ノックバック・ビヨンド
糸魚川鋼二
短編1
第1話 ワンダーワールド
「……というわけで、『ぼく』はここで……」
俺は生徒たちの表情を
黒板を見つめる生徒たちの
春の陽気と給食後の五限ということが
教師としては、「もう受験生なんだぞ。ちゃんと自覚を得ろ」とか「大型連休はすでに終わったんだ。切り替えろ」とか、お決まりの台詞は思いつく。
だが、俺自身、その言葉を発する気力もない。
つまらん授業をしているな、と思うからだ。
自分自身に対して。
自分だって、こんな授業はしたくない。
だが、文科省やら教育委員会やらの指定で、こういう授業になる。
この、中学3年生の国語の教科書にある
これで授業をしなければならない。
これは……よくない。
『ワンダーワールド』は、中学3年生になりたての少年「ぼく」が、親族一同から「ホラ吹きのぼうちゃん」と呼ばれる
オチとしては、ぼうちゃんは実際に世界を股にかける冒険家であり、ぼうちゃんのホラ話はすべて彼が世界で体験した事実であった……ということ。「ぼく」が非常識でみっともない
この小説には、問題がある。
恐らく、そのためだろう。
教室はすでに、疲労と眠気が伝染していた。
まるで、修学旅行から帰る長距離バスのように、皆が気絶するように眠りに落ちている。目が開いている生徒もいることはいるが、焦点があっておらず
誰か……誰か生きている者はいないか……
そうだ、
このクラスには
俺は、クラス一の
ポニーテールの志築麻衣は
うん、やはり。
志築ですら『ワンダーワールド』は「何が面白いのかわからない」というか、「作者が、何を面白いと思って書いたのかがわからない」ということだろう。
すまん、すまん志築、みんな……
俺はその理由を説明できる。
だが立場として「この話、めちゃくちゃつまらないよな……」とは言えないんだ。
言えば、問題として取り上げられることは必至。
それに、俺がそう言った途端にお前たちは覚醒して、鬼の首を取ったように喜ぶだろう。「ほら、先生が認めたぞ、勉強なんてする意味ないって!」と、論理の
俺は生徒たちを起こすこともなく、解説を続ける。
この小説では、寝かせてやる方が生徒のためだ……
「……ここで『ぼく』はぼうちゃんからの手紙を受け取り……」
その時、視界の隅で何かがグラッと揺れた。
ガタンッと音を立てて体勢を立て直したそれは、なんと、志築麻衣だった。
「…………!」
辛うじて体勢を立て直した志築は、何が起こったのかと目をぱちくりさせている。
なんというレアな光景……
あの志築麻衣が「寝落ち」しそうになったのだ。
生真面目、責任感、正義感、品行方正を絵に描いたような、志築が――!
志築は自分がうたた寝して椅子から転げ落ちそうになったと気づき、耳まで真っ赤になった。そして、周囲を小さく見回した。
だが、笑い声も
クラスのほぼ全員が、意識を異界に飛ばしていたからである。
そして、志築麻衣は、上目遣いで恐る恐る俺を見た。
俺は、怒っていると思われないように声を作って言う。
実際、全然怒っていない。むしろお前は、普段も今も、頑張りすぎている。
「志築、大丈夫か? 体調、悪いのか?」
「あ、い、いえ……すみません、顔を、洗ってきてもいいでしょうか……」
「かまわないぞ」
志築は放心の態で、教室の後ろのドアをゆっくりと開閉して出ていった。
……
これで、俺の授業を聞いているものはゼロ。
そして誰もいなくなった、これにて了……
「あ」
いた。
クラスの左端、前から二番目の席。
碇は楽しそうに、ニヤニヤしながら俺を見ている。
「……楽しそうだな、碇」
「あ、え、いや……そんな……」
「なに? 俺の授業は楽しくないのか」
「え、いや、そういうわけではなくて……」
碇はひきつった笑みのまま、ごにょごにょと
俺とて、当然怒っているわけではない。
碇は、
碇哲史郎。
男子の中でもおとなしくて目立たないグループで、さらにその隅っこが定位置。
確かに控えめ、男子の中では全然目立つ方ではない……が。
