第8話
*****
「もういやだ」
呟く声が、室内にかすかな波紋を描いた。
聞くものは、いない。
落ち着いた色合いの机の上に開かれたままの絵本とノートの上に、ペンが投げ出される。
「あ………」
インクが飛沫を飛ばしたが、
「も、いい」
左手でつい撫でやってしまい、紙の上インクの染みが線を描く。
手近にあった濡れナプキンらしいもので手を拭うと、青い染みが滲んで消える。
アルファベットめいてどこか違うそんな文字を不器用に真似ることに、なんの意味があるのか。
覚えろと言うのなら、必要なのは会話の方だろう。
聞き取りだろう。
なんとなく、ここに閉じ込めておくための口実ではないのかと、不安になる。
あの日。
一週間くらい前になるのだろうか?
もっとだろうか?
車に轢かれたような気がしたのに、どこにも痛いところはなかった。ただ、気がつけば周囲は真っ白だった。
音もなく、耳が聞こえなくなったのかと不安になるほど音のない白い空間に、目が見えなくなったのかと新たな不安が鎌首をもたげた。
白かった。
牛乳を水の中にぶちまけたように。
焦りながらも目を凝らして、細かな粒が見えたような気がしていつの間にか詰めていた息を吐いた。
白いのは、霧のせいなのだと。
しっとりと湿り気のあるだろう、ひんやりとしているにちがいない霧が、ゆっくりと動く。
それは充分すぎるくらいに視界を閉すもので。
脩はその場から動けなくなった。
自分がどこにいるかわからないせいだった。
道に倒れているとして、下手に動いても危ない。
家の近くなら、乗っていた自転車もあるはずで、それを起こさなければ邪魔になるだろう。探る手に触れてくるものは、草のような感触や土のようなものばかりで、脩は首をかしげた。
家の近くに、こんなに土や草があるところがあったろうか?
中央分離帯にでもいるのか?
だとしたらなおのこと、下手に動くとやばい。
車の気配はおろか、ひとの気配すら感じることはなかったが、霧にまかれた場合は下手に動かない方がいいのに違いない。
ゆっくりと上体を起こして、体育座りの体勢をとる。
できるだけ小さくなりたいのは、心細いからだった。
はやく霧が晴れればいいのに。
いったい何がどうなったのか、はやく知りたかった。
少しずつ霧が薄まり、薄まった霧に差し込む金の矢がだんだんと広くなっていった。
そうして、脩は自分がまるっきり見も知らぬ場所にいることを知ることになったのだった。
森なのか林なのか、植生もわからないそこは、緑が滴るほどの場所で、山ではないだろうと思ったのはただ自分のいる場所が坂になっていないからという理由からだった。
呆然と、脩はただ目を見開くだけだった。
「どこよここ」
どうしてこんなところに?
そう思っても当然の場所だった。
ふと脳裏をよぎったのは、轢き逃げされて死んだと思われた自分がどこか人目のつかない場所に遺棄されたというシチュエイションだった。しかし、違うだろう。否定する。なぜなら、自分のどこにも痛めたような箇所などなかったからだ。
そよ風が吹く。
葉ずれの音。
下草をしだく何かが立てる音に、全身で震えた。
ここがどこでどうしてここにいるのかは見当がつかないが、もしかしたら、危険な生き物がいるのかもしれないことに思い至ったからだ。
ぼんやりとしているままではいけない。
動き出した脳が、様々な状況をシミュレートする。
思いつく限りの野生の危険動物、思いつく限りの最悪の状況。
今はまだ明るいが、すぐに夜になるかもしれない。
寒いかもしれない。
自分は薄着だ。
Tシャツにジーンズという軽装だ。靴だとて通学用のスニーカーだ。
DVDを返却に出ただけだったから、持ち物といえばポケットに小銭入れを突っ込んだだけで、チョコレートの一欠片も持ってはいない。
詰んでいるといってもいい状態だった。
こんなところでぼんやりなどしてはいられない。
そうだろう?
動こう、俺!
