だから僕はヘアピンを背負う

しーえー

第1話

 バスが急ブレーキを踏み、吊革が揺れる。慣性に耐え切れず寄りかかってきた老婆に、カズマは反射的に身を引いた。

 一瞬置いて、血の気が引いた。とっさのこととはいえ避けてしまった。老体がカズマの前を倒れてゆく。

 このままでは大怪我をさせてしまう。そんな焦燥感に駆られたところで、カズマの隣、赤いカチューシャで前髪を上げる少女が吊革から手を離し、老婆をキャッチした。

「あぁ、ありがひっ」

 歳のわりに幼い、少女の整った顔立ちを見上げた瞬間、老婆は短く空気を吸い込んだ。

 カチューシャの下。おでこに、真横一文字。大きな傷痕を見たからだ。

「あ、ごめんなさいね。ありがとう」

 取り繕うように言って、そそくさと距離を取っていった。

「……ごめん。望子(もちこ)」

 望子と呼ばれた少女は、カズマの言葉に小さく眉を曲げた。

「どうしてカズマが謝るの」

「僕が避けたから」

 俯きがちに謝る。カズマの前髪をまとめる赤いヘアピンが重力に従って垂れる。

 半分ほど色の剥げたそのヘアピンは、一目でわかるほどに形も歪んでおり、顔をブンブンと振ったらどこかに飛んで行ってしまいそうな頼りなさを感じさせる。

「カズマが避けたんじゃない。私がキャッチしたの」

 望子はつまらなさそうにカズマの言葉を否定した。

「それに、私は気にしてない。傷があってもなくても、私は何も変わらない。それがわからない人の言葉なんてどうでも良い」

 古い傷痕の下の、強い意志を秘めた大きな瞳。

 そのまなざしとぶつかったカズマの視線がふいとそれる。

 何も変わらない。そう言う彼女の目に宿る色は、明らかに昔と異なっていた。

 ぶおお、と、エンジンをふかす音が二人の間に響く。地域住民の足となっているであろうバスは、案外混雑しており、エンジンの重低音に負けない会話声があちらこちらから聞こえてくる。