1年の頃からこの学年を受け持っている教師たちは知っている。
彼は、普通じゃないところがあると。
3年間、こいつの国語教師をしている俺は特によく知っている。
俺は改めてクラスを見回す。
生存者は碇だけだ。
他の皆は、死体となっているか悟りを開いている。ここは
俺は碇に言った。
「……耐久バトルロイヤルの優勝者は、まさか志築ではなくて碇とはな」
「え、いや、耐久バトルロイヤルなんて、そんな」
「ライバルが帰ってくるまで休憩でもするか。碇一人のために、授業を進めるわけにもいかんし」
「あ、はい……」
「……でもお前の時間を無駄にするわけにもいかないな」
「え? いや、僕は、別に……」
この、ニヤニヤしながらごにょごにょとどっちつかずのコメントを連発するのが、本当に嗜虐心をそそるのだ……
俺は他の生徒を起こさないように、声を抑えて言った。
「問1。先ほど椅子から転げ落ちそうになった時の志築の気持ちを述べなさい」
「え……」
「本人はいないし、起きてるのもお前だけだ。ほら、早く」
「えぇ……」
「答えられないのか? 内申点に響くぞ~」
「パ、パワハラ……」
「冗談だ。でもそうかー、さすがの碇でも答えられないか-。その程度かー」
挑発する。
これで乗ってくるとは思っていなかったが……
「……『わ、私が……寝てた? うそ……』」
乗って来た。
意外とノリがいいのか、挑発に弱いのか。
俺は碇の意外な側面を見た気がした。
「お、いいな。なんだか当たってそうだ。その後も続けて」
「えぇ……」
「いいからいいから」
「『よかった、みんな寝てるからバレてない……あ、でも
「良い感じだな。続けて」
「『よかった……見られてなかったみたい……でも朽木先生、ごめんなさい……気合い入れ直さなくちゃ』」
「うーん、さすが国語の碇。たぶん完璧だ」
「あ……ありがとうございます……」
「よく見てるじゃないか。志築麻衣のこと」
「えっ……! せ、せんせい」
「客観的事実だろう。そして、非常にレアな志築を見られたのは碇だけだ。真面目に授業を受けててよかったな」
「そ、そうかな……? ……えへへ……」
碇、そういうところだぞ。
その時、志築が戻ってきた。
もっと時間を潰してきてもいいのに、生真面目な生徒だ。
志築はまだ少し、ぼやっとした表情をしている。
「……今日はみんな疲れが溜まっているようだから……もうここからは、質問の時間にするか。授業について質問があるなら、何でも聞いていいぞ」
「なんでも?」
反応したのは、志築の方だった。
俺ははっとした。
やばい。スイッチが入った。
この優等生の唯一の難点は、「気になったら確かめようとする」ことだ。
中1の頃、担任を持っていたときに思い知らされた。
生徒を生徒指導室で説教する時ですら、いたずら子猫のように
それが今、「なんでも」という言葉に反応した。
目が、事件記者のような好奇心を光らせている。
「先生、なんでも、いいんですか?」
「え、いや……授業に関しての事ならな……?」
プライベートはNGだ。
すると、志築は遠慮がちに……
「じゃあ……その……これは、
うわーーーーー
来た――
言いおった――――
恐らく、俺の顔は引きつったのだろう。
それを見て、志築が慌てて言葉を
「あ、いや、朽木先生の授業は、面白いんです。いつも、普通なら。去年の『走れメロス』のときも、一昨年の『少年の日の思い出』のときも、先生の授業は塾での解説よりもずっと面白くて。わかりやすいし、なるほど、国語って楽しいなっていつも思わせてもらえて……本当です。先生の授業が面白かったから、太宰治の本もヘルマン・ヘッセの本も、買って読みました」
教師
そしてずごいぞ志築麻衣。『走れメロス』の太宰治はともかく、『少年の日の思い出』からヘッセに手を出すとは。書店にあったとしたら『車輪の下』だろうか。ヘッセの中学寄宿舎時代の同性愛的な青春の日々を、志築麻衣はどういう心情で読んだのだろうか……と、聞きたい衝動に駆られたが、俺は受け流す。