自身を鼓舞する。
ゆっくりと立ち上がった。
「っ!」
ちょっとめまいがしたけれど、大丈夫だ。
どこも痛めてる気配はない。
いける。
そう思ってどれくらい歩いただろう。
どこまでいっても、深い緑ばかりだった。
空腹に襲われたら。
喉が乾いてしまったら。
夜が来てしまったら。
食料を、水を、寝床を。
求めて周囲を見るものの、何もない。
いや。
サバイバル知識のあるものが見れば宝庫の可能性もあるが、脩にとっては、何もないのだ。
じっとりと肌が湿ってきたような気がした。
額に滲んでいるだろう汗を二の腕で拭う。
荒くなったろう息をいなすために大きく深呼吸を繰り返す。
足が痛い。
そんな気がした。
必死になって耳を澄ます。
だんだんと足元もフワフワと心もとない感触になり、大きく盛り上がった木の根に足を取られそうになるたびたたらを踏み、しっとりとした苔が生す幹に手をつく。
森や林の奥へと踏み込んでいるのではないか?
そんな不安を押し殺す。
水音を求めて澄ませた耳に届くのは、不気味に聞こえる声や音ばかり。
ああ、誰か。
誰でもいいから、助けてくれ。
誰でもいいから。
「も、だめ………」
のしかかってくる不安の重さにしゃがみこんだ脩をまるで嘲笑うかのように、そうなって初めて、水のせせらぐ音が聞こえた。
ような気がした。
幻聴?
ほんもの?
もうどっちでも構わなかった。
目を閉じて全ての神経を耳に集める。
こっちだ。
音の方向へと足を踏み出した。
「!」
その途端足元の地面がなくなった−−−というようなことはなく、視界が開けた。
それは、目を疑うような光景だった。
頭の上も、目の前も、遮るものはなにもない。
それまでの鬱蒼とした緑が嘘のように、澄んだ青い空が頭上には存在する。
足元にあった木の根もない。緑は緑でも、ひとの手が入っていると一目でわかる芝生や人目を楽しませるための花々がそれぞれの趣向を凝らしている。それはどう見ても、広大な庭園でしかなかった。
そうして。
目の前に広がる光景は、
「どこのテーマパークだ?」
せせらぎは、果たして、川だった。
橋のかかった川は、海だろうか、湖だろうか、空を写した青い水場へと続いている。
橋を渡れば、幾つもの尖塔を空へとかざしながら聳え立つおとぎ話に登場するだろう白亜の城へと向かうことができる。
「なんだよこれ」
「なんなんだよ………」
その場にへたり込む。
肌に感じる空気の感触で、ここが日本ではないことがわかる。
目の前の光景が、テーマパークなどではないこともわかる。城の存在感や景色の見事さは別として、乗り物ひとつない地味さがそうではないことを無言のうちに脩に教えてくるのだ。
肉桂色をメインカラーに設えられた室内でふたりの男が歓談していた。
大きく切り取られた窓からは、遠く森と湖を臨むことができる。
金の髪の男が何かを感じ取ったかのように、ふと窓に目をそらせた。
『ようやくか』
目を細めひとりごちた金の髪の男のさまに、
『なにがあった?』
銀の髪の男が傾けたカップをソーサーに戻しながら訊ねる。
それには応えず、
『ヴェンツが悔しがろうな』
涼しげな口角を持ち上げて、背後に控える男を手招いた。
『宇宙の間に客人を迎える。準備を』
それは、決定事項であった。
『オーロイレ。まさか』
『此度こそ逃すまい』
迂遠な肯定のことばに、ラドカーンがその過ぎた赤を宿すくちびるを歪めた。
『ああ。これだけ我らを待たせたのだ』
『ヴェンツェルにも知らせねばなるまい』
『あやつは拗ねるぞ。間違いなく、な』
肩をすくめ、部屋の隅に控える少年を呼ぶ。
『イニャキ、ヴェンツェルに”界渡れり”と一報を』
褐色の髪の少年は、軽く復唱をし、深々と礼をとり退出していく。
その背中を見送りながら、
『すぐさまの帰還は叶うまいよ』
ラドカーンが歌うように呟いた。
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