「それにしても、カズマが全寮制の学校に進むなんて、思わなかったな」

 ポツリと呟く。

 それを言うなら望子の方こそ、とはさすがに口にしない。

 わざわざ全寮制の、しかも彼女の高い学力には明らかに釣り合わない学校を選んだのに、まさかついてくるとは思わなかった。

「一人暮らししてみたくて」

「相部屋しかない寮なのに?」

 カズマたちの通うことになる高校は、全寮制とは言っても、全員が同じ寮に住むわけではない。

 相部屋、一人部屋、学校に近かったり遠かったり、様々な形態の寮が点在しており、新入寮生はその中から希望の寮の面接を受け、合格した寮に入ることになってる。

「寮費が一番安かったから。それに、僕は一人部屋に入れてもらえることになってるし」

 カズマの言葉に、望子が白い目を向けた。

「『誰も寮生が住んでいない部屋』でしょ? 絶対何か裏があるよ」

「どうかな」

 とぼけつつ、カズマにも予感はあった。

 電話面接の際、寮長に一人部屋があるか尋ねた。

 その時に返ってきた答えが、「誰も寮生の住んでいない部屋はあります」である。「一人部屋がある」と言わないあたり、明らかに何かがある。

 多分、事故物件か何かで、心霊現象が起こるのではないか。そう予想している。

 信じていないとはいえ、幽霊は怖い。しかしそれでも、カズマの事情を鑑みると、生身の人間と相部屋になるよりは幾分マシであると考え、入寮を決意した。

 そうして会話している間に、目的のバス停についた。

「あとでさ、買い物行こうよ。私、サメのぬいぐるみ欲しい」

 運賃を支払いながら望子が言う。

 バス停からは路地に入って5分ほど歩くと、寮にはすぐにたどり着いた。

 市街地の中にたたずむ、くすんだ白の、コンクリートの二階建ての建物。ツタがあちこちに伝っており、全然手入れされていないのだろうことがすぐに分かった。

 前庭と思われる広場には雑草がボーボーに生えており、端の方にはソファやテレビ等粗大ごみが放置されている。

 近づいてみると、建物にヒビが数本走っており、これは大丈夫なのだろうかと心配になる。

 建物入口の『楠寮』の表札も、かなり古びており、一見してなんと書いてあるのかわからなかった。

「寮に着いたら誰かが案内してくれるって話だったけど……」

 玄関で二人キョロキョロと周囲の様子をうかがう。

 正面には連絡事項らしき文章がびっしりと書かれたホワイトボードと、その奥に自動販売機が二つ突っ立っている。

 右手下側にサビた下駄箱が並んでおり、上の窓の向こうには管理人室のような部屋が見えるが、記憶にある限りだとここは学生自治寮であり、管理人はいなかったはずである。

「こ、こんにちはー」

 すん、と望子が黙っているので、代わりに呼びかけてみる。大声を出したつもりだったが、思ったよりも細く、全然響かない。

 が、たまたま近くにいたのだろう。きゅっきゅっとスリッパと床の摩擦音を響かせながら、一人の男子生徒が駆け足で現れた。

「新入寮生っすか?」

「あ、はい。吉根一萬(よしね・かずま)です」

「祭望子(まつり・もちこ)です」

 カズマたちが名乗ると、

「どーもどーも、野田一九(のだ・いっきゅう)っす」

 と男子生徒も軽く頭を下げた。

 スポーツマンなのだろうか。ツンツンと張った短い髪の毛と、爽やかな雰囲気が印象的だ。

 額の傷痕が目についたのだろう。野田は一瞬目を丸くした。

 望子がわずかに顔をゆがめてそっぽを向く。

 と、

「なにその傷! カッケエ! いいなー! 俺、昔顔に傷が欲しいなって思ってナイフでほっぺ切ったんだけどわかる?」

 キラキラと目を輝かせると、自身の頬を指さして望子に向けた。

 一瞬呆気にとられた彼女は、野田の頬を一瞥して、「わかんないです」小さく笑った。

 口をぽかんと開けたまま、呼吸が止まった。目を疑うとは、まさにこういう事を言うのだろう。

 望子がカズマ以外に笑顔を見せている姿を、本当に久しぶりに見た。

「わかんないかー! あ、そうだ寮長呼ばなきゃだったな。チャイム後ろにあるから、それ押してみ」

 玄関の扉入る手前側にあったボタンを押す。ぴーんぽーん、と大きな音が鳴った。

「あ、そうそう俺も新入寮生なんだ。よろしく!」

 トイレトイレ、と大きな声で呟きながら慌ただしく右側の方へ帰って行った。

 入れ替わるように、先輩と思しき女子がぺたぺたという音とともに、あくび交じりに登場した。

 カズマは思わず二度見した。

 第一印象という言葉を知らないのだろうか。新入寮生を迎えるとは思えない、だぼだぼのジャージと、寝癖でぼさぼさ頭。全く愛想のない無表情。

 が、目を疑ったのはそこではない。

 暴力的とは、こういう事を言うのかと思った。

 なにしろ、これらのマイナス要素が、彼女に限っては全く働いていないのだ。

 整った目鼻立ち。白くて美しい肌。幼いような大人びているような、蠱惑的な雰囲気をまとう彼女は、明らかに寝起きなのだろうその姿ですら、絵になっていた。

「吉根君と祭さんだね。私は女子寮長の三星瞳(みほし・ひとみ)。よろしく」

