Just-Ice ~明星注ぐ理想郷にて~

まきばのあさ。

第1章 ~秘書の激務編~

1.我が星よ、さようなら。

 ――大都会、東京。時刻は二三時を回ろうとしていた。それでもオフィス街では、まだ至る所から窓明かりが漏れ続ける。




 年季の入ったビルの一角。小さなオフィスには、ぽつんと一人。やつれた表情で佇む人影が一つ。

 彼女の名は氷見野玲奈。東京の大学を最近卒業したばかりの新入OLである。

 真面目な彼女は、そこそこの大学を難なく卒業した。そのままの流れで、そこそこの企業に就職するはずだった。それでも現実は残酷で、就職活動は難航する。そしてその結果、酷くブラックな労働環境に身を置くこととなった。

 デスクには無造作に折り重なった書類。その傍には栄養ドリンクの瓶とコーヒーの缶が転がる。キーボードを叩く音はふと静まった。自らの意志でそれを止めたというよりは、体からの救難信号に止むなく従ったといったところだろう。サービス残業に慣れた彼女は知っているのだ。自身の活動限界が二三時であるということを。

 「か……帰るか……」

 細々とした声を零す。マウスへ手を伸ばし、カーソルをシャットダウンのアイコンへと重ね合わせた。ノイロ-ゼになるほど見慣れた液晶画面が暗黒に包まれれば、転がった瓶と缶を集めて右手に積み重ねる。

 ガラス張りの入り口すぐ手前にあるスイッチを押すと、フロアは一瞬にして暗闇へ包まれた。逃げるように入り口を通り抜ける。扉の傍に設置されたカードリーダーに社員証をかざせば、扉は自動的に施錠された。

 「窓よし、電気よし。そして施錠よし。体調悪し、と」

 備え付けられた溢れんばかりのゴミ箱へ、右手のブツを放り込む。相当な勢いで放ったものなので、静まり返った廊下には相当な音が響き渡った。人目の無い所で蓄積したストレスを発散してしまうのは、人口の過密した東京に住まう社会人の性だろう。




 街灯が夜道をぼんやりと照らす。生まれ故郷よりは随分とましだが、東京でも一二月になればさすがに冷える。街灯の光にも月明かりにも温かみを感じられないのは、人間との関係が希薄な都会だからか、それとも自分が孤独に追い込まれているということなのだろうか。




 電車で数駅を越えてオフィス街を脱出し、帰路へと就いた。アパートの最寄りで降りた所には、昔ながらの繁華街が広がる。

 そしてそこは居酒屋を筆頭に、様々な店が疲弊した社会人を誘惑する魔境。無論、彼女もそのターゲットという訳である。

 玲奈は居酒屋の前で立ち止まった。入るか否か、ほんの少し迷いはした。それでも夜に吹く冷たい風は、彼女を直ぐに決断させた。

 「たまには……たまにはいいよね……! 金晩は死なない程度に潰れてもいいんだから」

明日は休日出勤の予定なのだが、今だけでもそれは忘れておこう。




 カウンター席に腰を下ろした。おしぼりとお通しが流れるように並べられるが、玲奈はそれに目もくれずに品書きへと直行する。財布に相談のもと、慎重に注文を決めた。

 「んーと、一番安い日本酒を熱燗で。あと枝豆を」

 「はいよ!」

 注文を終えれば、颯爽とスマホへ手を伸ばす。すかさずチェックするのは彼女の密かな趣味、ライトノベル。そう、彼女はいわゆるオタクという生き物なのだ。

 (魔法、悪役令嬢、異世界転生、ふむふむ)

 (び、びーえる……ダメだ。さすがにこれだけは手を出せない……もう戻ってこれなくなる……)

 「――へい姉ちゃん、おまち」

 「……あ、ども」

 オタク特有の豊かな想像力を働かせているうち、注文の品は迅速に届けられた。

 一人寂しく晩酌を嗜む。それでも、これしきで癒える疲労ではない。また数時間足らずであのオフィスに戻らなければならないと考えれば、より一層憂鬱になるばかりだ。

 (……もっといい企業に就職したかったなあ。在学中にせっかく秘書検定とったんだし、社長秘書やりたかったなぁ……楽そうだし) 




 しばし呑み進めれば、酔いもほんのりと回りだす。そのとき浮かばれない表情の消えない玲奈には、突如として声が掛けられた。

 「――ねえそこの姉ちゃん! これから俺らと遊ばねー?」

 声を掛けるというよりも、もはや下心丸出しなナンパを繰り出してきたのは、ちょうど背後の座敷席で酌み交わす三人組の男たちだった。髪を金色に染めた細身の者。ピアスからネックレスまで、至る所へ金属をぶら下げた者。目元まで隠れそうな黒髪で、妙に女ウケの良さそうな顔つきの者。きっとそこらの大学生だろう。リクルートスーツを身に纏う女に目を付けるとは、そこそこの物好きだ。

 そこそこ整った顔立ちと、そこそこのスタイルを生まれ持った彼女にとって、こういうことは何かと慣れっこだった。都会の飲み屋街はこういうもの、という心構えすらある。上京してからもう四年になる玲奈は、ここ一帯の店に面倒な輩が多いことを熟知しているのだ。

 彼女は横目でそれを見下すと、躊躇無く声にした。いや、声にしたというより、つい声に出してしまうのだ。

 「ぁんだよ話しかけんな豚肉どもが……焼き殺して共食いさせんぞ」

 入った酒は、必然と猛毒を宿した言霊へ。顔もスタイルもそこそこなのに、酒癖はあまりにも悪い。それが氷見野玲奈という女である。

 男たちは萎縮した、というより普通に引いてしまった。ここまで振り切った暴言を吐かれては、かえって口論にも発展しない。




 明日も仕事だというのに気持ちよく酔っ払ってしまった彼女は、勘定を済ませるとまた寒い帰路に就いた。冬の風に酔いを覚ましてもらいながら歩みを進めれば、少しずつ閑静な景観へ移り変わる。時刻は間もなく零時を迎える頃だ。