志築の今の発言は、前置きだからだ。呪文詠唱だ。
今、本当に言いたいことはそれではない。
間髪入れず、主砲の一撃が来る。
「でも……その……『ワンダーワールド』は……朽木先生の授業でも……あまり面白いと思えなくて……」
そりゃそうだ。
俺だってこれ、面白くないと思ってるから。
「…………」
「すみません、自分の能力不足を棚に上げて、面白くないなんて。ちゃんと勉強します」
あああああ~
いかん、それはいかん志築。
それも駄目なのだ。
どちらかというと一番駄目。
その道に行かないよう正さないといけないレベルで、よくない。
面白いと感じないのは、自分の力が不足していてよくわかっていないから……
確かにそういうケースは、読み物によってはある。
人生経験あってこそ伝わる純文学や、背景知識がないと読んではつっかえる時代小説や歴史小説は、その傾向は強いだろう。
だが、あくまでも「読み物によって」はでしかない。必ずしもそうではない。
完全解釈・完全理解できたところで、つまらないと感じる作品はあるのだ。
だって俺、『ワンダーワールド』は完全解釈しているし、指導教本すら持っているけど、その上で「つまらない」と思うから。そしてお前たちがつまらないと思うだろうと予想し、その理由も得ているから。
勉強して解釈が進めば必ず面白く見えるはず、自分がつまらないと感じるのは理解できていないため……という考えに対する答えは「そうとは限らない」だ。
世界はそこまで上手に作られていない。そこまで大人たちはうまくやれていない。今君たちが生きているのは完成された世界ではなくて、未完成で穴だらけの、ミスがあちこちに点在する世界なのだ。この中学3年生の教科書に載ってしまった『ワンダーワールド』はまさにそういう世界の粗であり穴だ。
「ぎぎぎぎぎ……」
「先生……? あ、あの……どこかお体の具合でも……」
「ぐぎぎぎぎぎぎ」
うあああ言いたい。
志築そうじゃない、君は何も間違っていない、単純にこの小説がつまらないんだと。これをよりによって今の中3の教科書に載せた教科書メーカーも、OKを出した文部科学省も、ぜんぜん今が、そして中学生が見えていない、何もわかっていないと。こんなので真面目に授業をすれば「小説って何が面白いのかわかんない」「小説は俺には無理」「あんなの面白いと言ってるやつはセンスが終わってる」「漫画の方がストーリーがちゃんとしてる」と、小説嫌いを量産するだけだ。せっかく俺が
それに、志築の誤解は危険だ。
大人が語るもの、教科書に載っているもの、活字になっているものは「必ず正しいはず」というのは実によくない。
最近だか、東都大学の学長が入学式で言ったという。「君たちの中には、活字を信じすぎる性質を持っていたために
いや、まさにこの言葉の通りで。
ここで釘を刺しておかないと、志築麻衣は「疑えない優等生」になる恐れがある。そうはなってほしくない……
でも俺は、ただの中学校教諭だ。
言うべきことよりも言ってはならぬべきことの方が多い、地方公務員だ。
「いや、『ワンダーワールド』はシンプルにつまらないぞ」
は、言ってはいけない言葉の
言った途端に誰かが起き出して「うちの中学の先生が、『ワンダーワールド』つまらないって言った! 教科書に載ってる小説がつまらないって言った!」とSNSに投稿するにちがいない。そして謝罪会見、懲戒、路頭に迷う妻子、ボルダリングに逃げる俺……
「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ」
「先生……? 先生……!?」
その時俺は、再び視界の隅……
教室の端で、ニヤニヤしているやつを見つけた。
そいつは、楽しそうに俺を見ていた。
「碇……楽しそうだな」
「あ……いや、そんな……」
「俺が苦しんでいるのを見てそんなに楽しいか?」
「え、いや……ちょっと、楽しいかも……」
そういうところだぞ!!