「あ、うす。どうも……」

 言葉に詰まる。人間、あまりにも美しい存在を目の前にすると、声が出なくなるらしい。照れ隠しに首の後ろをさすって、視線を逸らす。

「ぐふっ」

 隣から、脇腹を肘で小突かれた。

「ちょっと放送かけるから待ってて」

 三星は眠そうに言って、玄関横の部屋に入ると、館内放送をかけた。

『モリヨシ。モリヨシ。祭さんが来たので至急玄関に来てください』

 十数秒後、「モリナガよ!」ドタドタと足音をかけ鳴らして、眼鏡をかけた女子が登場した。

「ちゃんとした名前で呼んでくれないと新入寮生たちからもモリヨシって呼ばれるようになっちゃうじゃない!」

「別にいいだろ名前なんて」

 三星は面倒くさそうに首に手を当てて言う。

「つうか、その新入寮生が目の前にいんだから、髪くらい整えたら?」

「アンタに言われたく……あっ」

 彼女はカズマたちの姿に気づくと、少しバツが悪そうにしながら、乱れた髪を整えた。

「守良清香(もりなが・さやか)です。こいつと同じ三年生。これからよろしく」

 両手を身体の前で組んで、ニッコリと笑む。

 カズマたちも各々名乗り、軽く頭を下げる。

「わたしが祭ちゃんのルームメイトになるの」

「どうも」

 先までの怒声が嘘のように愛想良くなる。

 一方、現在の望子は誰に対しても不愛想を貫いていた。傍から見ていて、守良の機嫌を損ねてしまわないかハラハラしてしまう。

「カズマ、またあとで」

 ひらひらと手を振って、望子は守良の後ろについていった。

「今日は男子寮長がいないから、吉根君は私が案内するね」

 返事を待たずに三星が歩き出すので、カズマは慌てて靴を脱いで後ろについていった。

 歩きながら考えてみる。寮暮らしではあるが、一人部屋をあてがってもらえるわけで、実質的に、初めての一人暮らしである。

 自然と胸が高鳴った。

 実家でも自分の部屋はあるものの、鍵はかからないし、親も望子も平然と踏み込んでくるので、プライバシーなどないに等しかった。

「そうそう、吉根君。一つ忠告」

 寮内部の、外観に勝るとも劣らないボロさに目を取られていると、寮長から声をかけられた。

 嫌な予感に、汗が一筋流れる。

「この中で見たことは」

 ぴたりと足を止め、年季の入った金属の扉を指し示した。

「寮生以外には、誰にも言わないこと。学校にも、お友達にも」

 銀色の鈍い輝きを放つ鍵を渡される。

 ごくり、と、唾を一つ飲み込む。傷だらけの、ありふれたはずの扉が、不穏なものに見える。

 電話での入寮面接の際の、彼女の言葉を改めて思い出す。

『寮生の住んでいない部屋は、あるにはあります』

 鍵を開けて、ドアノブを握る。まだ四月の肌寒い空気に当てられてか、金属がひんやりと冷たい。

 この扉の先、吉と出るか凶と出るか。

 深く息を吐いて、吸って、手に力をこめ、扉を開けた。

 パァンッ! 乾いた破裂音が響いた。

「いらっしゃーい」

 20代前半くらいだろうか。若いが、高校生というには大人びたジャージ姿の女が、クラッカーをこちらに向けていた。

 大きな音と、あまりに予想外な出来事に、完全にカズマの思考が停止した。

 数秒間の沈黙。やっとの思いでカズマは振り返った。

「僕の部屋って、もしかして」

「ここ」

 再び部屋の中に目を移す。目の前には、やはり使い終わったクラッカーを手にした女がいる。

「寮生は住んでないんじゃ?」

「この人は寮生じゃないから」

 カズマの質問に、三星は悪びれるでもなく、涼しい顔で平然と言った。

 意味が理解できず訝しんでいると、「アタシは葉名朱(はな・あかね)」女の方が軽い調子自己紹介してきた。

「たしか吉根の担任だったはず。この寮に居候してんだ。よろしく」

「担任……学校の先生ってことですか?」

 振り返って、三星に向けて小学生みたいな確認をする。今のカズマには、そういうレベルで状況が掴めていなかった。

「そう。なんか、昔からここに住んでるんだって」

「この学校は先生も寮に住むんですか?」

「違うよ。アカネちゃんが勝手に住み着いてるだけ。寮生じゃない、ただの部外者」

「いや、意味が分からないんですけど。なんで住み着いてるんですか?」

「さぁ。それは知らない」

「知らないってそんな無責任な……」

「理由がどうであれ、吉根君には納得してもらうしかないから」

 他人事だからか、つまらなさそうに言う。

 改めて部屋の中に目を向ける。葉名は既に飽きたのか、クラッカーをそのままに部屋の奥でテレビのリモコンを手にしていた。

 幽霊のほうがマシだったな、と思った。

「アカネちゃん、あとはよろしくです」

「アカネちゃんはやめろ。案内とかダルイし三星頼むわ」

「……仕方ないですね。吉根君、寮の案内するから、荷物適当に置いて」

 キャリーを中に入れて、ようやく部屋の中を眺める。

 トイレも風呂もキッチンもない、八畳程度の部屋。左手に二段ベッドが、右手に学習机が二つ、所狭しと設置されている。多分これがデフォルトに設置されているものなのだろう。