 いつもなら横切る公園にあえて立ち寄った。どっさりとベンチへ腰を下ろす。ふと空を見上げれば、微かに星が見えた。こういうものを見ると、ついつい黄昏れてしまうものである。

 「ああ……このまま会社にこき使われて。金にもならない残業で寿命を縮められて。そんであっという間に定年。私はそれでいいのかぁ……?」

 「いや待て。結婚して寿退社という幸せルートを掴み取れば……! あ、忘れてた。私は彼氏できたことすらない弱者女さんですよ……クソが」

 言葉にしても心は晴れない。少なくとも、沈黙を楽しむ方がまだましだった。夜の公園には形容しがたい魅力があるのだから。




 悲観に悲観を塗り重ねているうち、彼女はすっかり寒さに慣れてしまう。酒のせいもあってか、次第に眠気を催し始めた。そして疲れ切っていた彼女はあろうことか、寒空の公園で深い眠りへ就いてしまう。それが最期の眠りになることも知らずに。




 ――目を覚ますと、そこには真っ白な亜空間が広がる。雪の彩る銀世界とはまた違う、目が眩むほどの白だった。

 「んェ!?」

 玲奈はひたすらに困惑した。少し前のことを思い出そうと試みと、やはり解像度の高い過去が思い浮かぶ。

 「……私は仕事の後に居酒屋に寄って……そして公園のベンチで……寝ちゃったァ!?」

 「いや、じゃあここは何!? どこ!?」

 そのとき慌てふためく彼女の目前は、突如として眩い光に包まれる。それは次第に膨らむと、ちょうど人間程度の大きさにまで成長した。

 光が晴れたときそこから現れたのは、白い肌に金色の髪をなびかせる女性の姿をした何か。

 玲奈は当然それに事態を尋ねようとする。しかしその何かは彼女が疑問を呈する間合いを与えず、ただつらつらと言葉を並べ始めた。

 「……区分・地球。国名・日本。名前は氷見野玲奈。年齢は二二歳。で、お間違いないですね?」

 「あ、あ、あ、当ってますけど、ど、どなたでしょうか? というかここはどこでしょうか?」

 「私はあなたの来世手配を執り行うこととなりました……天使です。我々天使は、人々の輪廻の管理者。そしてここは、いわば前世と来世の中間地点です」

 「……はい? コスプレですか? 東京ビッグサイトでしたら、この公園を出て駅に向かって……」

玲奈の困惑は続く。天使を自称するそれは、彼女の困惑を気にも留めず引き続き話を進めた。

 「あなたは仕事終わりに一人寂しく晩酌を楽しみ、そして寒空の中公園のベンチで居眠り。低体温症に陥り死亡」

ここまで詳細に語られては、もう疑う術も無かった。

 「ま、ま、待って!? 私、ほんとのほんとに死んじゃったの!? まだ二二歳だったのに!?!?」

自称天使は悪意の無い微笑みで呟く。

 「晩酌の際の男の誘いに乗っておけば、こうはなっていなかったでしょう。まあ、これも結果論なのですが」

 「どっちにしろバッドエンドじゃん!! 私の人生クソじゃん!!」

玲奈は取り乱す。それでも自称天使は、手順に倣うようにして続けた。

 「さて、地球での一生を終えてしまったあなたですが、あなたにはこれから二つの選択肢が与えられます」

 「……は?」

 「まず一つ目は、地球にもう一度新たな生を受けて転生することです。この場合、氷見野玲奈という人格は完全にリセットされ、新たな個体として生を受けます。どの国にどんな性別で生まれ落ちるか、誰にも分かりません」

 「いやいや、もちろんそれでも充分驚くんだけど、他に選択肢があるのはなんなの……?」

なんとか落ち着いた玲奈はようやく自称天使の言葉に応じた。そして自称天使からは、その答えが明かされる。

 「もう一つの選択肢、それは地球と異なる世界線への転移です。別の星で、氷見野玲奈としての続きの生を全うする。それがもう一つの道となるのです」

 「え!? そ、それラノベによくあるやつじゃん。まさかぁ……いやマジなの!?」

 死んで間もないはずの玲奈は、オタクが高じて妙にテンションが上がってしまった。きっと普通の人間であれば、もう少しくらい狼狽える場面なのだろう。

 自称天使は少し間を空けると、その異様な人間に困惑しながらも尋ねる。

 「さ、さあ。あなたはどちらを選びますか?」

 それは正真正銘、運命の分かれ道。これからの長い時を左右する、あまりに大きすぎる選択だ。

 それでも玲奈の決断は意外にも早いものだった。玲奈は迷わず二本指を立てる。

 「そんなの二つ目に決まってるでしょ! だって私まだ二二よ!? 未練タラタラよ!! もう一度氷見野玲奈としてやり直したいに決まってるじゃない!!」




 「承知しました。それでは参りましょう、異世界へ。あなたの来世が、より良いものになりますように……」

 自称天使はこっそりと微笑む。何かに安心したように、期待に胸膨らませるように。




 「あなたなら、成し遂げてくれるかも……」






【玲奈の備忘録】

No.1 氷見野玲奈

東京でOLとして働く至って普通の日本人。身長は一五六センチ。二二歳の若さで命を落とした。大学時代から一度も変えたことのない茶髪のボブがチャームポイント(本人談)。趣味はオタ活全般。隠そうとしないタイプのオタクなので、堂々たる顔つきで秋葉原に通う。

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