不幸中の災い
小狸
不幸中の災い
生きづらい。
本屋でさらっと小説の帯を見るたびに、そんな言葉を多く目にするようになった。
新刊の帯には、十冊に一冊は、『生きづらい私は』などと書かれている。挙句最近は、タイトルにまで『生きづらさ』を主張してくる物語がある始末である。そういうものを見るたびに、私の心に少しだけ
いや――この文だけを読むと誤解を招くやもしれない。
決して私は、生きづらい人々に対して反論をしたいという訳ではないのだ。コロナ禍以前から既に感じていたことだ。この世で求められている『普通』『あるべき姿』の理想の異常な高さには、
師事していた大学の教授も仰っていた。
近年の小説、特に
本題に戻そう。
生きづらい、という言葉を、最近よく目にするようになった。
無論私も、そういった小説を雰囲気だけで批評するようなことはしない。
それは、自称書評家ユーチューバーの辛口感想を信じ、読んだこともない小説のアマゾンレビューを星1つで送信するようなものである。
一応、あらかたは読んだ。
金額としては結構なものだったけれど、読書くらいしか趣味がないのである。問題はなかった。ハードカバーのものは近所のブックオフを利用した。作家先生方すみません。
そして統合的に、やはり不思議に思わざるを得なかった。
生きづらい、とそう思う側は別に良い。
しかし、最近、溢れすぎていると思わないだろうか。
正直驚きである。
本屋大賞のランキングの上を
小説の傾向は、世相を表しているのかもしれないわね、と、大学の教授が仰っていたことを思い出した。
苦心と苦悩――それを乗り越える覚悟。
否。
それを乗り越えなければ――幸せは手に入らないみたいな風潮が、私は我慢ならない。
努力も頑張りも、まあ凄いと思う。逆境の中で嵐のような現実に立ち向かい、そうして手に入れた成功は、成程美しいものだろう。
しかし――しかしだ。
辛い思いをしなければ、幸せになってはいけないのか。
社会を知らないお子様の台詞だ、と、大人たちは言う。実際そうだと思う。大学四年生の私は、未だアルバイト程度しか経験していない。根性論と精神論に脳を犯された大人たちからすれば、何を言っているのだこのクソガキはという感じだろう。
「でも、幸せってそんな等価交換みたいに手に入れるものじゃ、ないと思うんだよね」
目の前のベッドにいる父に対して、私はそう言う。しかし言ったところで、父がそれを認識しているかどうかは分からない。過労の結果自殺を図り、植物人間となっている。介護に明け暮れた母も夜逃げをし、別の男と結婚してしまった。
父は、明らかに辛い思いをしていた。
角度を変えれば、それは「頑張っていた」ということになろう。ただし娘の私の目からは、父のその姿を見て「頑張る」「努力する」みたいな表現はどうしても出来なかった。
今の時代程に、男性が弱くあることを許すような社会ではなかったから――当時の母は厳しかった。仕事をして、稼いできて、そんな父に対して厳しく当たった。
父は壊れた。
その結果、生と死の間で生きることになった。
ここで強く言いたいのは、父は辛い思いをしていたということだ。それでもいつまでも、それを乗り越えれば幸せになれると信じて、己の身を案じることなく頑張った。その結果、幸せになることができなかった。
だから、苛つくのだ。
生きづらい人間が、辛いことを乗り越えて幸せを得ているというのなら。
父はどうして、幸せになれなかったのか。
「あはは。そんなワケないだろ。オマエは、生きると死ぬが鏡映しみたいに思っているのか?」
隣に死神がいた。
白いカッターシャツを着た、中学校の時の学年主任に似ている男性だった。電子音よりも無機質な声で、私にそう言った。そっと――父の
別に私には、幽霊だとかこの世ならざるものが見える特殊能力などはない。けれど、その男の持つ非人間性と雰囲気で、死神だと直感させられた。
「……」