 その隙間に、葉名の私物と思われるテレビ、ちゃぶ台、座椅子などが置かれている。部屋の上部に一本吊るされた紐に洗濯物がぶら下がっており、足元には脱ぎ捨てられた衣類が散らかっている。

 これから相部屋になる新入寮生を迎え入れる体制とはとても思えない。せめて最低限、下着の類は隠しておいて欲しい。嫌でも目がそちらへ行ってしまう。

「吉根、エロいこと考えてるな?」

 葉名はニヤニヤと笑みを浮かべて、あからさまに胸を隠しながら言う。

「そ、そんなことない、です」

 干されている地味な下着がかえって生活感を醸し出していて、顔が赤くなる。

 そもそも女子の生活空間に入るのなんて、小学生のころに望子の部屋で遊んでいたとき以来なのだ。耐性があるわけがない。

「まったく、思春期の男子はこれだから」

 思春期の男子が来ることはわかっていたのだから、きちんと掃除しておいてほしかった。

 文句の一つでもつけたくなるところをぐっとこらえて、カズマはキャリーを置いて部屋を出た。

「吉根君、カタカナのヨ、わかる?」

 馬鹿にされているのだろうかと思いつつ曖昧にうなずく。

「この寮はその形をしてて、私たちのいるここが真ん中の横棒。玄関がその付け根。上が男子フロアで、下が女子フロア」

 壁に指でヨを書いて、指さしながら示される。

 先ほど、野田は玄関から見て右側から来て帰って行った。なるほどそちらが男子フロアというわけだ。

「女子フロアの方は鍵がかかってて、基本的に男子禁制。女子が一人許可すれば普通に入れるけど」

「許可が下りるんですか?」

「人によるかな」

 あちこち塗装が剥げ、何か引きずった跡が残り、落書きがされて、ヒビや欠けている部分も多い寮内を歩き回る。

「風呂と洗濯機乾燥機は、真ん中の共同フロアにある。物干し場も奥にあるけど、そっちは使っても使わなくても良い。女子は部屋干ししてる人が多いかな」

「僕の部屋、共同フロアにあるんですか?」

「そう。もともと交流用の部屋だったんだよ。利用者が少なくて、実質物置になってたところに葉名先生が住み着いたんだって」

「なにしてんですか……」

「ちなみに炊事場とトイレは共同フロアにはないから、男子フロアの方に借りに行くことになると思う」

 一人部屋じゃないわ滅茶苦茶不便な生活を強いられることになったわで、散々だなと思った。

「こんなものかな。何か質問は?」

「質問ではないんですけど」

 少し逡巡して、言った。

「ありがとうございます。望子の傷について、驚かないでくださって」

「事前に君から連絡があったしね」

「守良先輩にも伝えてくださってたんですね」

「あー……ごめんそれは忘れてた」

 初対面時の、全く動揺した様子のない守良を思い出し、驚く。

 事前情報なしに望子を見て、傷に対して反応を示さない人など、今までほとんどいなかった。

 目を丸くするか、視線をそらすか、逆にじろじろと見るか。大体その三パターンだった。

 事実、先ほどの野田はできる限り悟られないよう気を付けていたようだが、一瞬目を丸くした。

 普通の人間は、どうしたって何かしらの反応は出てくるものだ。

「モリヨシはクソ真面目だから。まあ大丈夫だと思うよ」

 言って、三星は去って行った。

 背中を見送りながら、いい加減な人だなと思った。

「まあ、仕方ないか」

 ため息をついて、一人ごちる。完全に騙されたような形だが、入寮してしまった以上あとは対応するしかない。

 覚悟を決めて自室の扉を開いた。

 パァンッという破裂音に迎えられた。

「……なんですか」

 部屋の奥、ちゃぶ台の向こうで使い終えたクラッカーを片手に笑っている葉名へ尋ねる。

「歓迎をしようと思って」

「さっきもらいましたよ」

「歓迎は何回あっても嬉しいだろ?」

「そうですね」

 ツッコミを入れる気にもならず、適当に流して部屋に足を踏み入れた。

「そういうわけで歓迎会でもしようと思ってな」

 ちゃぶ台の上にショートケーキが二つ用意されていた。

「え、あ、……どうも」

 誕生日でもないのにケーキがあるという事実に戸惑う。

 どう反応したものかと一瞬迷ったが、素直に厚意に甘えることにした。

「酒は何にする?」

「未成年なんで」

「真面目だな」

 部屋を見回してみると、先ほどは気づかなかったが、隅の方で紙パック酒をはじめ、飲料の類が備蓄されていた。

 葉名はその中から緑茶の2Lペットボトルと紙コップをつまみ上げ、カズマの前に注いだ。

 葉名はクーラーボックスから缶ビールを取り出し、ぷしゅると栓を開けた。

 乾杯でもするのかな、と待っていたら、普通に葉名がケーキを食べ始めた。「い、いただきます」カズマも後を追うようにおずおずと食べ始めた。

「しかし吉根、男子で赤のヘアピンとは、かなりの攻めの姿勢だな」

 葉名がフォークを苺に突き刺して言う。

 まずそこに突っ込んでくるのかと、少し驚いた。

 寮に来てから誰も反応を示さないから、もしかして付け忘れたかと何度か触って確認したくらいだった。

 もっとも、望子と並んでいると基本的に皆望子の傷の方に反応するため、カズマのヘアピンがスルーされるのは中学生のころから変わらずという話ではあるのだが。

「LGBTに配慮してるんで」

「その手の話題はかなりセンシティブだから適当に引っ張り出さないほうがいいぞ」

「すみません。ただのオシャレです」

「ならそんな古ぼけたのじゃなくて買いなおせよ。色も大人しいのにしとけ」

「限りある資源を大切にするタイプなんですよ」

 葉名のツッコミを適当に流して、緑茶で口の中を整える。

「先生、なんで寮に住んでいるんですか」

「ま、いろいろ事情があってな。吉根はなんでこの寮を選んだんだ?」

「寮費が一番安かったので」

「わかる。アタシも現役時代は寮費の安さでここ選んだわ」

 フォークをひらひらと振って言う。

「先生、寮費払ってるんですか?」

「在校生だったころな。卒業してからはずっと払ってない。変な金の動きあったら学校にバレるし」

「卒業してからって……え、ずっと住んでるんですか? 大学生の間も?」

「大学で四年と教師になってから二年目だから、高校時代も合わせると九年目か。長いもんだな」

 他人事のように言うが、明らかに常軌を逸している。

「先生がここに住んでるのは、家賃が浮くからなんですか?」

「あぁ、それは違う。寮費は払ってないが、代わりにお前ら寮生に毎月賄賂渡してるから。普通にアパート借りたほうが安いまである」

「賄賂って……」

 そんな後ろ暗い話を堂々とするものなのか、と戸惑う。

「それって、もしかして寮生みんなグルってことになるわけですか」

「そうなるな。あ、守良だけは違うか。さっき玄関でキレてた奴な。あいつだけは頑として受け取らないんだよ。クソ真面目だから」

 なるほど、と、先の光景を思い出す。確かに真面目で融通が利かなさそうなタイプだった。

「ちなみに、先生がここに住み着いてることを学校に連絡したら、僕の一人部屋になります?」

「お前は別の寮に移ることになるだろうな。ここ共用部屋だし。あと多分、寮長に罰則が行くのと、アタシの首が飛ぶ」

「なんでそんなリスク背負って住んでるんですか……」

「ま、いろいろとあるんだよ。大人には」

 煙に巻くように言って、ビールをぐいっとあおる。

「それとおそらく、この寮の自治能力が疑われて、管理人が入って、寮費が上がることになるだろうな」

「……それは、困りますね」

「だろ? アタシを匿えばお前ら寮生は格安の寮費に加えて小遣いまでもらえるんだ。ウィンウィンだろ」

「セリフが完全に悪役のソレなんだよなあ」

 とはいえ、内容自体は一理あるのが釈然としないわけだが。

 そんなカズマのツッコミをスルーして、葉名はビールをあおる。