「碇。俺の代わりに志築の問いに答えてみろ。起きてた罰だ」
「起きてた罰……!?」
「ほら、志築は聞いたぞ。『ワンダーワールド』なんてつまらない小説を教科書に載せて、文部科学省は何を考えてるんですか、この国は腐っているんですかって」
それを聞いて、志築が慌てて抗議する。
「え、ちがいます! そこまでは言ってないです!」
「あれ、ちがったっけ」
「全然ちがいます。『ワンダーワールド、面白いですか?』って聞いたんです」
なんだ、ほとんど同じじゃないか。
「だそうだ。碇、お前ならどう答える?」
「えぇ……質問されたのは先生なのに……」
こいつ、たまに底意地の悪そうなところが見えるんだよな……
それもまた嗜虐心をそそるんだが……
「ん? 答えられないのか? 志築の質問に、碇は『わかりません』と……」
「…………」
中学校教諭を甘く見るなよ。
お前が志築麻衣を憎からずと思っていることなんて、中1の頃からお見通しだ。
べつにお前だけじゃない。中学生男子の視線がどのように散って何を追うかなんて、授業、学校行事、掃除時間、登下校中ですら……ばればれすぎて、見せられている方が恥ずかしいぐらいだ。
「がっかりだな志築。さすがの志築も、国語に関しては碇に一目置いてたのにな」
「いえ、がっかりではないですけど……」
「…………」
碇は無言だ。
オラ~~~どうする碇哲史郎~~~
俺が、お前に
中学校にテロリストがやってくれば、ゲーム仕込みの戦術で圧倒して活躍できるのに……と日々妄想している
断じて、答えにくい質問の責任逃れのために丸投げしたわけではない。俺が困っている姿を見てニヤニヤしていたお前への罰でもない。断じて。
「碇~ わかりませんか? わかりませんなのか?」
「…………」
お前のことだ。
『ワンダーワールド』の正体がわからないはずがない。
お膳立ては整えた。引けない理由も作った。
どうだ?
ここまでしても駄目なのか?
お前も「わかりません」を「面倒くさいです」の意味で平然と使う、平々凡々なつまらない中学生なのか? いくじなしなのか!?
やれ、やるんだ碇!
今、教室で意識を保っているのは、俺とお前と志築しかいない。
引っ込み思案なお前は、志築から来ない限りは雑談することもかなわないだろう。
そこでこの俺が、キューピッド役を買って出てやったんだ。
1年に1度の気まぐれだ。
さあ、なんでもいいから答えろ碇!
俺への質問の矛先をずらせ!
「……『ワンダーワールド』は、絶対的な評価としてつまらないとは思いません」
碇が言った。
あ、来た――
そう直感した。
空気が変わった。
志築もそう感じたらしい。やや驚いた顔で、碇を見ている。
碇は、それこそ呪文を唱え始めた魔術師のようにして語る。
「……絶対的につまらないという内容ではないです。ただ、現代の中学生である僕たちには興味を持ちにくい内容で、結果としてつまらないという印象を受けるのだと思います」
突如『本物の雰囲気』を
志築が声を抑えて、尋ねる。
「それって、やっぱり私たちには難しい内容だから……?」
「ううん。えと……お話の最後を見てほしい。出典と、作者の生年と略歴が載ってるよね」
志築は急いでページをめくる。
「あった……これが、なに?」
「『本作は書き下ろしです』ってあるよね。つまりこの『ワンダーワールド』は、作者の著作から引っ張ってきたんじゃなくて、中学3年生に読んでもらうために、教科書用に新しく書かれた小説なんだ。それと……生年から作者の年齢を計算してみて」
「えーと……今、78歳? それが?」
「……朽木先生。この教科書が今の中学生に採用されたのは、いつですか?」
「それなら答えられるぞ」
「それなら?」
「いや、なんでもない。その教科書は2年前から採用されている」
「ありがとうございます。じゃあ……書かれたのが3年前として……志築さん、その当時の作者の年齢は?」
「75歳……」
「うん。そういうことだよ」
「全然わからない。どういうことなの」
「え、いや、だから……そういうこと……」
志築は
「ああ腹立つ。勝手に私をワトソン役にしないで。名探偵気取りって、だいたいこうですよね、先生」
「そうだよな~」
碇は結託した俺たちにおろおろしながら、解説を始める。
「いや、だから、その……えーと……つまり……『ワンダーワールド』に出てくる『ぼく』は、当時75歳だった人が想像して書いた『中学3年生』なんだ。ついでに言うと、『ぼく』の親戚たちもプラス25歳から35歳ぐらいと考えて……当時75歳の人が書いた、40歳から50歳ぐらいの親世代ってことで……でも、舞台は現代っていう風にされていて……だから変なんだ」