いや、きっと疲労と疲弊が、脳に幻覚を見せているのだろう。
「生きると死ぬって、逆じゃないの?」
「違うな。二十年も生きていてそんなことも分かっていないのか。死んだら終わりだ。生きていたら終わりも始まりもある。生死などと並列するから間違うのだ。言葉、言葉、言葉、人間はそういう下らないものに縛られ過ぎるよ。ぴったり反対なものなどないし、等価交換ではない」
「……幸せと辛さも、同じだっていいたいの?」
「オマエも自分でそう言っていたろう」
「……」
父から目を逸らしたかった。
しかし死神には、配慮や遠慮などというものは存在しない。
「等価交換ではない。辛い人のところにはもっと辛いことが起こるし、幸せな人のところにはもっと幸せが飛んでくる。不幸な人間は不幸なまま幸せになれないし、幸せな人間はそんな不幸などものともせずに幸せであり続ける。それがオマエらの大好きな現実だ」
「……」
ああ。成程。分かった。
私は、嫉妬していたのだ。
不幸から、幸せに変換することができた人を。
頑張って、成果を挙げることができた人を。
そういう人たちはいるのに、どうして私の父だけがこんな不幸になるのか――そう思って、小説や漫画にぶつかっていた。
いや。
でも。
「虚構に現実を求めて、一体どうする。作者がそのままの現実を書いたものなど、オマエは読むか。オマエは己の不快に、正当っぽい理由を付けて、ただ被害者ぶっているだけに過ぎない。幸せになれない理由を、誰かのせいにしているだけに過ぎない。そんなことをしても現実は何も変わらない。理不尽で不条理で、誰も救われず何もうまくいかない。オマエらの大好きな現実は、そういうものだ」
「うるさいッ!」
死神の頬をぶった。
質量として存在していないものと思っていたけれど、ちゃんと当たった感触があった。
私はいつの間にか泣いていた。
なぜだろう。
涙なんて、小学生の時にさんざん流して枯れたと思っていた。
「大人しく黙っていれば良かったの? 大人しく受け入れていれば良かったの? 誰かに相談すれば良かったの? 受け入れれば良かったの? 何もせず、にこにこしていれば良かったの? なんで、なんでそんなこと言うの! 黙っていれば相談しろって言うじゃん! 笑ってれば笑顔
少し離れたところで、私の言動を見ているもうひとりの私がいた。
病室の中だというのに、何を泣いているんだろう。
莫迦みたいだ。
死神は、興味なさそうに笑った。
「知らないな。オマエの人生だ。オマエの勝手に生きれば――」
「黙れッ!」
私の身体は、勝手に動いていた。ベッドを飛び越えて、そのまま死神の首を絞めた。まるでそんなことをするなんて、自分から動くなんて微塵も考えていなかったらしい。神などと名のつく癖に、人間のことなんて意外と理解していないのだ。
「お――オマエ」
「私の人生な訳があるか!」
人の首を持つのは初めてだった。死神だけれど。意外と細い首だった。血管と、骨の感触がある。非力な私でも、殺せてしまうくらいに。
こんなにも
「どこが! どこが私の人生だ! いつだって周りに迎合して、周りに合わせて、自分の意見なんて誰にも認めてもらえなかった! そこにいてもそこにいなくても同じなら、いない方がマシだって思うだろうが! いつ始まるんだよ! 私の人生は! いつ分かってもらえるんだよ! 私の気持ちは! お前に何かを理解してもらおうなんて思わない! 理解のために言葉は割かない! 何も理解できずに、何も分からないまま!」
ここで死ね。
きゅっと、死神の首に力を込める。
じたばたと、まるで人みたいに動く体躯を無理矢理抑えて、絞め続けた。
五分程経過すると、死神は動かなくなった。
よく見るとそれは、父の顔をしていた。
(了)
不幸中の災い 小狸 @segen_gen
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