 空になったビール缶をテーブルに置くと、再びクーラーボックスを漁り始めた。

「あ、嘘炭酸水がねえ」

 葉名の舌打ち。財布を取り出すと、100円玉二枚をカズマの前に置いて言った。

「玄関に自販機あっただろ? 悪いが炭酸水買ってきてもらっていいか? おつりはやるから」

「いや、いらないですけど……」

 よっこらと身体を起こす。事情がどうあれ、現在ショートケーキをごちそうになっているのだ。玄関までの使い走りくらいなら対価として安いものだろう。

 廊下に出て扉を閉めた。

「カズマ」

 望子の声が響いた。

 驚いて顔を上げた。ちょうど共同フロアの案内に来たところなのだろう。守良とともにこちらへ向かってきていた。

 まずい、と、反射的にドアノブを背中に隠すように彼女へ向く。

 今更気づくとは、全く迂闊だった。これは非常にまずい。

 カズマに落ち度は一切ないのだが、それはそれとして、女性と同じ部屋に暮らしていると望子が知ったら、何をしでかすか分かったものではない。

「守良先輩に聞いたけど、カズマの部屋、本当に共用部にあるんだ。中はどう?」

「普通だよ。多分望子のと同じ」

「何か秘密はつかめた? 壁紙の裏にお札が貼ってあるとか」

「まだわかんないかな。それより風呂と洗濯場でしょ。僕もあんま案内されてないから、できれば一緒に回りたいかな」

 挙動不審になりつつ、強引に話題を入れ替える。

「そういえばカズマ君は三星に案内されてたんだっけ。あいつ適当だからなぁ」

 訝しむ望子を遮るように守良がため息をついて言った。

「いいよ。カズマ君も案内してあげる」

「ありがとうございます」

 頭を軽く下げ、守良の後ろについた。

「お風呂は右が男湯で左が女湯。基本的には夜の10時までに入るように。掃除は持ち回りで当番が来るから、忘れないように気を付けてね」

 そうして、三星が「あっちの方に風呂と洗濯場があるよ」と適当に済ませた案内を、守良とともに一つ一つ確認しながら見て回った。

「最低限知っておくべきことはこれくらいかな。ほかは、またおいおい教えてくよ。渡すものがあるから、望子ちゃんは先に部屋戻ってて」

 望子は素直にうなずいて「カズマ、また後で」女子フロアの方へ戻っていった。

 それを見送った守良は、カズマが止める間もなく扉を開けた。

 葉名が、せんべいをつまみにウイスキーを飲んでいた。

「……先生。今日新入生が入ってくるって言ったじゃないですか」

「だから準備しておいただろ。クラッカーを」

「そういうのは部屋の掃除が終わってからに決まっているでしょう!」

 ぱきっという軽い音とともに、せんべいが割れる。きっと破片が床に散らかった衣類に降りかかったことだろう。

「まったく。仮にもわたしたちを導く立場なんですから、もう少しまともな姿を……そもそもそれを言い出すとこの寮にいること自体がって話なんですけど」

 深くため息をつく。

「それで、カズマ君は、コレを見られたくないわけ? 望子ちゃんに」

「まぁ、はい」

 バレてしまっては仕方ない。観念して肯定する。

「時間の問題だと思うよ? 先生の存在は今度一年生集めて公表するし」

「それは、たしかに」

 その通りだ。問題の先送りでしかない。

「ま、そもそも悪いのは全部この不良教師なのよね」

「反面教師も教師だからな」

 コップのウイスキーを一気にあおって気分よさそうに言う。

「昼間っからお酒って……たまには部活に顔出してくださいよ」

「アタシがいたってなんも変わんないだろ。指導できるわけでもないし」

 それはそうですけど、と守良は口ごもる。

「ともかく! 部屋片づけてください!」

「明日で良いか?」

「今すぐ! 新しい住人を迎え入れる環境じゃないでしょう!」

 部屋にずかずかと入りこみ、片っ端からゴミ袋にぶち込み始める守良に、葉名はしぶしぶという感じで立ち上がった。

 それからしばらく、部屋の掃除が続いた。

 完全に蚊帳の外に置かれてしまったカズマ。

 手伝った方が良いのかな、と思ったが、何をしたら良いのかわからなかったし、平気で葉名の私服や下着類が落ちているので、手を出すに出せなかった。

 そうしてぼんやりと二人を眺めていると「カズマー?」後ろから望子の声が響いた。

 バシンっ、と慌てて扉を閉める。

「守良先輩全然帰ってこないんだけど、どこ行ったかわかる?」

「いや、知らない。知らない」

 中にいるとはとても言えず、とっさに嘘をついた。

「資料がどうのこうのって言ってたっけ」

「30分待ってるのに全然来ないから暇で暇で」

「そうなんだ」

 白々しく言いつつ、動悸の高まりを感じる。

 声の良く響く廊下だ。多分部屋の中まで聞こえてはいるだろうが、守良はともかく葉名は空気を読まずに喋ったりしそうな印象がある。

 そもそもこのままここにいては、また部屋の中を確認したがるかもしれない。

 何とかして彼女をここから引き離せないか。数瞬考えて、ひらめいた。

「望子、それなら先に買い出しに行こう。必要な書類なら後で渡してくれるだろうし」

 ベストは彼女を部屋に追い返すことだが、被害を最小限に抑えるならまずは彼女をここではないどこかに移動させることを考えるべきである。

 ならば、彼女と行動を共にしてでもまずはここから離れるのが最善手。そう判断して誘った。

 望子は、カズマの提案に一瞬目を丸くし、少し顔をほころばせた。

「そうかも。そうだね」

「財布は?」

「持ってきてるよ」

「なら行こうか」

 彼女に前を歩かせながら、ちらりと振り返る。

 扉の向こうで静かにしてくれている二人に、礼を言いたかったが、それはまた後にすることにしようと思った。

 スマホで近所の店舗事情を調べたところ、ホームセンターがあったので、そこへ行くことにした。

「知らない場所をこうやって歩くの、なんかいいね」

 どこか浮かれた様子の望子。

 カズマはそんな彼女の姿に安堵しつつ、胸に小さなささくれを感じた。

 幼馴染だからといってなんでも話すわけではない。しかし、嘘こそついていないものの、こうして隠し事をするのはやはり気が滅入った。

「旅行行きたいな。バイトして金貯めてさ、行こうよ。私18切符旅してみたいんだ」

「そう、だね。行きたいね」

 曖昧に同調する。

 10分くらいだろうか。グーグルマップを確認しながら歩き、ホームセンターにたどり着いた。

「見て見て、サメのぬいぐるみ」

 望子がとたとたと駆け寄っていく。イケアではないので、パチモンなのだろう。よくある話だ。

「カズマ、写真撮って」

 頬ずりとかキスしたぬいぐるみって確か処分するんだよなあと思いながら写真を撮る。彼女は満足げに買い物かごに入れた。買ってからやれば良いのにと思った。

 家具家電、調理器具や食器など必要最低限のものは寮にそろっているため、クッションなど、追加でほしいものと、ジュースやお菓子の類を購入して店を出た。

「ぱーちぃをしよう。入学祝」

 そういうのは自分たちでやるものではない気がしたが、「そうだね」とりあえず同意しておいた。

 寮の玄関に帰ってきた。ジュースで重たいビニール袋を一旦おいて、ふぅと深く息を吐く。

「荷物バラバラにしちゃったから、一回まとめるから待っ――」

 望子を置いていったん先に部屋に戻ろうと思ったら、玄関には脱ぎ捨てられた望子の靴だけが残っていた。

 一瞬、血の気が引く。

「あれ、開かない」

 望子はいつの間にかカズマの部屋の前で、ノブを手にががたがたと押したり引いたりしていた。

 鍵をかけた記憶はないので、多分内側から鍵をかけてくれていたのだろう。

 ほっと胸をなでおろす。

 たった今買ってきたスリッパを履いて、指定の靴箱にしまう。ついでに望子の靴もしまおうと思ったけれど、彼女の靴箱がどこなのかわからなかったので端にそっと寄せておいた。