「……」
志築は眉間に
「『ぼく』も親も親戚も、『ぼうちゃん』の言う話を誰も信じない。ホラ話だと思って、『ぼうちゃん』は
「あ、そっか。そうかも」
泡がはじけたように、志築の顔から緊張が抜け落ちた。
そう、その通りだ。
ネットの動画投稿サイトが現れたのは、5年前だったか6年前だったか。
そして
若者たちは、世界中から投稿される奇天烈な物事を、毎日浴びるように見ている。
共に育ち兄弟のような絆で結ばれている熊と女性、改造車で崖に向かって走る命知らずのドラッグレース、花びらが大きすぎて茎が潰れてしまった怪物花、並べた牛の背中を走り抜ける成人の儀式……全部見ている。
碇は、整理するように言った。
「僕たちは動画サイトで、『ぼうちゃん』の言うようなことがあることを当然のこととして知っている。情報として『そういうこともある』ぐらいに慣れている。それに、もっと驚くようなことも触れている。だから、『ぼうちゃん』の話をホラ話だと言う現代の中学3年生である『ぼく』やその親族一同が、わけがわからないというか、単純にひどく理解力が低く見えるというか……嘘っぽく、作り物っぽく見えるんじゃないかな。とりあえず、全然、登場人物たちの気持ちに共感できない。最後の、写真の入った手紙が届くのも、今ならLINE……少し古くても画像つきのメールだし。『わざわざ話を作ってる』ように見えてしまう。宛先が上の世代ではなくて『ぼく』だから」
「あー……なるほど……」
「たぶん、この話が書き下ろされたのは……少年から青年への
「わかってない! 全然わかってない! 碇って、独特の解釈をするなぁ!」
「「…………」」
あ……碇だけじゃなくて志築まで俺に白い目を向けている。
バレた。
でもいい。志築が、疑うことを覚えたなら。
俺は自らの株を下げて、生徒の一人が道を誤らぬように救ったのだ。
俺は現代の泣いた赤鬼だ。泣きたい。
「ま、碇の解釈もアリなんじゃないか? 俺の解釈じゃないけどな」
「あ、待ってください、まだあります」
「まだある?」
「はい。『ぼうちゃん』っていうあだ名呼びも、よくないと思います。僕たちの世代は、基本的にあだ名で呼ばないというか……特に、親しみをこめつつも相手を少し落とすようなあだ名呼びは、一般的ではないです。小学校は『あだ名禁止』だったし。だから、親の『ぼうちゃん』なんてあだ名呼びはちょっと……テンションとして、考えにくいです。こういう相手を少し落として親しみを表現するようなあだ名って、普遍的な文化じゃなくて、昭和と平成前半の特徴的な文化ですよね。あと、あだ名のセンス自体も、50年ぐらい昔に感じるし……やっぱり、これが今の話として書かれていると、すごく作り物を読まされている感じがします。リアリティが無いって言うのかな……」
そっか。
確かに、そうだ。
それは俺も、見えていたのに気づいてなかった。
「『ぼうちゃん』呼びを名前にさん付けの呼び方に変えるだけで、作品としてかなり入り込みやすくなると思います」
書いてもいないくせに、何を……とは思わなかった。
俺は想像して、「確かにそうだ」と一瞬の内に納得させられたからだ。
恐らく、志築も。
そうだ。こいつの中1の頃の読書感想文を思い出せ。
あれだったんだぞ。
まるで書評家、それも書き手目線まで入っていた――
「あ、でも……僕が読んだ、臼井先生……『ワンダーワールド』の作者の他の作品は面白いのも多くて……特に、40年ぐらい前に書かれた作品群は、今読んでも傑作です。70年代にあそこまで世界的な視野を取り込んだ小説を書いているのは、やっぱりすごい人だって思います。それに『ワンダーワールド』も、今の実情とかけ離れているから僕たちが興味を持てないだけであって、文章は上手だし、情報の出し方も、出す量の適切さも完璧で、読みやすい小説になっていると思います。10年前……いや、あだ名が古いから15年前ぐらいかな……その頃の中3の教科書に載っていたら、中学生たちは『面白い』と言ったと思います。あの臼井先生が、これを今の中3向けに書き下ろしたというのはちょっとショックですけど……教科書を作った人たちも、腕のある大作家だから依頼したのはわかるとしても、出来上がったこれに修正依頼を出さなかったのは少し残念……教科書検定を通した文部科学省も……」
