彷徨える神々
七生 雨巳
第1話
「オーロイレさま」
名を呼ばれ、振り返る。
美しい緑の眼差しが、己の名を呼んだ女の姿を捉えた。
「オルソリャどのか」
色鮮やかな羽根の扇を口元に、青い眼差しが柔和に、しかし色めいた光を宿して弧を描いた。なめらかな絹をまとった豊満な肢体が蠱惑的なしなを作る。
白鳥の首めいたしなやかな繊手を泳がせるように蜜のような金の髪の男に向けて差し出す。
それを受け、軽くくちびるで触れる。
「あの方は?」
小首を傾げれば、やわらかそうな栗色の髪がさらりと揺れた。
「あの方?」
薄いくちびるが、示唆されたことばを繰り返す。
「ヤノーシュさまですわ。ご寵愛の」
くすくすと軽い笑いをひそめながら耳元に囁かれ、オーロイレの眉間は涼しいまま、ただ緑のまなこが広い空間を裂くように見渡した。
さんざめく大理石の広間は、耳に心地よい楽の音をはじめ、酒精と料理と化粧の香に満たされている。酒や料理を楽しむものもいれば、思い思いの会話に興じるもの、踊りを楽しむものもいる。
オーロイレの視線はそれらを素通りし、目的のものを捉え、すぐさま逸らされた。
たくましい身体に古の神めいた衣装をざっくりとまとった男に肩を抱かれた、か細い肢体の若者の姿を認めてのことだった。
その若者の顔色は紙のようであったが、だれひとりとしてそれを気にかけるものはいない。
もとより若者は、彼らの血族ではないのだ。かといって、彼らの眷属というわけでもなければ
すなわち、宇宙を彷徨うヴァルェグバンドガルに古より住まうフェルニゲシュたちにとっては本来ならば縁もゆかりもない存在でしかないのだ。ただ、オーロイレら三つ柱とも呼ぶべきヴァルェグバンドガルの支配者たち、サーカニィを名乗ることができる者らに寵愛されているということだけが、若者の価値といえた。
それは、おそらく、ヤノーシュと呼ばれるただの人間にとってはいろんな意味で過ぎたことであるのだろう。だからこそ、若者の顔色が悪くとも、サーカニィら以外は気にもかけることはないのだ。もっとも、サーカニィであっても、おそらくは気に留めていないだろう。そう。彼らは、倦むほどの長い時を生きている。純粋な人間などではないのだ。ひとの体調を慮ることなど思いだにしないに違いない。
「ヴェンツェルさまと? では、今宵はわたくしと」
いかがです? と、言われ、オーロイレの表情がしばし感情を消す。もとより情感豊かとは言えぬ男ではあるが、それが不快を現さぬようにする最善の手段であるからに他ならない。
今宵からヤノーシュはヴェンツェルの元で過ごすのだ。
それは、己とヴェンツェル、それにラドカーン、三つ柱と呼ばれるサーカニィらの間での取り決めであった。
とまれ、宇宙の標準時で
そうでなければ、サーカニィの結束は脆いものとなっただろう。
フェルニゲシュらは信じないだろうが、ヤノーシュへの彼らの寵愛は伊達や酔狂などではないのだ。
二月の間あの手になじむ肌の感触を楽しめないのだと思えば、不思議なほどの喪失感にとらわれる。それはどれほどの美女であろうとも埋めることが叶わないものなのだ。
「誰が思おうか」
その涼しげな口角がかすかに持ち上がる。
それが自嘲であるなどと、当人以外にわかろうはずもなく。
「オーロイレさま」
それを諾と勘違いしたオルソリャが、男の腕に己の繊手を絡ませた。
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