「カズマ、鍵開けて」

「わかった。でも、荷物散らかしちゃったからちょっと待ってて」

 大きめの声で言う。中に誰もいなければよいが、もし先生と守良が中に残っていた場合に、聞こえていたら良いなぁという希望的観測だ。

「実家ではあんなに汚い部屋で平然としてたのに、今更何言ってんの」

 それを言われると、ぐうの音も出ない。

「いいからいいから。ほらジュース重いんだから、あんまり待たされると右腕がムキムキになっちゃう」

 すでに割とムキムキというか、なんならカズマより腕力が強いのだが、さすがにそのコメントは胸にしまった。

 これ以上引き留める手段も思いつかず、観念して鍵を開ける。

 望子はドアノブを捻って古びた扉特有の軋み音とともに勢いよく開けた。

「え、なんか生活感」

 望子の戸惑いの声。

 カズマは彼女の後ろから部屋を覗き込み、人の姿の見当たらないことにひとまずほっと息をついた。

「前の住人が残していったみたいで」

 テレビ、座椅子、ちゃぶ台とそろっているのだから、望子の反応も当然だった。

 酒類が見当たらないのは、さすがに守良の手によって片づけられたという事なのかもしれない。

「へ~、良かったじゃん。ていうか荷物そんなに散らかってなくない?」

 開けた覚えのないキャリーの口が開き、中身がいくつか床に落ちている。多分、先のカズマの言葉に反応して、急いで広げてくれたのだろう。

 そうなると、この部屋のどこかに隠れているのかもしれない。あまり望子にこの部屋を漁らせるわけにはいかない。

「そ、それより望子、パーティしよう。パーティ」

 一瞬怪訝そうにしながら、望子はそうだねと荷物を床に置いた。

 ジュースとお菓子を次々とちゃぶ台の上に乗せ、

「私たちの高校生活に乾杯」

 左手にペットボトルを持ち、ごん、と乾杯した。

 歩いて少し汗をかいたからか、望子は一気に半分ほど飲み干した。

「カズマ、部活どうする?」

 チョコレートの包装を開けながら尋ねてくる。

「特に考えてないかな。帰宅部でも別に」

「水泳部は?」

「いやあ、もういいかなあ。望子はどうするの」

 小学生のころ、カズマと望子は同じスイミングスクールに通い、毎日のように泳ぎまくっていた。

 が、中学に上がってからは、二人とも授業以外で泳ぐことは全くなくなった。

「カズマが帰宅部なら私もそれでいいや」

 チョコレートを一つ口に含んで、静かに言う。

「望子、歌うの好きだし合唱部とかいいんじゃない?」

「合唱より一人で歌う方が好きかなあ」

「それなら軽音部とかは? 高校生って感じだし、モテそうだし」

「カズマも入る?」

 望子の問いかけに、カズマはぐむ、と一瞬言葉に詰まった。

「いや、僕は……」

「なら私もいいや」

 望子は座椅子に身体を預け、天井を見上げた。

 彼女の額がカズマの視界から消える。

 相変わらず、望子は優しいなと思った。

 中学の頃もそうだった。居場所のないカズマを彼女は常に支えてくれた。

「……気を遣わなくていいんだよ」

 思わず、言葉に出ていた。はっと口をつぐむ。

 望子のチョコレートをつまむ手が止まる。

「なにそれ。私が善意でそうしていると思ってるの?」

 失言だった。

「私が優しいから、変わらず接していて、同じ学校に来て、同じ寮に住もうとしてると思ってるの?」

 彼女の眉が吊り上がる。

 カズマは反論の言葉を見つけられず、視線をそらして押し黙った。

「カズマ。右手出して」

「……」

「出して」

 彼女の怒り顔に気圧され、ちゃぶ台の下に隠していた右手を差し出す。

 望子は無造作に、その手を柔らかく握りしめた。

「ぐぁっっっ!!!」

 高圧電流を流されたような激痛が、カズマの右腕に走る。

 声を押し殺す余裕もなく、喉の奥から激しい声を上げて悶絶する。

 裂かれるような、あるいは押しつぶされるような、鋭利さと鈍重さの同居する苦痛に、脂汗が全身からにじむ。

「私は優しくない。だからこうやって、カズマを痛めつけることもできる」

 怒り顔は、いつの間にか温度を失っていた。

「じゃあ、なんで私は今ここにいるんだろうね」

 立ち上がり、彼女は部屋を出て行った。

「吉根。大丈夫か。何をされた」

 葉名がベッドの下からのそのそと出てきた。一部始終を見ていたのだろう。心配そうにカズマの右腕を観察する。

「何も、ないです。大丈夫。望子は悪くない。全部僕のせいなので」

 息絶え絶えに、伸びてくる葉名の手を制止する。

「それより、守良先輩は?」

「書類のこと忘れてたっつって部屋に帰った。ほら氷だ冷やせ」

 二段ベッドの上に押しやられたクーラーボックスから溶けかけの保冷剤を取り出して、右腕に押し当てる。

「ありがとうございます」

「気にするな。アタシはこれでも教師だ。一応」

 部屋の掃除は終わったんだな、と思ったが、良く見たらベッド下から衣類が見えかくれしている。とっさに押し込んだのだろう。

 それから数分間、深呼吸をしながら氷の冷たさに集中すると、だんだん痛みが引いてきた。

 ケガによる痛みではないので氷は意味がないと思っていたが、気をそらすという意味では存外悪くなかった。

「それで、何があったんだ? 話を聞いてる限り、お前らの間に過去何かがあったっぽいが」

 葉名の問いかけに、カズマは逡巡した。

 誤魔化すか、正直に話すか。

「……望子の顔、見ました?」

 今日会ったばかりの人にプライベート極まりない話をするのは気が引けた。が、こうして醜態を見られてしまった以上、今更だと思った。

「いや、あんま見えなかった」

「大きな傷痕があるんですよ。おでこに。僕のせいで」

 小学生のころ、雪見大福を一つ取られたというクソしょうもない理由でケンカをした。修学旅行先、水族館のイルカショーの会場での話だ。

 はずみで、階段の上から彼女を突き落としてしまった。右手で。

 彼女は大怪我を負い、顔にも数針縫うことになった。

 痛めつけてしまった事自体も相当にショックだったが、女子の顔に一生消えない傷をつけてしまったという事の重大さは、小学生でもわかった。

 しかし、望子は優しかった。お見舞いの時、暗い表情を浮かべるカズマに「気にしないで」と笑ってみせた。

 罪悪感と後悔と贖罪。ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情を口にしながら、カズマは彼女の傷痕に右手で触れた。

