第13話
目の前で宇宙に飲み込まれるように消えたヤノーシュと彼を追ったオーロイレに、呆然となる。
あれは、宇宙嵐ではなかった。どちらかといえば、宇宙というよりも、空間そのものが渦を巻いて軋んだかのように彼には見えたのだ。そう、例えるならば、この宇宙、この世界に存在するはずのないものを排除するために、空間自体が意志を持ったかのように。
ヤノーシュの恐慌に、その存在の違和感に、世界が気付き排除しようと動いたのだろうか。
「遅すぎる」
そう。今更だ。
今更、ヤノーシュを排除したとして、彼らハロムフェイが容認できるはずがない。
何を勘違いしたのか。
「ヤノーシュの存在がなければ、今の世界はありえなかったのですけどねぇ」
あの時。
遥かな過去、ローヴァサークと名乗る者たちに討たれた時、ハロムフェイが死んでいたとしたら、この世界は存在しなかった。何も知ろうとせず奢った過去の人間たちが、人間とは違う姿形を持った彼らをただ愚かしく世界を破壊する存在と見做した。共通の言葉も持たず、心話もならぬ人間たちに、害獣よと討たれた。
ハロムフェイの存在がなければ、あの世界は存在しないのだということさえも、知ろうとはせずに。
最後、オーロイレが目覚めたことにより、世界はその滅亡の運命を受け入れるよりなかったのだ。
何ひとつ存在しない、完璧な、無が森羅万象を待ち受けていた。
「別段」
言葉を区切り、何気なく、宇宙を見やる。
「我々は、それでも、かまいはしなかったのですけれどね」
そう。
かまわなかったのだ。
当時の彼らには、確たる感情はなかった。原始のいきもののように、ただ本能があるだけだった。
穏やかな微睡みを破り執拗に襲いかかってくる者たちは煩わしく、その都度与えられる衝撃は、無視できない痛みだった。そうして、ついに致命的な痛みを与えられたと知った時にも、ハロムフェイの心にあったのは、ただ痛みを与えた者に対する怒りだけだったのだ。死ぬだろうという意識は曖昧で、死というものに感慨のひとつも抱くことはなかった。
死はそこにあるものに過ぎなかった。
そのあとのことなど、知りはしない。
ただ、己たちにこの痛みを与えたものに最終的な破滅を−−−と。
それは、憎悪だったろうか。
腹の底からほとばしり出る雄叫びが、空気を震わせ、世界を震撼させた。
三つ頭の要に目覚めを呼びかけ、その双眸を瞠けと。
他の二つ頭と変わることのない緑の瞳が、大きくゆるりと瞠らかれてゆく。
それで、世界の命運は決定付けられた。
避けられぬ滅亡。
後に残るのは、完璧な無のはずだった。
しかし。
傷口にそっと触れてきた、ささやかなといってもいいほどに小さな掌と、かすかに心を揺さぶる声。それがために、世界は、再生を決定付けられたのだ。
無ではなく、再構築。
今の存在はあまねく滅び去る。それは変わらない。しかし、新たな鼓動が生まれる。
それは、そのささやかな掌の感触と、小さな声のためだった。
予測ではなく、それは、確信、真実だと、三つ頭のひとつである彼は知っている。
なぜなら。
彼も、ヴェンツェルも、同様であったからだ。
微睡みに還るのではなかったが、不思議と苛立ちが、怒気が、収まっていった。それに伴って、痛みが和らいでゆくかのような心地にとらわれた。
森羅万象の恐怖が薄れ収まったのは、そのせいだったろう。揺れが収まり、世界に、存在するありとあらゆるものたちに、滅びへと向かう静かな時が訪れた。
そんな中、断ち切られかけた首から流れる血に怖じることもなく己たちの腹にもたれるようにしてそれは座り、”名前”を与えたのだ。
頭ごとに付けられた”名前”によって、存在が三つに分かたれる感覚があった。己たちが小さな存在に縛られたことを、彼らは感じた。しかし、それにいささかの嫌悪すら感じることはなかった。それどころか、そこには、初めて感じる甘く心地よいなにかがあった。
同時に彼らの脳裏に迸ったのは、その小さな存在を型作るありとあらゆる情報だった。その有り様もその暮らす未知の世界も、そこに棲む未知のいきものまでも。おそらくは、その情報には、小さな存在が知ることのないものも含まれていたことだろう。しかし、彼らに流れ込んできたものは、遺伝子、原子、果ては魂の根源へまで遡るものであったのだ。
そう。
その刹那に、新たな世界の有り様が決定されたと言っても過言ではない。
だからこそ、今更、この世界がこの世界の”礎”とも”母”とも、彼らの”伴侶”とも見做すことができるだろうヤノーシュを排除することなど、あってはならないことだった。
「もっとも。まだ完全にこちら側の存在ではなかったですからね」
仕方ないのかもしれませんが。
銀の髪を掻き上げ、首を振る。
「彼ならば、下手を打つことはないでしょうけどね」
ほぼ同等の力を持つハロムフェイの三つ首ではあるが、最終的な切り札を持つのは、無を司る金のたてがみのオーロイレである。ゆえに、彼らの要を担っているのは、彼なのだ。
穏やかなと勘違いされてはいるが、おそらく、彼らの中で、一番の激情家は彼であるだろう。ただ、それが向けられるものが、ごく限定されているだけの。
「まぁ、我らはいずれにせよ同じようなものではあるのですけれど」
いつ戻るかわからないふたりをこの場で待つ愚を犯すつもりはなく、ラドカーンが踵を返した時だった。
「遅くなった」
おおどかな声が彼の耳に届いた。
目を惹く辰砂の髪が、日に焼けた逞しい体躯が、そこにはあった。
「ヴェンツェル。なぜすぐに戻らなかった」
「すまん。ちょっとなぁ。これでも全部片をつけてから戻ったんだがな」
後頭部を掻くようなようすを見せながら、大きく口を笑いの形に歪ませる。
「こんな片隅でなにをしている。それよりも、我らのはどこだ?」
垂れ目がちの瞳がラドカーンの周囲を探るが、当然、そこに脩の姿があるわけもなく。
「オーロイレも見えない………いや、気配を感じ取れないが?」
「里帰りですかね」
肩を竦める。
「は?」
突拍子もない単語に、垂れ目がちの目が大きくなった。
「眼球がこぼれますよ」
後で説明してあげますから。
そうしていれば戻ってくるでしょう。
そう言うと、ラドカーンはヴェンツェルの背中を押したのだった。
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