碇は、宙を見上げながら一人でぶつぶつと言っている。
俺と志築から、ドン引きの目で見られていることも知らないで。
「…………」
「…………」
志築が、そろりと俺を見る。
俺も、小さくうなずく。
碇は静まり返った教室で、我に返る。
「……あっ……い、以上です……」
そして、慌てて話を切り上げた。
「……ということらしい。志築、わかったか?」
「ええ。わかりました」
「なにがわかった?」
「碇くんが、やっぱり変な人だってことは」
「えぇ……!?」
哀れ、碇哲史郎。
いや、でも、無関心よりはいいんだぞ。
変なやつだって認知されて、意識されてるぶん。
だから、俺を恨むなよ。
その時だった。
「ショットガン!!!!!」
教室が揺れた。
絶叫と共に立ち上がった者がいる。
それによって、意識を飛ばしていた全員が我に返った。
碇の前の席、堂々と最前列で寝かぶっていた男子、
阿久津仁は
普通なら叱るところだが、その目があまりにもキラキラとキマっていたため、尋ねてしまった。
「……ショットガンがどうかしたか、阿久津?」
「あ、いえ……思いついたんです、夢の中で。ショットガンって、飛び散りますよね?」
「散弾銃って言うぐらいだからな。あと飛び散るのはショットガンの弾、な」
「ですよね。じゃあこう……ちょうどいい距離で打てば、1発で二人殺せたりしませんか? 飛び散るんだから」
「そこまで詳しくはないから、調べてみろ」
「はい!」
「でも人は殺すなよ」
「大丈夫です。トリックで使えるかもって思っただけなんで」
「とりあえず、座れ」
「あ、はい。すんません」
……
そうきたか~~~~~
俺はため息をつく。
トリックって、夢の中で思いつくものなのか?
これが、才能ってやつなのか?
確かに、館で連続殺人のミステリと言えば、出てくるのはだいたい散弾銃だ。
みんなの目に付く位置に掛けられていて弾もある。館に住む誰かの趣味という設定。雰囲気が大事な館ミステリの
でもよく考えれば、散弾銃だ。
猟銃の中でも、猛獣を狩るために貫通力を上げたライフルではない。
鳥やウサギを狩るような、広範囲に飛び散るショットガンだ。
1発で複数人を死に至らしめることは可能なのではないか?
そしてそれで、残弾の数を
この阿久津仁は、1年生の頃から問題児だ。
てんで勉強はしない。頭もよくない。ものを知らない。作文も平仮名だらけ。文字は汚い。髪はぼさぼさ。シャツはよれよれ。
だが目立ちたがり屋で、中1で夏休みの読書感想文に『完全犯罪マニュアル』というろくでもない本を読み……それをもとに『自分ならこうする』として、斬新かつ実現可能なミステリのトリックを書いてきた変なやつだ。もしあれを軸にして物語化し、ミステリ小説の新人賞……トリック最重視の
阿久津は碇や志築とちがって、読書家ではない。
『完全犯罪マニュアル』系の怪しげな本を斜め読みすることはあっても、小説は通年で1冊も読まないだろう。ネット、動画、ゲーム、睡眠で1日のすべてが構成されている、極めて健全な中学生だ。たしか、スマホはまだ持っていないはず。
中1のときには、感想文を「書き直させろ」と主張する他の先生たちから守って、なんとかその才能を生かす道に誘導しようと頑張ったのだが……まあ正直、ものにはしなかったと、その後を見て感じていた……
のだが……
思いつくのか……夢で……
トリックを……
俺は集中力が途切れていたこともあって、つい聞いてしまった。
「どんな夢を見ていたんだ?」
「え? それは森の中で
「瑞樹?」
漫画かゲームのキャラクターだろうか。
「あ、いや、なんでもないっす」
阿久津は、意味ありげな薄笑いを浮かべる。
だいたい、その笑いに意味はない。
中学生らしい、背伸びしたがるお年頃なのだ。
目を覚ましたクラスの面々は、ぼんやりと教室の時計を見上げている。阿久津が
志築は阿久津に対して、「またやってる」と言わんばかりに、呆れ顔をしていた。
そして碇は……
あれ?
阿久津の後ろで、碇は
その口元が声を発さず、確かめるように小さく動いた。
シヅキ……? いや、ミズキと言ったのか。
だから、ミズキって何なんだ……? 碇は知っているのか?
碇は、阿久津の背を見て、青い顔をしていた。
自分では願っても手に入らない、強烈な才能を見せつけられたかのように。
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