 右手に走る激痛に、わけもわからずのたうち回った。

 以来、カズマの右手は、故意にせよ偶発的にせよ、他人に触れることをトリガーに、なぜか激しく痛むようになった。

「そうか。……大変だったな」

 葉名がいたわるように言う。

「いえ。大変なのは望子なので。僕は何も」

「……」

 葉名は何か言いよどみ、少し目を伏せて、飲み込んだ。

「祭の方はお前を許してるんだろ?」

 無言で肯定する。

「が、お前は自分を許せていない、と」

 小さくうなずく。

 罪は、被害者の言葉によって左右されるべきではない。

 望子は許すと頑なに言い続けている。

 では、もしも望子が一生許さないと言った場合、罪が大きくなるのか。

 違う。自身の犯した罪は、望子に一生消えない傷を与えたこと。その罪の大きさに、望子の意思は関係ない。

 カズマはそう考えた。

 だから望子がどれだけ自分のことを許そうとも、カズマの中の罪悪感が薄まることはなかった。

「望子は逆に、僕のそういうところが許せないみたいで」

「別に、いいんじゃねえの」

 え、と顔を上げる。

「お前らは若いから、人間ちゃんと分かり合えると思っているみたいだけど、実際はそんなに綺麗じゃないんだよ」

 葉名は涼しい顔で言う。

「社会はな、みんな仮面をかぶることで成り立ってるんだよ。学校でのお前と、ここでのお前と、家でのお前は、違うだろ? 素の自分なんて、晒せるわけがないんだ」

 座椅子にもたれかかり、腕を組んで話す。

「だからお前は、自分を許せないお前自身を仮面の下に追いやればいいんだよ。少なくとも、祭の前ではな」

「それ、しんどくないです?」

「しんどいよ。自分を偽るのはかなり体力使う。うっかりボロが出るかもしれない。けど仲良くしていきたいならやるしかないだろ」

 座椅子の背もたれに力いっぱいもたれかかり、後ろ、窓の外を見やる。

 春の陽光が差しこんでいる。

「仲良く……別に、仲良くしたいわけじゃないんですけど」

 カズマの呟くような声に、葉名が目を瞬かせる。

「なんだ、違うのか。ならどうなりたいんだ?」

「離れたいというか……その、言葉を選ばず言うなら、関係を切りたいというか」

 しどろもどろに言葉を紡ぐ。我ながら酷いことを言っていると思い、自己嫌悪に沈む。

「ならこのままでいいだろ。これから三年間同じ寮に住むのは気まずいだろうが」

「違うんです。関係は終わらせたいけど、傷つけたいわけじゃないんです」

「……あー。円満離婚がしたいと」

 肘をついて顎を手に乗せ、嘆息する。

「結婚してないですけど……」

「ものの例えだ」

 目を細めて、冷たい視線をカズマに向ける。

「つまりお前は、まず祭の怒りを取り除いて一旦関係性を戻してから、あいつと自分の距離を広げていきたいってわけだな?」

「ざっくり言うと、まあ、はい」

「面倒くさい奴って言われたことないか?」

「自分ではよく思います」

 そもそも家族と望子以外で関わる人間がほとんどいなかったため、言われる機会がなかった。

 葉名の嘆息。

「そういうことなら結局、仲直りするしかないだろ。仮面被って謝ってこい」

「でも仮面、ふとした瞬間に外れそうじゃないですか?」

「さてはお前、二言目には言い訳をして動けなくなるタイプだな」

 じとっと冷たい目を向けたと思うと、葉名はおもむろに財布を開けた。

 小銭入れの中から、赤色のキーホルダーを取り出してテーブルに置く。

 角が二つ、釣りあがった目。屋台で見るような、鬼のお面を模したものだった。

「やるよ。アタシが以前やってた方法だ。仮面被るときは、これを握ってろ。その感触を条件にしろ」

 言われた通り右手に握りしめてみる。

 ひんやりとした感触。鬼の角の部分が掌に食い込む感覚。痛みは、意外と意識しやすいかもしれないなと思った。

「先生も、仮面を被ってたんですか?」

「あぁ。今もな」

 にやりと笑って、追い出された。


 今回のように、ケンカではなく、一方的に望子を激怒させたことが、過去に一度だけある。

 転落した望子が退院して数か月経った頃のことだった。

 額の傷痕を携えて登校する彼女は、当初は従来通り明るく、クラスの中心人物であった。

 前髪の陰からチラチラ見える傷痕を気にするクラスメイト達を笑い飛ばし、むしろ自分からネタにしていく豪胆さを見せつけた。

 その甲斐もあってか、次第にクラスメイト達も、従来通りに彼女と接するようになった。

 望子が変わったのは、一か月ほど経った頃だった。

 特に仲の良かった、いわゆるカースト最上位のクラスメイトたちと、全く喋らなくなった。

 異変はそこに留まらない。次第に彼女の会話しない範囲は広がってゆき、ものの数週間で、カズマ以外のクラスメイトとはほぼ口を利かなくなった。

 表情豊かだった彼女の口角はへの字に結ばれ、まるで急速に大人に変貌したように、落ち着いた声を出すようになった。

 休み時間は読書かカズマと遊ぶのみとなり、下校時も真っ先にカズマの席へ来るようになった。

 そして彼女は、傷痕を見せつけるように赤いカチューシャで前髪を持ち上げるようになった。

 人間関係に鈍感な当時のカズマも、これほどの急変にはさすがに嫌な汗が流れた。

「望子、何かあったの?」

 問いかけるタイミングが遅すぎただろうか。この時のことを、今でも後悔している。もっと早く気づけていたら、何かが変わっていたのだろうか。

「何もないよ」

 彼女の空虚な言葉は風船のようにふわふわと浮いて、手にとっても重さを感じなかった。

「無視されてるの?」

「私が無視してるの」

「ごめんね、僕のせいで」

「カズマは悪くないよ」

 ポンポンと彼女の言葉が跳ねる。

 どれだけ尋ねても、彼女は何も教えてくれなかった。だから最後に、一番伝えたかった言葉を投げた。

「僕なんかより、友達といたほうがいいんじゃない」

 これが、彼女の逆鱗に触れたらしい。

 泣いたり物を投げられたりということはなかった。ただ、一週間全く口を利いてもらえなくなった。

 登下校が別々になり、学校でも望子はずっと本を読み、カズマがどれだけ声をかけても全く反応を示さなかった。

 最終的に、謝り倒した果てに、彼女の赤いヘアピンをつける事を条件に許してもらえた。

 何故これほどまで怒り狂ったのかという事については、最後までわからずじまいだった。

 今でも定期的に当時の夢を見る。

 急速に笑みを失う望子と、何もできずに佇む自分。

 無力感と罪悪感で首が絞まり、酸素を求めて伸ばした手が、望子の背中を押す。そうして彼女の身体が投げ出されたところで、決まって目が覚める。

 目が覚めたカズマの手のひらには、彼女の背中の感触がいつまでも残っているのだ。


 寮を出て、とぼとぼと歩く。

 どうしたら望子に許してもらえるのか、正直なところわからない。

 小学生のころも、謝り倒したらヘアピンの条件付きで許されただけなので、結局のところ何が鍵だったのかわからなかった。

 ただ、あれから三年以上の間、考え続けてきた。自分と彼女の関係。怒り。贖罪。

 信号の向こうにコンビニを見つけた。ポケットの中でキーホルダーと、葉名から預かっていた200円がチャリンと金属音を奏でる。

 入店し、アイスコーナーで雪見大福を手に取る。

 現在のカズマと望子の根源は、ここにある。

 会計を済ませて、望子にラインした。

『寮の門のとこに来て』

 読んでくれなければ仕方ない。そう思っていたら、一瞬で既読がついた。

