疲れた心に三色の彩りを

雪子

疲れた心に三色の彩りを

 日に日に疲れていく体を、まるで他人事のようにどこか俯瞰して捉えていた。

「疲れた…」

 時刻は午後8時。帰宅して手を洗い、動く気力もなくとりあえずストーブの前に座る。

 冬真っただ中の冷え切った空気が部屋の中まで侵食し、コートを脱いだ無防備な体を冷やしていく。ストーブがつくのを待つ時間が途方もなく長く感じた。

 毎日、気が遠くなるくらい忙しかった。仕事はやってもやってもわいてくる。定時までには終わりそうにない仕事を、何とか定時に間に合うようにがむしゃらにこなす。でも結局終わらなくて、その分の仕事は明日に回される。会社は残業をさせたがらないので、どんなに仕事が終わらなくても定時に帰そうとする。

 働き方改革とやらは、少なくとも私の会社では間違った方向に進んでいるような気がする。定時で帰れるのは魅力的だ。でも、定時で終わることを強制したところで仕事の量は変わらない。終わらなかった仕事は誰がこなすのか。それは明日の自分だ。今日の自分が明日の自分の首を絞めていく感覚に、閉塞感を覚える日々。間違いなく働いているはずなのに、どんなにやっても終わらない。

 まるで、雪かきのようだと思う。どんなに一生懸命やっても、次の日には無慈悲に積もっている雪。やってもやっても終わらない除雪作業。自然現象という途方もない大きな力は、逆らうことのできない会社という組織に重なって見える。

 その達成感のなさが、なおさら自分を苦しめる。根本的な問題を解決せずに、見かけを整えただけでは何も変わらないのに、お偉方はそれで満足しているのだから不思議だ。

 そうやってできたしわ寄せは、いつか一掃しなければならない。それが今日だった。定時を過ぎても会社を走り回り、仕事を片っ端から片づけた。でも、終わらなかった。

「あ、ついた」

 やっとストーブがついた。「ボー」というちょっとやる気のなさそうな低い音が、私の背中を温める。何も考えたくなかった。

「あちっ」

 ストーブがつくのが待ち遠しくて近づきすぎた。会社の制服が急激に高温になる。

「そろそろご飯作らないとな…」

 しばらくストーブの前で温まったあと、とりあえず口に出してみた。しかしやる気は全然わかなかった。


 だって、ものすごく疲れてるし。

 だって、冷蔵庫に食材全然入ってないし。

 だって、買い物に行く元気もないし。

 だって、料理考えるのもめんどくさいし。


 思いつく限りの言い訳を頭の中で並べてみる。

「でも、たっくんそろそろ帰ってくるしなぁ…」

 そうなのだ。そろそろ彼が帰ってくる。


 でも、たっくんにご飯作ってあげたいしなぁ。結婚したばっかだもん。

 でも、先週はたっくんが作ってくれたしなぁ。私もいいところ見せたいし。

 でも、たっくんも疲れてるだろうしなぁ。


 さっきの「だって」に対抗して、ご飯を作る理由を片っ端から並べてみる。

「作るか…」

 なけなしの力を振り絞って立ち上がる。

「お米予約しておいてよかった…」

 最近の炊飯器は便利だ。時間を設定しておけば丁度いい時間にお米を炊き上げてくれる。朝冷たい思いをしてお米を研いでおいてよかった。

 これだけでも救われるのだ。ご飯を作る気力がないときに、米を研がなければならないとなると重い腰がさらに重くなる。冬の米研ぎは、本当に辛い。キンキンに冷えた水が、指を赤く染めていくにつれて感覚が遠のいていく。毎回雪をつかんでいるみたいだ。

 今の時刻は午後8時15分。予約時間は午後8時30分。うん、丁度いい。

「ほんとに全然食材ないな」

 冷蔵庫を開けて、食材の少なさにため息が出る。

 ひき肉と卵、糸こんにゃく、ニラ、鮭フレークしか入ってなかった。何を作ろうか。なるべく手間のかからない簡単なもの…

「三色丼でいいか」

 冷蔵庫の前で6秒。思考時間は最小限に抑えて、今日の夕食は三色丼を作ることに決めた。炊きあがったご飯の上に、ひき肉そぼろと卵そぼろ、鮭フレークをのせるだけの簡単な料理。

「アチチ」

 ひき肉を炒め始めると油が飛んできた。調味料を入れる。みりんに醤油に酒に砂糖。生姜をするのが面倒なので今日はチューブで勘弁。本当はすりおろした方がおいしいって知ってるけど、今日は手を抜けるところはとことん抜こう。今日だけ、今日だけ。

