました」

 蓼科はしばらく考え込んだ。


 「そうか」

 そう蓼科は呟いた。


 「まったくもって、あいつの闇はまだまだ深いなぁ」

 「闇なんですか」

 「そうだとも。花岡、銃痕なんだぞ? この日本で一体何があれば、そんなものが出来ると思うんだ? しかも一発じゃない。俺がちょっと見ただけでも、何発も喰らっていた」


 花岡は黙る。

 蓼科の言う通りだ。普通ではありえない。恐ろしい理由がそこにあるようにも思える。


 「もしも、何かの事件に巻き込まれたのであれば、あいつは隠したりはしない。そうだろう。しかしあいつは隠している。だったら、それは闇なんだよ」

 「それでも……」

 「お前の気持ちは分からんでもない。でも」

 「それでも私は石神くんを信じています。石神くんを愛しています。たとえどんな悪魔だったとしても!」

 花岡の叫びを、蓼科は黙って聞いていた。




 「花岡、落ち着け。あいつがどんなに信頼できる奴なのか、どんなに良い奴なのか、どんなに愛されることが当然な奴なのか。俺はお前と同じだ。そう思っている。俺が闇と言ったのは、それがあいつをずっと苦しめているという意味だ」

 「院長……」

 「今日、お前から聞いた奈津江という女性、それが石神を縛り上げる呪いであることは確かだ。しかしそれだけではない、ということを言いたかったんだよ」

 「石神くん……」

 「だからな、花岡。お前は石神を救え。俺が最初に言ったことは冗談ではないんだ。お前が石神を変えられる女だと、俺が見込んだからだ」

 花岡は蓼科を見て、次の瞬間うずくまって嗚咽をもらす。


 「大丈夫だ。俺がついている。お前はその心を貫けばいいんだ。絶対に悪いようにはしない。だから泣くな。お前だけが頼りなんだからな」


 花岡は落ち着きをとりもどすと、蓼科に差し出された手を握る。


 「はい、私は絶対に石神くんを守ります。絶対です」

 「頼むぞ」






 花岡が出て行ってから、蓼科は呟く。

 「石神、お前は本当に愛される人間だな」


 「でもなぁ。俺にはまったく羨ましいとは思えねぇ。お前を慕うのは、お前の傷が無残だからなんだよ。優しい奴ほど、それをなんとかしたいと思ってしまう。まったく悲しいよなぁ、おい」


 蓼科は電話をとり、内線で一江を呼んだ。 

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