 寮の前、塀にもたれかかって待っていると、やがて望子が憮然とした様子でやってきた。

「何」

 ぶっきらぼうな声に、思わず身体が外を向きそうになる。

 が、ここで逃げ出しては全く意味がない。

 深く息を吐いて、吸って、後ろ手に隠していた雪見大福を差し出した。

「あげる」

「……一個だけ、もらう」

 望子は、カズマの隣にもたれかかった。

 しばらく、二人で黙って雪見大福を食べた。四月のアイスはさすがに肌寒いなと思った。

 カズマはポケットに右手を突っ込んで、キーホルダーに触れた。体温でほどほどにぬるくなったそれを握りしめ、角の感触を確かめる。

「ごめん。僕は、僕のことばかりだった」

 カズマの言葉に、望子は黙って耳を傾ける。

「望子の思いを勝手に決めて、全然望子のことを見てなかった」

 俯きそうになる顔を無理やり望子に向けた。目の上の痛々しい傷痕から目をそらさずに言う。

「だから、ごめん」

 望子はしばらくカズマの目を見つめ、やがてふっとそらした。

 青空を見上げて、呟くように言った。

「私も悪かった。痛かったでしょ」

「大丈夫。もう平気」

「そっか。なら、続きしよっか」

 え、と出そうになった声を押し込める。

 今部屋に戻れば葉名がいる。それは非常にまずい。

「ま、待って」

 歩き出した彼女を慌てて追いかける。

「? なんで?」

「や、その、えっと」

「……カズマ、やっぱり変」

 先の柔らかい表情から一転、再び望子の眉間にしわが寄る。

「寮に来てからなんかおかしい。部屋に何か隠してる?」

「な、ない。何にも」

「本当?」

 ポケットの中でキーホルダーを強く握る。

「……それは、」

 言葉が出てこない。ここで嘘をつくことは簡単だ。仮面もかぶっている。

 でも、「本当だよ」の一言が、喉につっかえて出てこない。

 そうしてふっと視線をそらした瞬間、望子が駆け出した。

 慌てて追いかける。結局止める間もなく、カズマが追いついた時には、すでに望子の手によって扉が開かれていた。

「………………………………カズマ。この人、誰」

 望子の顔からは、表情が消えていた。

 部屋の奥を見ると、座椅子でくつろぎながら「やっべ」とでも言いたげな苦笑いを浮かべてこちらを見てくる葉名がいた。

 なんで鍵を閉めておいてくれなかったんだと、頭を抱えたくなった。

「誰ですか、あなた」

 望子の声が、部屋の中へ向けられる。

「あー、この部屋の座敷童というか、居候というか」

「寮生ではないんですね?」

「そうだね」

 望子は躊躇した様子もなく、すちゃっとスマホを取り出した。

「望子待って」

 慌てて引き留めるカズマだが、今の彼女は聞く耳を持たない。

「警察って何番だっけ」

「待ってって」

「だって不法侵入でしょ?」

「そうだけど、この人は不審者じゃない。教師だよ」

「……は?」

 何を言っているんだ、とでも言いたげな目を向けられる。そのまま葉名を見やる。

「やあやあ。明日から君らの担任をする葉名朱……やっべ君らが同じクラスだってバラしちゃった」

 葉名がてへぺろと舌を出しておどける。

「じゃあ通報先は学校だね」

「そうだけどそうじゃない」

「ていうかこの人はいつからいるの? もしかして最初から?」

「…………うん」

 何か誤魔化そうと考えて、何も思いつかず、観念した。

 望子は何か言いたげに口をパクパクさせて、やがて、深くため息をついた。

「ハーゲンダッツ。一週間」

 冷たい目をカズマに向けてそれだけ言うと、視線を葉名の方に移した。

「どうして先生が、こんな学生寮に住んでるんですか」

「ごもっともな疑問で。別に大した理由はないんだけど」

「大した理由がないなら出て行ってください。カズマは一人部屋だと思ってここに来たんです」

「それは本当に申し訳ない」

「出て行かないなら本当に学校に通報しますよ」

 脅すように言って、再びスマホを構える。

「望子、落ち着いて」

「カズマだって一人部屋だと思ってここに来たのに、こんなわけわかんない人と相部屋なんて最悪でしょ」

「まぁ、それは」

 確かに言われてみると、カズマが止める義理はない。

 葉名がクビになるのも、三星にペナルティが行くのも、カズマにとっては関係のない話である。

 他の寮に移るのは面倒だし、寮費が上がるのは苦しい。が、この正体不明の教師と相部屋と比べると精神的安定感は段違いだろう。

 そう考えると、ここで学校に通報するのは、むしろメリットの方が大きいかもしれない。

「出て行くかどうか、あと五秒で決めてください。そうしなければ学校に通報しますよ」

 電話画面を掲げて、ごぉ、よん、とカウントダウンする。

「望子。待って。聞いて」

 カズマの口から、とっさに制止の言葉が出た。

 カズマの脳裏によぎったのは、先の葉名への借りだった。

 教師らしからぬアドバイスだったが、そのおかげで望子と仲直りできたのだ。その借りを返せていない。

 このまま静観を決め込むのは、カズマの倫理観が許さなかった。

「先生には、事情があるんだと思う」

「どんな?」

「わからない。きっと、言えない何かがあるんだよ。クビと天秤にかけても言えない理由が」

「……それは、そうかも」

 何か適当な理由をでっちあげて誤魔化そうかとも一瞬考えたが、思いつかなかった。ただ、カズマの事を信じてもらうしかないと思った。

「ルールを破っているのは先生の方だから、たしかに僕たちが匿う理由はないと思う。でも、積極的に突き出すのも、なんか違うと思う」

 言いくるめるようにまくし立てる。

「たしかに僕は期待を外されてがっかりした。先生がいなくなってくれたほうが嬉しい。だけど、それは、先生がこの寮に残っている理由を終わらせてからでも良いと思う」

 望子はカズマと葉名を見比べ、顎に手をやり、顔をしかめた。

 そうしてたっぷり数秒間の沈黙を挟み、

「……わかった」

 しぶしぶ、といった様子でスマホをしまった。

 何も解決していないが、ひとまずの危機は去った。ほっと胸をなでおろす。

「代わりに、私もこの部屋に住む」

「…………は?」

 呆気にとられるカズマに、望子が言葉を重ねた。

「この部屋に。住む」

「いや聞こえなかったわけじゃなく」

「若い男女が二人で同じ部屋に住むなんて、許せない。でも、カズマを私の部屋に住まわせるわけにもいかない。守良先輩がいるから」

「そういう問題?」

「だから、私がこの部屋に住む」

「いやいやいや」

 意味が分からない。若い男女二人が三人に増えただけである。何も問題解決に進んでいない。

 混乱するカズマに、望子が白い目を向けた。

「何かやましいことでもあるの?」

「そういう話じゃなくて。ここ二人部屋だし二段ベッド一つしかないし」

「いいよ。私は床で寝る。布団持ってくればどこでも同じでしょ」

「いやそうかもしれないけど先生はって何ニヤニヤしてるんですか」

「お前ら面白いな。アタシは全然いいよ」

 それでいいのか仮にも教師だろうあんた、と思ったが、あれよあれよという間に望子が荷物を持ってきてしまった。

「これからよろしく。カズマ」

 望子と離れるために全寮制の高校に来た結果、望子と同じ部屋に住むことになってしまった。

 どうしてこうなった。カズマはひっそりと頭を抱えるのだった。

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