「卵ー」

 つぎは卵。ボウルに卵を割って、砂糖とみりんとお醤油を入れる。たっくんは甘~い卵が好きなので気持ちお砂糖を多めに入れる。はい、あとは混ぜ混ぜするのみ。

 混ぜ混ぜした卵をフライパンに流し込む。フライパンに卵を注いだ時の、「シュー」という何とも言えない音を、何の感情もなく聞き流す。

 疲れている状態で料理をすると、自分でもびっくりするくらい目の前の食材に対する興味が失われる。おいしそうとか、何か食べたいとかそういう前向きな気持ちが、疲れによってそがれていく。何か食べなきゃ、何か作らなきゃ。そういう義務みたいな言葉が頭の中をぐるぐるする。

 そしてそんな自分に対する嫌悪感みたいなものが、心をじわじわ満たしていく。どうしてこんなにうまくいかないんだろう。どうしてもっと元気が出せないんだろう。

「ただいま~」

「あ、たっくんおかえり」

 玄関から彼の声がした。

「いい匂いがするね」

 彼はそう言って微笑み、洗面所に消えていった。

 炊きあがったことを知らせる炊飯器の音が、キッチンに響いた。

「わ、ふっくら」

 炊飯器を開けると、お米の優しい香りをまとった湯気が鼻の奥をくすぐった。

 その優しい香りに少し胸がつまる。どこか懐かしさを覚えさせるお米の香りが、すさんだ心の柔らかい部分をそっと撫でてくるようだった。

「あち、あち」

 炊けたばかりのご飯は、想像以上に熱い。かき混ぜるたびに、しゃもじを持った手が熱さで少しはねる。「シュワシュワ」という音が耳をかすめる。炊けたばかりのご飯からいつもこの音がするけど、何の音なんだろう。

「ひき肉…卵…最後に鮭フレークのっけて…」

 三色丼の完成だ。

 リビングに出来上がった三食丼を運ぶ。彼がスーツから着替え終わるまで待つことにした。

 椅子にどっしり座って背中を思いっきり預ける。

「もっと、ちゃんとしたご飯作れたらよかったのに」

 だめだ。とことん疲れている。沈んだ気分の矛先が自分に向いている。よくない。

「さっちゃん、お待たせ」

 部屋着に着替えた彼が自室から戻ってきた。

「うん。食べようか」

「いただきます」

「はい、いただきます」

 2人同時に箸を持った。

「あ、薬飲むの忘れてた」

 大きく一口開けて卵そぼろを頬張ろうとした彼が、直前で手を止めた。

 一方私は、卵そぼろをご飯とともに頬張る。うん、普通。強いて言えば甘い。甘く作ったので当然だが。

「気を取り直して」

 彼が薬を飲んで再び箸を持つ。大きく口を開けて一口。 

 その瞬間。

「…うまっ」

 ただ一言、彼がそう言った。

「…っ」

 胸が、きゅっとなった。嬉しいような泣きたいような不思議な感覚。

 おいしいと、過度に喜んでほしいわけではなかった。手抜きで作ったありあわせの料理。「おいしいおいしい」と評価されるような、たいそうな料理ではない。

 パパっと料理が作れるなんてすごいねと、ほめてほしいわけでもなかった。「疲れた、めんどくさい」なんてネガティブな気持ちで作った料理。そんな料理を、ほめてほしいなんておこがましいことは言えない。

 どんな言葉も態度も、今の疲れた心には響かないような気がしていた。

 だけど、まるで感動詞のように、まるで流れるように言った彼の「…うまっ」という素直な感情が、胸に突き刺さってきゅっとなった。

「…うん、おいしい」

 泣きたくなるようなのどの痛みを押し殺して、もう一度卵そぼろを口にする。

 素直においしかった。甘くて、しょっぱくて、とてもおいしい。ふっくらしたご飯が、頬張った瞬間に私を幸せな気分に引っ張ってくれる。ひき肉もおいしい。生姜の香りが食欲をそそる。これも甘じょっぱい。なんてご飯が進む味なんだ。甘じょっぱいって罪だ。

「…ああ、好きだなあ」

 あんなにすさんでいた心を、たった一言で柔らかくしてくれる彼が、とても好きだ。

「ん?さっちゃん何か言った?」

 「…うまっ」と言ったきり黙々と食べ進めていた彼が、顔をあげた。

「なんでもないよ」

 私はそっと微笑んでまた一口頬張る。

 私たちはそのまま黙々と三色丼を食べ進め、明日のお弁当に使おうと残しておいた分までおかわりして食べた。

 その日から私と彼は、疲れた日には三色丼を作るようになる。その名も「疲れた心に三色の彩り丼」。茶色に黄色に、ピンクの三色。あ、ご飯の白もあるから本当は四色か。まあ、その辺は目をつぶることにしよう。甘じょっぱさが、否が応なく食欲を掻き立てる。決め手は卵を甘めに作ること。疲れた心にエネルギーチャージだ。

「ごちそうさま」

「お粗末様でした」

 窓の外では、雪が静かに降っていた。


 

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